29.頑張れ
ベルが鳴った。
パネルを見てどこのテーブルが呼んでいるのかを確認し伝票を持って卓に向かう。
「生三つに軟骨唐揚げ……」
わたしは注文内容を復唱して厨房へ向かう。
注文を通してビールの準備をしていた時だ。
「あの席、結構注文するね。大丈夫?」
バイトの先輩がやってくる。
同い年らしいが乗っている人生のレールが違うため積極的に仲良くなろうとは思えなかった。
とはいえバイト先の先輩だ。不機嫌になられても困るので顔色を窺いつつそこそこ適当に流している。わたしの人生そんなことばっかりだなとふと思った。
「ああ、はい。特には。普通に感じの良いお客さまですし」
一応顔を上げて答えておく。
先輩は「お客さまって」と苦笑いをする。
「失礼します」
腰から曲げてお辞儀をしビールを持って席に向かう。
「流石お嬢……」
背後からそんな声が聞こえた。お嬢とは誰が呼び出したのか知らないがバイト先のわたしのあだ名である。
「お疲れ様です」
「うん。おつかれー」
バイト先の店を出ると深夜零時を過ぎていた。
歩道へ積もった枯れ葉を踏みながら帰路を進む。
見上げると秋ももう終わる頃のはずがまだ枝にしがみついている紅葉が多く残っていた。
寒いは寒いけれど着込むほどでも無いような日々が続いている。
ずっとこのくらいで良いのに、と思いながら徒歩十分の道を歩いて自室のあるアパートへと帰ってきた。
ひとまずシャワーを浴びて、冷蔵庫から夜食を取り出して机に向かう。
「次が……」
大学受験用の参考書をめくっていく。続きは昼間からの所でいいだろう。
夜食を摘んでからノートを取り出し罫線に沿ってペンを滑らせ参考書の内容をまとめていく。
過去のページを開くと詰まった文字列からボールペンの香りがした。
もう受験は四年前の話になる。所々解き方や覚え方、前提知識のところから忘れてしまっていた。
頭を抑え記憶の彼方から過去の知識を引っ張り上げる。
「……んあ」
気がつけば机に突っ伏していた。いつの間にか寝てしまったようだ。見ていた参考書が倒れて頭にかかっている。
スマホを見ると四時を過ぎていた。
限界かと立ち上がり、あくびをしながらベッドに潜った。
父と母の住む実家はわたしの家から電車で一時間無いくらいの場所にある。
今日は久々に家族と会う日だ。
電車に揺られながら暗記カードを捲っていく。
あの夏の日、村を離れたわたしはまず役所へと向かった。
何はともあれ生きていく上での必要なものを揃えないといけなくて、二十二歳の大した貯金も無い無職がアパートを借りられるほど日本は甘くない。
そこで住民票をもらい父と母に家族であることを説明して保証人を頼まないといけなかった。
「断ち切り様は人と人との縁のみを切られます。書類に残っているものは消えませんので住民票や免許証はそのまま使えるのでご安心を」
事前に神職の方からアドバイスをもらっていた通りわたしと父と母の名前が住民票には確かにあった。
その日のうちに再び二人に電話をして面会を取り付けた。初めは二人とも受け入れられない様子ではあったもののわたしと一緒に写った家族写真やアルバムを見て涙を流しながら信じてくれた。
「いらっしゃい紅ちゃん」
母が扉を開け出迎えてくれた。
記憶の中の母とは違う穏やかな口調。
──あなた、家を潰す気!?
