13.古墳
別荘の掃除を終え、わたしはリビングに戻った。
至留はテーブルでノートパソコンの画面を見つめていた。キーボードの上で指が忙しなく動き、打鍵音が淡々と部屋を満たしていく。
「散歩、行ってきます。古墳の方にも寄ってみますね」
「ん」
相変わらずのおざなりな返事に静かに頭を下げる。影の中で頬が引き攣っていた。
昨日、結婚の話を一緒に進めたはずなのに至留はいつも通りだ。
別荘を出て古墳がある方向へ進む。
しばらく田んぼの脇道を歩いてから林道へ入った。
「光くん!」
木陰の下に立っていた光くんへわたしは手を振った。
近くにはいつもの自転車が停めてある。
「栄香さん」
顔を上げ小走りで光くんが駆け寄ってくる。
金色の髪が木漏れ日を浴びながら揺れる。わたしの目には光くんが儚く見えた。
「あの、お久しぶり、です」
ぎこちない目線にわたしは首を傾げた。
そんなにお久しぶりでも無いし、突然距離を取られるのは少し傷つく。
何かしたかな、と目を瞑って考え、沈んだ唇の感触を思い出す。
──キス、したんだ。
指が無意識に自分の下唇を触っていた。
思い返してもあの日の行動に後悔はない。また会えたから良かったけど、あの日で光くんと離れ離れになる可能性も確かにあっただろう。
でも──。
「この前の事……光くんは嫌だった?」
もし、そうだったらと思うとズボンの端を握っていた。
光くんは「いえっ」と首を横に強く振る。
「嬉しかったです」
はにかむように光くんは笑った。
その笑みが胸の奥にじんと染みてわたしのどこかで張っていた緊張の糸が解れて弛む。
気がついた時には既に小さく笑っていた。
「わたしも」
口元が自然と緩んでいく。声に出すとより一層深くそう感じる。
心臓がトクトクと早まるこの感覚に合わせ、頭のしばらく使われていなかった部分も動き出す。
「またしようか?」
そう口にしてから辺りを見渡した。
周囲に人の気配はないし車の通る道からも遠い。もし買い出しに出かけた至留のご両親に見つかったら大変なことになるだろう。
それでも良い、と思うわたしに光くんは唇を軽く噛んで「恥ずかしいんで」と小さく笑った。
「そっか。うん」
頷いて光くんの腕を取る。
わたしたちは言葉を交わさないまま森の奥へ進んでいった。
夏の日差しが木々によって遮られ、周囲はひんやりとしている。
並んだ木々に隠されたこの場所は二人きりの個室席のような秘密めいたものがあった。
せめてここだけでも、こうして繋がっていたかった。
「これが、古墳?」
山の中にあった平原の片隅に土が剥き出しになっている所があった。そこは周りよりも少し凹んでいる。発掘調査の後なのだろうか。
側にしゃがみ、凹んでいるところを上から覗く。
平された黒い土の表面は僅かに湿っていて、濃い土の香りがした。
中に土偶の一つでも転がってないかと探したけれど特に珍しい物は見当たらなかった。
立ち上がり古墳の周りを軽く一周する。
光くんの所へ戻ると、
「栄香さんって古墳に興味があったんですか?」
と聞かれた。
「ううん。無い」
言い切るわたしに光くんは不思議そうに目を瞬かせていた。
「……まぁ、ここはこれだけですね」
光くんが古墳に目を向けながら言う。わたしも合わせて古墳を眺めた。
土と石の飛び出た地面。これ以外は無いらしい。
じゃあ至留は一体わたしに何を見せたかったのだろうか。
「よく、分からない」
「歴史的価値がちょっとあるってだけですから」
「やっぱり光くん的にもここは無しなんだ」
「はい。ここの写真は撮って無いです」
「ここ映えなさそうだもんね」
光くんは笑いながら「そうですね」と答えた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
スマホの時計を見ると別荘を出てもうすぐ一時間経とうとしていた。
「帰らないと」
「今日は早めなんですね」
「色々あって」
「そうですか。まぁ色々ありますよね」
お別れを前にわたしたちの間で湿っぽい会話が続く。
木陰に置いたままだった光くんの自転車が見えてきた。
この腕から離れたく無かったけれど、わたしを至留の元へ引き戻そうとする見えない力はどうしようもないほどに強い。
「そうだった。今度、お昼ご馳走してもらったお礼に菓子折り持って行くから」
パッと腕から離れて、寂しさに抗うようにわたしは声を弾ませ言ってみる。
「本当に栄香さんは何も気にしなくて良かったのに……でも、はい。待ってます」
「待ってて。また行くから」
光くんはそれにゆっくりと深く頷いた。
じゃあ、と軽く手を振って別荘の方へ歩き出す。
こんなに寂しい感じのお別れにするつもりは無かったのに、とひび割れたアスファルトを見ながら思った。
林道の静けさは周囲から無くなり、照りつける太陽と蝉の声が聞こえた。いつも通りの午後にまた戻る。
ふとスマホに通知が鳴ってバッグから取り出した。
[待ってます]
光くんからだ。
フッと小さく笑ってわたしは大袈裟なくらい元気な[はいっ!]のスタンプを送る。
時間を見ると四時を過ぎていた。
