10.繋がり
洗面所で手を洗い、自動湯張りのボタンを押してから、冷蔵庫の中身を思い出しつつキッチンへ向かう。
エプロンをつけようとしてトップスの胸元に黒い染みを見つけた。多分、素麺の出汁だ。光くんとの食事に浮かれて油断したらしい。
きっと至留は車を置いてすぐに入ってくるだろう。
急いで洗面所へと向かい服を脱ぎ畳んで洗濯ネットに入れる。
ふと服の替えを持ってきていない事に気づく。
「焦り過ぎでしょ」
ため息を吐くと同時に扉の開く音がした。
きっと至留だ。
鏡に映る下着姿の自分に頬が引き攣る。至留に何か言われる前に服を着なければ。
慌てて廊下へ飛び出し──。
「あれ?」
玄関で靴を脱いでいた彼と、目が合った。
その場にしゃがみたくなる中で声を絞り出し「お帰りなさい。ちょっと服を着替えていて」と言い訳みたいな事を言う。こうなるんだったらバスタオルでも持っていけばよかった。
「ああ、そう」
至留は興味なさげに言って再び自分の靴に視線をやった。
「ごめんなさい」
頭を下げて、部屋に入る。
扉を閉めて電気もつけずにしゃがみ込む。顔が熱い。
「最悪」
嘆いていても料理は出来ないでしょ、と心の中で自分に強く言い聞かせ立ち上がる。
適当に掴んだ服を着て夕飯の続きをするため小走りでキッチンへと向かった。
至留はリビングのソファーに腰掛けて不思議そうな顔をしながらわたしの方を見ていた。
「お夕飯はまだなので、軽くつまめる物とお酒だけで先にご用意しますね」
わたしは彼から何か言われる前に一言先に伝えておく。
冷蔵庫から冷奴用の豆腐とチューブの生姜を取り出す。お酒はおつまみが出来たタイミング。以前、同棲を始めたての頃に早めに出して「うーん。緩くなったな」と嫌味を言われ覚えた。
「まあ出来てないよね。紅のために急いで来たからさ。嬉しい?」
「はい」
彼からの質問に選択肢は一つしかない。
普段の態度から冗談でもNOなんて絶対に言えない。
──急いで帰るより、まずは連絡を返して欲しいよ。
小ネギを刻みながら言えもしないことを想像する。
「ん、ありがとう」
至留の前にお酒とおつまみを置く。
一人、ソファーに座りバラエティ番組を見ている至留に優雅なものね、と嫌味の一つでも言ってやりたいが会話をする方が億劫で、結局テレビを見ていてくれたままの方が都合がいい。
「もうええわ! どうもありがとうございましたー」
芸人さんが使う締めの挨拶の後に拍手が聞こえてくる。
手を叩くリズムに合わせ包丁を細く動かし音を出す。拍手が包丁の音と混ざり、掻き消えていって、わたしはゆっくりと夕飯を作る事だけに集中する。
「夕飯できた?」
わたしは「はい」と答えテーブルに出来た料理を並べていく。
別荘へ運ばれてくる食材と共にメニューも一緒に決めてくれていたので今日の夕食は作るのが比較的楽だった。
「あははははは」
席に着いた至留はお酒を片手にテレビを見て笑っている。
機嫌が良いとこちらとしても楽なので、そのままでいて欲しい。その為にもわたしは至留の動向に細心の注意を払う。
「ああ、そうだ。アイス買ってきたよ。冷凍庫に入ってるからさ。紅は苺のやつね」
「ありがとうございます」
至留がわたしにアイスを買ってくるなんて珍しい。
何かあったのだろうか。昨日も今日も機嫌が良いような気がする。
──でも、なんでわたしは苺味なんだろう。
苺のアイスを好きだと言ったことはないと思うし、至留の前で苺のアイスを買った記憶もない。アイスを買うならチョコか季節限定のやつと大体決まっているからだ。
ただ、わたしが苺味の理由を聞いてはいけない。訊くと大体不機嫌になる。少なくとも聞いて、それでわたしが納得できた事はないので訊くだけ無駄だった。
「どうでしょう。メニュー通りに作ってみたのですが」
食事中はわたしから質問をするように決めていた。
黙ったままだと特に何もないのに「今日はなんで機嫌悪いの?」と不機嫌にさせてくる。
「うん。普通に美味しい。はははっ」
至留はテレビを見ながら答えた。
もう良い、と持っていた皿ごと投げ出したくなるけれど、グッと堪え、それもすぐに萎んでいく。この失望にも慣れてきた自分がいる。
「お口に合ったようで良かったです」
わたしは嫌味っぽくならないよう気をつけ軽い調子で返す。
両親のため、自分のため、と言い聞かせながら皿の端を強く握り、笑顔を作り上げた。
「うん」
テレビを見ながらのおざなりな返事が返ってきた。
湯気の立つ味噌椀を手に取る。
啜った味噌汁はちゃんと鰹節から出汁を取ったのになんの香りもしない。
きっと至留とのご飯だったら何を食べても味も香りも大してしないんだろうな、と思った。
食事を終え、二人分のお皿を洗う。
ふと、光くんなら今日の夕食になんと言ってくれるのだろう、と考える。
──美味い!
