17.通話
至留とドライブに行った翌日、朝食の片付けを終えて寝室で読書をしていると部屋の扉が開いた。わたしはクッションに座ったまま本を閉じて顔を上げた。至留が部屋に入ってくる。手に何かの冊子を持っていた。
昨日の事もあって緊張するわたしに至留は「これ」と冊子を差し出す。
「入社の時に渡してる新人教育マニュアル。今のうちに読んでおいて」
薄い冊子を受け取りながら読みかけの本の事が一瞬、頭をよぎった。
きっと、ここに来る前の至留の家で帰りを待つ日々のわたしだったらこのマニュアルも全文を暗記できるほどに読み込んだと思う。
でも、今は──。
「はい。読んでおきますね」
「それと手伝ってほしい所あるから読んだ後、リビングに来て」
冊子を持つ指に力がこもる。
なんでそんなに勝手なのだろう。
強く言ったら従うと思って舐められてるんでしょ、ともう一人の自分が言う。
その通りで、項垂れた。
「敬語の事とか返事の事とか書いてあるから、しっかり読んでおいて」
沈んだ気分に追い討ちをかけてくる。身を守るために丸めた背中を蹴られるようなとても惨めな気分だった。
それでも重たい頭をなんとか押し上げ「はい」と目を見て答えた。
至留の前で泣きたくない。ただそれだけの強がりだ。
至留が部屋から出ていってから渡された新人教育マニュアルを読んだ。
読めば読むほど文字が目を滑っていく。次第に眠くなってきて最後の方のページは軽く見て読み飛ばした。
読んだ事をリビングに居た至留に伝えると、
「じゃあ、次は新人教育でやってるエクセルの研修用。これやってみて」
ノートパソコンを渡された。
言われるがままにフォルダを開く。
番号付けされ、ずらりと並ぶ研修用の文字に頭が痛くなる。
これはいつ終わるのだろう。
一つフォルダを開いて、すぐに分かった。これは少なくとも今日中に終わるようなものじゃない。良くて数日、もし長引けば別荘から帰る日まで。
頭の中で光くんの[待ってます]というメッセージの文字列が思い浮かぶ。
「俺は親父のパソコン借りて仕事してるから何かあったら読んで」
「あの、お家の事もあるんですけど」
「別に良いでしょ。親にやって貰えば」
「……親にやって貰えば?」
「何? 頼めば出来るでしょ、それくらい」
至留が誰に頼めば出来ると言っているのかわたしには全く分からない。
去っていく至留の背中を見つめながらわたしは下唇を強く噛んだ。
それでも、頑張るしかない。わたしはパソコンの画面を見つめ作業を始めた。
幸い、大学生の頃に触っていた事もあり初めの方の作業は順調に進んだ。
リビングの扉を開く音がした。
顔を上げると窓から赤い光が差し込み、部屋全体が薄暗くなっている。
「あらー紅ちゃん。どうしたの? 何か調べ物?」
至留のお母さんの声がして、ようやくそこで夕食の準備をすっぽかした事に気づく。
背筋が冷えた。
慌てて立ち上がり「いえ、すみません。夕食の準備すぐします」と言いながらキッチンへ走った。
「あらま」
背後から気の抜けた声がする。
エプロンをつけながら見たテーブルには出しっぱなしになったパソコンがある。
あれも片付けないといけない。でも、まず最優先は夕食の準備だろう。
──頼めば出来るでしょ。
至留の無責任な言葉が頭に浮かびイラついた。
せめて作るのを手伝ってから言ってほしい。
リビングの扉がまた開いてやってきたのは至留だった。
至留はそのまま歩いてテーブルに出したままのパソコンを眺めた。
ささくれだっていた心が急に日影のコンクリートみたいに平たく冷たくなる。
至留が固まったわたしの方を見てからノートパソコンの画面を閉じた。
「終わってないの?」
言われてないのに、そう言われたような気がした。
ごめんなさい、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
わたしは肩を落として夕飯の準備を進めた。
リビングの方では、わたしの母と至留のお母さんが何やら話をしていた。
二人の笑い声が聞こえるたびに、ひとりでキッチンに立っていることが一層虚しく感じられ気分はさらに沈んでいった。
「おー歩いた歩いた」
リビングの扉が開き、首にタオルをかけた至留のお父さんが入ってきた。
手を動かしながら時計を見ると、いつもより三十分は遅れている。
「紅ちゃん、夕食少し遅れるそうよ」
「じゃあちょうど良いな。風呂入ってくるよ」
至留のお父さんが再び出て行く。
お風呂から戻ってくるまでには絶対間に合わせないと──。
「痛っ」
包丁が掠めた肌から赤い点が徐々に膨らんでいく。
切れた指がじんと痛んだ。
水で血を洗い流しティッシュで傷口を抑えながら何も上手くいかない今日に涙がこぼれそうになる。鼻の奥が熱い。
「大丈夫」
ゆっくりと息を吐き出して切り替える。
タオルで指を拭いてまな板に残った食材も切っていく。
コンロの方からジュッと音がした。湧いたお湯が鍋の淵を超えて噴き出していた。
「「あはははは!」」
リビングに二人の甲高い笑い声が響く。
火の消えたコンロを見下ろしながらわたしは「……きつい」と声に出ていた。
至留のお父さんが再びリビングに入ってくる。
「良い匂いー」
わたしはなんとか間に合わせた夕飯をテーブルへと運びながら「お待たせしてすみません」と軽く頭を下げた。
それから夕食の片付けを終えたわたしはお風呂が空くまでの時間に研修の続きをする。
途中、リビングでは会話の音やテレビの音がうるさくて集中出来ない為、パソコンを持って寝室の方に向かう事にした。
いつも寝室に入るとスマホを確認していたからか、その日も扉を閉めてなんとなくスマホを取り出す。
[今、光くんひまだったりする?]
