24.雨
「心配しなくても大丈夫です。俺すぐそこのコンビニで傘とタオル買ってきますから」
光くんが濡れて垂れた前髪の隙間からわたしの目を見て言った。
わたしは軽く口を開く。いかないでの声が出ないまま首を横に振る。
「でも、その靴じゃ走れないですし」
光くんはわたしの手を上から握って「すぐに戻ります」と誓い霧の様な雨の中へ走り出した。
咄嗟に掴もうと伸ばした手が空を切る。
濡れて黒色になったTシャツ。背中にプリントされた三と二の文字だけが暗がりの中に浮いていた。
「光くん」
雨音は激しくなりコンクリートの床に跳ねた水滴が靴先を濡らした。
一歩後ろに下がるとトイレの異臭が鼻をつく。
ふいに視界に入ってきたものにひっと喉の奥が震えた。
床に蝉の亡骸が転がっていたのだ。六本の足を折りたたみ腹を天井に見せている。軽くなった体がトイレへ吹いてくる僅かな風に揺られていた。
腕を握り蝉の亡骸から顔を背けて浅く長く息を吐き出す。夏が終わったんだと思い息が苦しくなった。
スマホが鳴っていた。画面に表示されていた至留の名前を見て背筋に冷たいものが這った。
「大丈夫」
わたしは使い古した言葉を口にする。
これでずっと上手くやってきた。
「大丈夫だから」
胃が絞られ気分が悪くなって、わたしは初めて至留からの通話を拒否した。
震える腕を抑えながらわたしは雨の中に飛び出す。頭を左右に大きく動かして辺りを見渡した。打ち降る雨は冷たくつむじを叩き、肩を濡らす。髪の毛の先まで水気を含み頭がずっしりと重たくなった。あっという間に全身がびしょ濡れになる。体が冷えたからか震えはより激しくなる。
目の奥は熱いし鼻の奥が痛いから恐らくわたしは泣いていた。
「光くん? 光くーん」
震えた声で名前を呼び闇の中に光る彼を探した。
水滴が唇で弾け口の中へと落ちてくる。水を吐き出そうとして口でパッと小さく破裂音を出しながら息を継ぐ。肺から空気が出ていくばかりで呼吸が上手く出来ない。辺りは暗く、空に光は見えない。酸欠で眩暈がしてきた。わたしは夜の公園で雨に溺れそうになっている。
「栄香さん!?」
暗闇の中、わたしは声のした方へと走る。
光くんが見えた瞬間、わたしは彼の体へ飛び込んだ。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
光くんの声が鼓膜を震わせ、洗剤の甘い香りが肺を満たす。光くんが生きている。それだけで良かった。
買って来てくれたビニール傘が裏返しになって地面に転がり、傘に当たった水滴が弾けてバラバラと音を出す。
「一旦……」
しばらくして光くんは傘を拾い上げて、また公衆トイレへとわたしを連れて歩く。
光くんは子供と話す時のように少ししゃがんで目線を合わせ「……どうしたんですか」と優しくわたしに聞いた。
どうもしていないので首を横に振る。一つの季節が終わりを迎えたというだけでこんなに感傷的になっている自分の方がおかしいなんて事は分かっている。
わたしは指先で目元の涙を拭って──。
「もっと強くならないとダメだね」
笑いながら光くんに言った。これ以上彼の前で泣きたくなかった。心配をかけたくない。明日からは彼と会えないのに、わたしはこれからどうやって生きていくというのだ。
光くんは眉間にしわを寄せ下唇を噛んで「不安にさせてばっかりで」と悔しそうに呟いた。
「車に戻りましょう」
濡れた光くんの腕をとって肩に頭を預けたまま冷たい夜道を歩いた。せっかく買ってきてくれた傘はわたしたちには何の意味もなかった。
車に乗り込んだわたしは買ってきてくれたタオルで頭を拭いた。座席には光くんがタオルケットを敷いてくれている。
無言の車内にワイパーの動く音だけが鳴る。行きとは正反対だ。
村の家々が見え始めた頃にはあれだけ激しく降っていたはずの雨が止んでいた。
車内に効かせた暖房のおかげか、タオルのおかげか、わたしはだいぶ乾いた。
先ほどからスマホが揺れている。きっと至留だ。怒っているのだろう。
──うるさい。
スマホの電源を切って顔を上げライトに照らされた道を見た。
わたしはその場所を知っていた。
「停まって」
光くんはわたしの方を横目で見て無言で頷き、道の脇に車を寄せる。
「こっち」
森の方へと続く小道にわたしは光くんの手を引いた。
スマホで道を照らしながらわたしたちは進んでいく。道のまだ見えない先の方から川のせせらぎが聞こえる。たまに雷鳴も遠くの方から聞こえていた。
足元の地面がぬかるんだ土から河原へと変わり、川の流れる音がいよいよ近くなってきた時だった。
わたしたち前を淡く緑色に光る点が横切った。
「わっ」
「へー」
少し遅れてその光は蛍が発したものだと気付く。生きて空を飛んでいる蛍の姿を初めて自分の目で見た。
「まだ光ってるんだ」
「綺麗だね」
「ええ、本当に」
光くんから手を離す。
わたしは手を後ろに組んで川の方へ進む。月明かりに照らされた水面のうねりが所々光って見えた。
「栄香さん?」
名前を呼ばれ、わたしは歌うように「なーに?」と歩きながら返した。
靴と靴下を脱いで立つ河原はやっぱり少し痛い。
足先にぬるりとした水が触れる。分かっていたのに体は水の冷たさに強ばった。
「ちょっと……」
背後から聞こえる光くんの声。
砂利を踏み締めながら駆けた音がして、
「いかないで」
と背中から抱きしめられた。
前の方へと伸ばされた腕が陸地へ引き戻すようにわたしを包む。背中から光くんの体重と体温を感じる。寒かった体の奥底から熱が湧き上がった。
「行かない。行かないよ」
わたしはお腹の方へ回されている光くんの腕に触れる。
「本当に?」
後ろからわたしの頭の横に顔を出して覗き込んだ光くんの涙目になった顔が見えた。
わたしも頭を動かして目を合わせ「本当」と答える。
「……あの栄香さん」
一度そこで区切り光くんは唾を飲んだ。耳まで赤らめて緊張した様子に、もしかしてと思う。
上がった心拍数がさらに上がる。ばくばくと胸の奥から聞こえてくる。熱い。わたしの顔まで赤くなっているかもしれない。
「なに?」
光くんが背中から離れた。
わたしは光くんを追うように川の中で足を動かし振り返る。
光くんは俯いていた。
「……あの!」
光くんが顔を上げ、今にも泣き出しそうな顔でわたしの目を真っ直ぐ見つめる。
「おい」
ふいに光くんの背後で人影が揺らぐ。どすの利いた至留の声がした。
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Xの方でも投稿させて頂きましたが、改めて明けましておめでとう御座います!
2026年もよろしくお願いいたします。
ここからクライマックスに向かいます。次話は少し時間が空くと思いますが気長にお待ちいただければなと思います。
また、タイトルと内容(特に1話)の方に修正が入ったことをご報告させていただきます。