ズバズバと言いたいこと言っていた母はもういない。
どこかよそよそしい母の姿は少し寂しくもあった。
「よく来たね」
今日は父も家にいた。
来るたびに偶然休みが被るほど休みの多い仕事では無かったはずなので、わたしが来る日に合わせて休みを取ってくれているのだろう。
「ただいま。ご飯、作るね」
道中買ってきた食材を手にキッチンへと向かう。
献立としては、ほうれん草のおひたし、鯖の塩焼きにお味噌汁。
ご飯から先に炊いておく。
エコバッグからほうれん草を取り出し、おひたしの準備に取り掛かった。
──まずほうれん草は切る前に下茹でね。それとほうれん草を切ったら、まな板と包丁は一度全部洗うこと。
鍋に水を張っていく。
至留のお母さんから教わったことがわたしの中で生きていた。激しい水音を聞きながら懐かしくて涙が出そうになり胸の奥が湿った。
「ご飯出来たよ」
「ありがとう。じゃあ食べようか」
家族揃って席に着いた。
あの日の夜のことを考えると奇跡のような光景だ。
「この間、二人で病院に行ってきたよ」
「どこか悪いの?」
「頭の検査を受けてきた。二人して娘のことをおぼえていないなんて、歳は怖いな」
父は項垂れたまま小さく首を横に振った。
断ち切り様のことは両親に話していない。信じてもらえると思えないし諸々の事情を説明しても余計混乱させるだけだと思う。
味噌汁を啜る。二人に合わせて薄めにした味付けの中で鰹節の香りが僅かに漂っていた。
「どうだったの?」
「特には、ただそもそも認知症というのは見つけるのが難しいらしい。医者からは定期的な通院をと言われた」
「そう。他の病気とかは無かったの?」
「それは大丈夫らしい」
「良かった」
わたしはほっと息を吐き出す。
父はどこかあれから更に老いたように見えた。
理由の一つに至留のお父さんに言われた通り事業の規模を縮小したことがあるかもしれない。
ただ、そのおかげで家計はあの頃のように火の車というわけではなくなったし、幸いそこで働いていた社員さんたちもどうにかなったようだ。
「鈴風さんには頭が上がらないよ」
「そう。あのさ……」
鈴風家の話になった時、至留のこともそれとなく聞いてみた。
どうして彼のことを知っているのか父は不思議そうにしていたものの、
「至留くんだったら確か、お父さんの会社をこの間、辞めたんじゃなかったかな。そんな話をしていたよ」
と言われ呆然とした。
「辞めた?」
「うん。何か側近をしていた秘書さんが居なくなってから仕事を上手く回せなくなったらしくて」
わたしの知る至留は起きている時間のほとんどを仕事と希優梨さんに当てていた。趣味らしい趣味もなかったと思う。
段ボールに入った捨て猫を見なかったフリをしたような気分だった。
「大喧嘩して家を出ていったとか。この歳で親子喧嘩するもんなんだなって。お父さん少し寂しそうにしてたよ」
「……そう」
「紅が彼の連絡先を知っているなら、寂しそうにしてたって伝えてあげて」
ゆっくりとした口調で語る父にううん、と首を横に振る。
「連絡先とか持ってないよ」
彼の存在はスマホから何から全て消していた。アドレス帳にもLINEにも残っていない。
お互いもう知らない他人同士だ。
昼食を食べ終えた母が、
「紅ちゃん料理上手ね」
と力無く笑いながら言ってくれた。
母らしくない気の抜ける話し方に「まだ、練習中だけどね」と素直じゃない返事をする。
「ううん。すっごい上手」
悲しそうな母の顔を見ていられなくなりわたしは立ち上がる。鼻が濡れてきてテーブルの上にあったティッシュを抜き取った。
「片付けしてくる」
「紅ちゃんはゆっくりしてて、後はやっておくから」
去っていく母の背中がどこか小さく萎んで見えた。体の芯のどこかが軋むように痛む。
断ち切ったものの大きさに潰されそうになる時が生きていると、たまに起こる。生理の日の夕方とかダルい客に絡まれた後の帰り道とか上手く勉強ができなかった日のベッドの中とか、全然関係ないなんでもない日常の瞬間に頭をよぎることもある。
そういう時、わたしは窓を開けて空を見る。
晴れなら晴れの、雨なら雨の、夜なら夜の空がそこある。
「紅ちゃん。落とし物」
振り返るとテーブルの側に立った母が暗記カードを差し出していた。
いつの間にか落としたらしい。
「ありがとう」
窓を閉めて室内へと戻る。
母は手にした暗記カードを目を細めてしみじみと眺めていた。
「こんなに覚えなきゃいけないの。受験生は大変ね」
「うん。でも毎日ちょっとずつだから」
「そう。がんばってね。お金はお父さんがどうにかしてくれるって言ってから」
「お金は必ず返すけど、ありがとう」
受け取った暗記カードをしまい、窓の外に広がる高く澄んだ空を眺めた。
覚えた単語が増えるたびわたしは毎日ちょっとずつ進んでいると思う。
「頑張れ」




