12.子供
「じゃあ、後をよろしくね。紅ちゃん」
はい、とわたしは頷く。
至留のご両親がリビングの扉を開けた。一度部屋に戻るそうだ。
「俺も風呂入ってくる」
椅子から立ち上がり至留もリビングから出ていった。
残されたわたしは一人、キッチンで洗い物をこなしていく。
お皿にぶつかった水の音がリビングに響き、わたしに返ってくる。
電気の消えたリビングを見渡した。
暗い部屋のテーブルに汚れたお皿、泡の跡がついたグラスが残り、わたしたちの食事の跡が散らかっていた。
人のいなくなったリビングを見ていると一人教室に取り残されたような気分になる。
スマホに触り、また伏せて置いた。メッセージは来ていない。
テーブルの拭きあげをしていた時だ。
リビングの扉が開き、寝巻き姿の至留が入ってくる。
「お水、飲みますか?」
「ああ、頼む」
至留はスマホから顔を上げてわたしの方を見た。
今日はよく至留と目が合う。珍しい。
至留が椅子から立ち上がり、ゆっくりと息を吐き出した。
わたしは冷蔵庫から飲料水を取り出しコップに注ぐ。
「あのさ」
指に伝わるペットボトルの振動とコップに落ちる水音の中で至留の声がぼやけた。
至留の真剣な声のトーンに自然と体に力が入る。
「結婚の話。ちゃんと話そうか」
あっ、入れすぎた、とコップの縁で揺れる水面を見ながらわたしは思った。
心臓が早く、強く、動く。
ゆっくりとコップを傾けてシンクに流す。しばらく落ちていく水を眺めていた。
「大丈夫」
「え?」
笑顔を作ってシンクから顔を上げる。
テーブルに手をついたまま目を丸くして固まった至留の顔が見えた。
コップを持ってキッチンから出る。
「わたしは大丈夫ですよ」
至留にコップを渡す。
そう、と至留は水面を見ながら呟く。
それから水を一気に飲み干した。
「紅、バイトしたいって言ってたよね」
「はい」
「俺の部署に正社員で入る?」
突然、どういう風の吹き回しだろうか。眉間にしわが寄る。
いや、違う。お父さんだ。
至留はお父さんに逆らえないから。
「でも職場にわたしがいると希優梨さんは嫌がるんじゃないでしょうか」
至留はテーブルへ目を落とし、「良いんだ」とため息みたいな声で答えた。
「もう仕事辞めるらしいから」
咄嗟に言葉が出なかった。
至留が気に入っていたあの愛人を自ら手放すとは考えられない。
じゃあ、どうして。
「親父も、希優梨さんにはあんまり良い顔してなかったし」
ああ、そうか。
わたしは至留のお父さんに認められて、ここにいる。
至留は口を開けば親父が言ってるからと言う。きっと、これから至留との先はない事を自ら悟ったのだろう。
「今日突然言われたよ。前から考えてたらしいけど」
至留は椅子に再び座り、手で額を抑えて俯いた。
少し伸びた至留の前髪が垂れて顔に深い影を落としている。
「それは少し、寂しいですね」
「うん」
「お水、持ってきますね」
わたしは空になったコップを持って再びキッチンに戻った。
冷蔵庫を開ける。食材と白い滑らかな壁が視界いっぱいに広がっている。顔に冷気を浴びながら、わたしの口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「やっと……」
至留の隣が空いたらしい。
薄く笑い、それを遮るように冷蔵庫の扉を閉めた。
棚から自分の分のコップを取り出し二つのコップに水を注いでいく。
ほぼ同じ量の水を注ぎ、片方を至留に渡す。
わたしは至留の前の席に座った。
「色々と至留くんは大変そうですね」
「希優梨さんから色々と言われて、所詮愛人だからとか、もっと家で待ってる子を大切にしなよ、とか。なんかそう言われて急に自分がクソ野郎に思えてきてさ」
至留は俯いたまま声を絞り出し口から言葉の羅列を垂れ流し続けた。
元から聞かせるつもりが無いのかもしれない。独り言みたいな口調だった。
「実は、紅の見えないところで親父から結婚の話を急かされてるし」
大きくため息を吐いた。
「こうなったら結婚も早い方が良いだろ。親父たち、きっと喜ぶよな」
「あの……」
「うん。そうだよな。孫とか言ってたし。結婚はまず、する前提だろうな」
つらつらと至留は一人で話し続ける。
わたしは彼を見ながらコップを握り瞬きを何度もしながら視線をあちこちに揺らした。
勝手に、彼の中で結婚の話が進んでいく。
わたしは顔をしかめてそれを聞き続けるしか無い。
──ずっと、こうなんだろうな。
コップで揺れる水面を見つめる。
やっと報われると一瞬でも感じた心の分だけ、胸の奥がより冷えた。
「子供も作ろうか」
やけに鮮明に響いた言葉が、鼓膜の奥を震わせた。わたしはハッと顔を上げる。
至留の視線がわたしの体を下から上へと登っていく。
今日は楽な格好で選んだ薄手のサマードレスだった。
剥き出しの肩を這うように視線が動く。
咄嗟に、自分の腕を掴んで握り締め、肌の奥の筋肉を絞る。
腕で至留の視線を遮りたかったわけでは無いと思う。
何度もしているし自分で見えないところまで至留には見られている。
それでも、こんな明るい場所でじろじろと見られるのは例え結婚の話をする様な恋人であろうと気持ちが悪いと感じてしまうわたしはおかしいのだろうか。
「わたしもお風呂いただいてきますね」
わたしはテーブルに手をついて立ち上がった。
至留はああそう、と答えコップの水を飲み干して
「俺、先に寝てるから」
とリビングを出て行った。
残されたわたしは二人分のコップを持ってキッチンへと向かい、ほっと息をつく。
至留が深く眠りにつくまでお風呂でゆっくり時間を潰していよう。
スマホを持ってお風呂場へ向かった。
[明日光くん暇なタイミングってあったりする?]
夜もだいぶ遅い時間だったのに光くんからはすぐに返事が来た。
[いつでも暇です]
わたしはその文面を見て小さく笑った。




