2.光
「あぁ、村長だったら公民館にいると思いますよ。そこを真っ直ぐ行った所の建物です」
農作業中に声をかけたわたしに村民の方は快く村長さんのいるらしい所を教えてくれた。
わたしは日傘の下で頭を下げ村民の方が指差した方向を見た。遥か遠くにポツンと小さな一軒家がある。
「あれでしょうか」
「あーいや、あれは違うね。もっと先、まー行ったらわかりますよ。分からなければ誰かに聞けば良いですし」
わたしは「ありがとうございます」とお礼をして取り敢えず言われた方向へと進んでみる。スマホの地図には公民館と書かれた建物はなかった。頑張って表札から見つけるしかなさそうだ。
「大丈夫なのかな。この道で」
言われた通り進んでいると道は深い森の方へと続いていた。ここからは上り坂で、先は見えない。
森の中は木々が日差しを遮っていて仄暗い。吸い込んだ空気は冷たく澄んでた。
均された土の道を進んでいく度、周囲の気温が少しずつ下がっているように感じる。
日傘を閉じて周囲を見渡す。聞こえるのは遠くからの蝉の声だけで人の気配は全く無い。
──この道であっているのか誰かに聞かないと。
通って来た道を振り返りポツンとある一軒家の方へ引き返そうか迷った。
知らない人に話しかけるのは中々に勇気がいる。家のチャイムを鳴らし、出てきたら挨拶をして、聞く。それだけの気力が今、無い。
諦めて歩こうとした時だ。
「あっ」
途中で見かけた金髪の学生がちょうど見ていた家に入っていった。一瞬、こちらを見ていたような気がしたが、声をかける間もなく、自転車で庭の方へと吸い込まれるように消える。
「え」
家の方を見ていると彼が門の所から顔だけ出した。ジッと家を見て変な女だと思われたのだろうか。
──実際、かなりの不審者だよね。
わたしは日傘を差して再び日差しの元へと戻り学生の方へと歩く。
その学生は門から出て道の方に立ち開口一番「森に妖怪がいるかと思った」とぶっきらぼうな調子で言った。怪訝そうな表情でわたしの様子を伺っている。警戒しているようだ。寝癖のように乱れた金髪に黒の眉、鋭い目つき。不良っぽい見た目の割に慎重な性格らしい。
「こんにちは」
「なんの用?」
「村長さんに挨拶したくて公民館の場所を探してるんだけど…」
「公民館? ここからだと遠いよ」
「そう。どれくらいかかるの?」
「その靴で歩いたら一時間くらいだな」
わたしの履いている厚底のサンダルを呆れたような目で見ていた。
彼の別荘という事しか知らずブーツもスニーカーも持ってきていない。観光用の避暑地かと思っていたので、まさかこんな自然豊かな場所だとは想像していなかった。これでもまだ歩きやすいサンダルに履き替えている。それでも既にかなり疲れていて、さらにここから一時間歩いて別荘まで帰ってくるのは厳しいだろう。
わたしが諦めようとした時だった。
「車」
「え?」
「車出そうか」
突然の申し出に困惑するわたしにその学生はムッとした表情で「免許は持ってる」と財布から免許証を取り出しこちらに突き出して見せてくる。
確かに免許証はあるが、そういう問題ではなく、わたしは首を横に振る。
「申し出はありがたいんだけど、わたしお付き合いしている人がいて車はちょっと」
遠回しに断る。彼に変な勘違いをさせてもいけないし、そもそも初対面の人の車に乗れるほど肝が据わっていない。
それにわたしと至留は付き合っている。相手が学生とはいえ異性と二人きりで密室になるような場所は避けておきたかった。たとえ彼がわたしの方を見ていなくても。
──こんな関係で、どっちが愛人かわかったものじゃ無いのに。
地面に目を落とす。
それと彼の声が聞こえたのはほぼ同時だった。
「…いやっ、あのっ、ナンパとかじゃなくてっ!」
慌てたような言い方に顔を上げると学生が顔を真っ赤にして、たじろいでいた。
先程まで生意気な態度だったのに、わたしは彼の変わりように思わず吹き出して笑った。
「…もう良い。分かった」
拗ねたような口調で言って彼は家の方へと走って行ってしまった。
申し訳ない事をしたな、とわたしは日傘の影に隠れ、思う。
もし乗っていたら、あの自転車のように風を切って力強く前に進んでいく車に揺られていたのだろうか。
──ここから一時間なら、仕方ない。
わたしは森から反対の方を向く。
来た道を戻ろう。
「ん!」
背後から声がして振り返る。彼が自転車を押しながら門から出てきた。
「乗せてくれるの?」
彼は首を傾げながら自転車の後ろの荷台を見る。
「俺は良いけど、ダメなんじゃないの?」
「うーん。どっちかといえば密室がダメかな」
わたしとしては連れて行ってくれるのなら助かる。どうやらナンパ目的でも無さそうだし。
もちろん、自分で漕げと言われたら少しお借りして、公民館まで行ってくるつもりではあるけど──。
──迷わないか少し心配なんだよね。
「じゃあ、乗って」
彼は自転車にまたがったまま、顎で荷台の方を指す。
「失礼します」
わたしは日傘を閉じて後ろの荷台に体を横に傾けて座った。
学生の頃にも二人乗りはしたことが無いので初めての経験だった。
自転車に乗っているのに足が浮いている。不思議な感覚だ。
「掴まっててね」
彼がサドルから立ち上がり、ペダルを踏み込む。
自転車の動き始めに大きく揺れてわたしは咄嗟に彼の制服を掴んだ。