急ごう。わたしは別荘へ帰る足を早める。顔を上げると空はまだ鮮やかな青色をしていた。
「ただいま帰りました」
玄関の扉を開けると廊下の先から突然、怒鳴り声が響いてきた。
肩に力が入ったまま声のしたリビングの扉をそっと開いた。
「テーブルの書類をまずは片付けなさい」
至留のお父さんが至留のテーブルの側に立ち腕を組んで険しい表情をしている。
先ほどの怒鳴り声もどうやらお父さんのようだ。
扉に手をかけたまま立ち止まる。
見るとテーブルの上にはノートパソコンの他にファイルや紙の束が散らばっていた。
別荘を出るときには無かったので至留が散歩のあいだに自分で出したのだろう。
「今、その書類を見ながらやってる。全部必要なものだから」
ノートパソコンから顔を上げ至留が机の上の書類を強く叩き言い返す。
「これも? これも? 全部必要なのか?」
捲し立てるようにお父さんは言って至留の目の前で紙を揺らした。
至留は鬱陶しそうに顔を逸らし「だから、そうだって」とため息を吐いて投げやりに言う。
「そんな訳ないだろ。デスクが汚い社会人は大体、仕事もいい加減だし。まずは綺麗に、本当に必要なものだけにしなさい」
「だから……!」
至留が舌打ちをして髪を乱暴に掻いた。
全部必要だと答えた至留に対し本当に必要なものだけ残せとお父さんは言う。
そもそも至留の話なんか聞いていないのだと思った。お父さんにとってはデスクの上にたくさん書類があることが目障りなのだろう。
「至留、お父さんの言った通りにしなさいよ。片付けは社会人の基本でしょー。ほら、片付けてあげるから渡しなさいな」
ソファーの方からやった来た至留のお母さんがお父さんの横に立った。
二人の視線が座ったままの至留へ向かう。
誰も話を聞いてくれない。これでは至留の苛立ちも収まらないだろう。
家族の中で誰も味方になってくれない。
至留はただ苦しそうに肩を落として項垂れた。
「あの、至留くん」
至留のご両親がわたしを見た。視線が矢のようになって胸に刺さり呼吸が上手くできなくなる。
一番関係ないわたしが出しゃばって、と思われているかもしれない。
喉のところで言葉が詰まり、次の言葉が出てこなくなる。
「なに?」
顔を上げた至留の目の端がわたしには薄く光っているように見えた。
ここで動かなくてはと自分の手を強く握りしめる。
「書類、わたしが整理をして預かりますよ。言ってくださればすぐに渡しますので」
至留が軽く目を見開いた。僅かに視線が揺れて迷っているようにも見えたが「……うん。じゃあ頼む」と書類をわたしの方へ寄せた。
わたしは至留から素直な答えが返ってきたことに驚きながらも書類へ手を伸ばす。
「ありがとう。紅さん」
「いえ」と答え顔を上げると穏やかな表情のお父さんがわたしの目を真っ直ぐ見ていた。
目尻の下がった柔らかな表情は、どこかわたしのお父さんに似ているような気がした。
「やっぱりあの子じゃなく紅さんの方がいいんじゃないか」
「その話はもう紅としてあるから」
「そう、か」
至留のお父さんの声が少し弾んでいたように思えた。
「紅。これはすぐに使うから、上の方に出しておいて」
「はい」
「こっちはもう要らないや。ファイルにしまっておいて。インデックス見たらわかると思うから」
「あの、インデックスってなんですか」
至留がこちらに手を伸ばす。
ファイルを渡すと、
「この飛び出てる奴の、このスペースの空いてる所ね」
とファイルについたタグを見せながら言った。
はい、と頷き言われた通りにしまっておく。
「紅ちゃん。お夕飯のことは気にせずにね」
「ありがとうございます」
キッチンで夕食の準備をする至留のお母さんへわたしは頭を下げた。
至留のお父さんが見ているテレビから熱のこもった実況中継の声が聞こえてくる。
至留はあれからずっと仕事を続けていて、わたしは手に持った紙を眺めた。
「さっきの紙ちょうだい」
書類を至留に手渡す。
いつも通りに「ん」と返事が返ってきた後に、
「ありがとう」
の一言が添えられた。
口の端が上がりそうになり唇に力を入れて固く閉じた。
仕事の癖で出ただけかもしれないけど、それでもやっぱりあると嬉しい。
「おっいい匂いがしてきた」
至留のお父さんが独り言を発していた。
いつの間にか気づけばキッチンから香ばしい海鮮の匂いが漂っていた。
「さっきの書類、見せて」
至留に呼ばれファイルを開いた。
至留のお母さんがわたしたちのいるテーブルへ静かにお皿を並べていく。
わたしの前にも白いお皿が置かれた。
その瞬間だった。
この鈴風家の別荘に来て初めて、ここにわたしが居ても良いのだと思えた。
ただの思い込みかもしれないのに、目の奥が熱くなり、危うく涙がこぼれるそうになる。
唇を噛んで小さく息を吐く。
体の底から柔らかな暖かさが湧き上がってくるのを感じる。
けれど、同時にこのまま進んで大丈夫なのだろうかという土の底みたいな固く冷たい疑問も浮かんだ。
──分からない。
わたしはその疑問から、しばらく目を逸らし続けた。
再び直視する事になったのは、わたしの両親が光くんと村長さんへの菓子折りを持って別荘へやってきた日のことだった。