メッセージを送ってから、また研修作業をするためパソコンを開く。
この時間なら光くんは家に居るから返信も早い。でも、今日は少し早い時間に連絡したからちょっと待つかもと思いつつキーボードの上で指を動かしているとすぐにスマホが揺れた。
光くんからだった。
[暇ですよー]
三分ほど悩んだ末に[じゃあ、今から通話かけても大丈夫?]と送った。
机の上に置いたスマホの画面を見つめ返信を待つ。つい癖でいつの間にか強く腕を握り締めていた。
[全然大丈夫です!]
メッセージが送られてくる。
わたしは息を吸ってから、えいっと勢いに任せ通話のボタンを押した。呼び出し音が鳴り出す。
気まずい間が生まれ、
「はいー」
と光くんの声が聞こえた瞬間、体から力が抜けた。
腕を握っていた手が解けて落ちる。
スピーカー越しの光くんの声は少しざらついているのに、いつもより近くにいるように聞こえた。
「光くん」
声を抑えてわたしは彼の名前を呼んだ。
「はい?」
「なにしてたの?」
「今ですか? 夏休みの宿題やろうかなーって」
「そうなんだ。結構残ってるの?」
「いえ、全然。これくらいなら最終日オールすれば間に合うと思います」
「そうなんだ。わたしも学生の頃オールとかしたなー」
「あの、栄香さん」
「んー?」
「どうしたんですか。急に通話しようなんて」
光くんの柔らかな声に言葉が詰まった。
確かに、急だったかもしれない。今までずっとメッセージのやり取りだけで、声が聞きたいと心が揺れた時も我慢していた。
──今日、何も上手くいかなくて。
ああ、そうか。
情け無いなわたし。
一人で勝手に落ち込む。気分は萎れた草のようだ。
「……なんとなく?」
ノートパソコンのモニターを閉じる。
素直じゃない自分に頬が引き攣っていた。
「なんとなく、ですか」
「まっ今日はちょっと早い時間から暇になったからねー」
「暇になって、なんとなく声が聞きたくなったんですか?」
「えっ? えー?」
思わず声が高く跳ねた。
どう言う意図でそれを言ったのか、揶揄っただけなのか、でもそんな事するようなタイプじゃないし。色々な思いが胸に溢れてくる。そのどれもが温かく、むずがゆい。
「まぁ、そうかも?」
口の端が上がってしまいそうになる。
スピーカーからは光くんの笑い声が聞こえた。
「栄香さん。明日暇な時ってありますか?」
閉じたノートパソコンを見下ろす。
「あるよ。二時過ぎから少しだけ、だけど」
その時間ならお母さんたちが街の方にあるジムに出て行くからだ。
光くんは「じゃあ!」と素直に声を弾ませる。
「その時間に迎えにいきます」
「うん。あっでもチャイムは押さないでね」
「はい。また着いたらLINEします」
うん、と答えながら部屋の扉の方を見た。
木の扉はしっかりと閉まっている。これなら声が漏れていた心配も無いだろう。
スマホの時計を見て、ふとお風呂の事を思い出した。
「じゃあわたし今からお風呂入ってくるから。明日、待ってるね。おやすみ。光くん」
「はい。おやすみなさい」
光くんとの通話を切って、わたしはノートパソコンを立ち上げた。
うっすらと眠気が身体中を満たしている。
でも、とあごに力を入れてあくびを噛み殺す。
明日の二時までになるべく研修を進めておかないといけない。頑張ろう。
再び戻ってきた集中力を糧に背筋を伸ばす。わたしはその日、お風呂に呼ばれるまで作業を続けた。
翌日の午後二時。
庭の水撒きをしていた時だった。
塀の外からチリンチリンとベルの音が聞こえて、わたしはそっと裏口へ駆け出した。