やがて自転車はぐんぐんとスピードを上げて行き、わたしが入りかかった森の方へと進んでいく。
──やっぱり、こっちであってたんだ。
わたしたちはどんどん森の奥へと進んでいく。森へ木漏れ日が細い光の柱となって降り注いでいた。
顔を横にして彼の方を見る。
体を大きく左右に揺らし、前へ前へと力強く進んでいく。
──パワーあるなー。
さすが、男の子だ、と見上げた彼のうなじに汗が滲んでいた。
「大丈夫、重くない?」
「重くはないっけど」
「けど?」
「重心が後ろに引っ張られてる」
言われて、はっとした。
わたしはもう少しだけ彼の方へと体を傾ける。
「あぁ、だいぶマシ。あと、もうすぐ下り坂になるから気をつけて」
短い警告の後、カッと視界が明るくなった。
瞼が小さく痙攣し目をほとんど開いていないくらいまで細める。どうやら森を抜けたらしい。
見てなくて、触れてもいないのに、彼の背中から大きく息を吸ったのだと分かった。生きている人がわたしのすぐそばにいる。それだけで何故だか少しだけ安心できた。わたしはゆっくりと目を開く。
「ぅわ…」
色鮮やかな夏の田舎の景色が目に飛び込んでくる。空も山もここにある全てが確かに生きていた。整備された公園や等間隔に植えられて咲く花じゃなくどっしりと構えている。
──眩しい。
夏だと言うのに涼しく感じるほどの風を浴びながら、わたしは片手で彼の制服の裾を掴みもう片方の手で暴れる髪を抑える。彼は下り坂だと言うのに一切スピードを落とさず風を切って坂を駆け降りていくので風がわたしの髪を大きく揺らすのだ。
風に乗って田んぼの稲の香りがした。お米のような甘い香りと草の青臭い匂い、それと泥の匂いだ。
「お姉さんは新しく引っ越してきたの?」
下り坂が終わり、自転車は細い用水路に沿ってゆっくりと進んでいく。青々と茂った道端の雑草がわたしの知っているものよりも力強く生き生きとしているように見えた。
「んーん。彼氏の別荘がこっちにあって夏休みの間だけ」
「なーんだ違うのか。でも別荘って凄いね。あぁ、鈴風さん家の別荘?」
「あっうん。そう」
どうやら至留の別荘は有名らしい。
村から離れたところにあるので別荘の持ち主まで知られているのは少し意外だった。
「大きいよなー。あの屋敷」
「うん。でも、今日来たばかりだから、まだ中はちゃんと見てないんだ」
「へー。あれだけ大きいと見て回るのも大変そう」
そうかも、と言ってわたしは口元を綻ばせる。
自然と笑っていた。至留がいる時の口角を引っ張り上げるような笑みじゃない。
──今、久々にちゃんと話をしている。
話題を振っても「あぁ」とか「うん」とかしか帰ってこない至留とは違う。これが本来あるべき姿のコミュニケーションだと思う。会話はキャッチボールだと言うけれど、壁に投げるボールよりも、投げたボールを捨てられる方が、より悲しい。
「着いたよ。これ」
自転車が道端にポツンとある民家みたいな建物の前に止まった。
「ありがとう。お疲れ様」
「ん」
彼は照れたように顔を逸らし短く返事をして制服の袖で汗を拭う。
あっとわたしは思わず声に出していた。
服の袖で拭くのは肌に悪いし汚い。
「これ使って」
ハンカチを差し出すわたしに彼は目を丸くしながらおずおずと受け取った。
公民館は古民家らしい雰囲気のある横開きの扉だった。
──チャイムは。
壁の方に目をやるわたしの前で彼は扉に手をかけ勢い横に引く。鍵はかかっておらず、そのまま扉が開いた。
固まるわたしの前で彼は玄関まで入って行って、
「村長さーん! お客さーん!」
彼の大きな声が公民館に響いた。
「はいはいはいー」
少し掠れているけれどはっきりとした声が廊下の奥から返ってくる。
驚いたけど、どうやらこれであっているみたいだ。
「ん」
これで良いかとこちらを見る目が語りかけてくる。
わたしは目を細めて微笑んだ。無愛想に振る舞っているのに、優しいところが見え隠れしているのが面白かった。
「うん。ありがとう」
「うっす」
彼は小さく頷いてから公民館の扉の方を見た。
「あれ光くんと誰だろ」
声がする。
見ると扉の所に背の曲がった初老の男性が立っていた。
不思議そうな表情でわたしの方を見ている。
わたしは姿勢を正して、
「初めまして。この夏の間、近くの別荘で過ごさせていただく栄香紅と申します。何かとお世話になるかと存じますが、どうぞよろしくお願いします」
とお辞儀をする。
菓子折りでもあれば良かったが生憎と持ってきていなかった。
「あーわざわざ、どうもありがとうございます。どうぞ、ゆっくりしていって下さい」
村長さんは深々と頭を下げてお辞儀を返し「光くん。せっかくだし村を案内してあげなさい」と彼に声をかけた。
今更ながらわたしは彼の名前が光である事を知った。
「案内ってどこ案内するんだよ。何もないよ、ここ」
「ザッーと一周くらいはさ。何もなくても良い村だから。色々と都会の人には珍しいかもしれないし」
光くんが横目でこちらを伺っていた。
わたしは頷く。日が暮れるまでにはまだ時間があり、屋敷に戻った所でやる事もない。
だったら村の紹介を受けてみたかった。
「ほら、断ち切り様の所とかさ」
村長さんが聞きなれない言葉を発した。
光くんは「はいはい」と答えながら道端に止めた自転車の方へと向かう。
わたしのその背中を追いながら「断ち切り様」と耳に残った言葉を一人呟いた。