頭の中で声まで聞こえるくらい、これしかないと思った。
可愛らしい笑顔で元気よく言われるとどんなに手間のかかる料理でも作って良かったと思えるだろう。
そんなことを考えているうちに食器は全て洗い終えていた。
「今日はなんかご機嫌だね」
お風呂から上がった至留がわたしの方を見ながら目を細めて言った。
わたしは一旦お皿を片付けていた手を止めて「そう?」と聞き返す。
昼間との落差を考えると良くは無いと思う。
それでも至留にとっては楽し気に見えているのかもしれない。
それか本心とは別の、わたしを褒めておく理由があるか。
「アイス苺味が好きだった? 当たり?」
後ろから肩に触れ、こちらの顔を覗き込むようしながら茶化すように聞いてくる。
「ええ、はい」
淡々とした声の調子で返事をして至留から食器棚の方へと視線を向ける。
あくまでお皿を片付けるためのように見せかけた。これでもたまに不機嫌になったりするけど、今日は無理だ。したくない。
「皿洗いは終わってるんでしょ。アイス食べようよ」
至留は肩からあっさりと手を離した。
背後から冷凍庫を漁っている音が聴こえて、わたしは吊り上げていた頬の筋肉を解く。途端にどっと疲れを感じた。切り替えろ、と強く自分に言い聞かせる。
「ん」
カップに入った苺のアイスを差し出され、受け取る。
「ありがとうございます」
至留の後を追ってテーブルの席に着いた。洗ったお皿をお風呂に入る前には全て片付けておきたかったが仕方ない。
「今日、午前中は何してたの?」
至留がカップのバニラアイスをスプーンでほじくりながらつまらなそうに聞いてくる。
「お屋敷の掃除をして、あとは村の散歩をしていました」
「へー、何も無いところだったろ」
「はい。でも、こういう所に来たことがなくて色々と楽しかったです」
「神社は行った? タチキリ様って言う本物の神様がいるんだけどさ」
何が至留に刺さったのか分からないが若干食い気味に聞いてくる。
わたしは少し言葉に詰まり瞬きをした後に「行きましたよ」と答えた。
「じゃあ古墳は?」
古墳、と聞き慣れない単語に首を傾げた。
この村にそんなものがあったのか。光くんの撮った写真の中にも古墳らしきものは無かったような気がする。
「いえ、あるのも知りませんでした」
「そう。実はあるんだよね。近くの大学でたまに掘ったりして研究されてるみたいだから結構価値が高い物だと思うんだけどさあ」
至留が得意気に話している間、小さく相槌を打って「そうなんですね」と答えた。
「暇な時に行って来なよ。一応有名らしいし」
「あっはい。じゃあ行って来ますね」
古墳に一切興味は無いけど声が弾んだ。
至留から外出の許可が出た。
ならもし、どこかで光くんと会えたら──。
「あの至留くん。一つお願いして良いですか」
「なに?」
「帰ったらわたし、バイトを始めたいんですけど」
浮ついた気持ちに任せて言ってみた。
ただ時間だけが過ぎていくあの空間が怖い。それに金銭面で依存していることも日々、負い目に感じている。
多分いつもなら言わなかっただろうけど今日は珍しく会話が長く続いたので、ちょうど良い機会のように思えたのだ。
お願い、とテーブルの下でズボンの布地を強く握りながら祈るような気持ちで答えを待つ。
「いいよ」
わたしは意外な返事に目を見開いた。
「しなくて。バイトさせてるなんて言ったら親父に怒られるし」
至留は真面目な表情でカップを傾け残ったアイスをスプーンに集めている。
「……はい」
テーブルへ目を落とす。
カップの中で溶けている苺のアイスが目に入った。
ピンクの着色料と白い練乳が分離して渦を巻いている。今更、至留に何を期待していたのだろう。自分の甘さに腹が立つ。
「俺、結構稼いでるし心配しなくて大丈夫だよ」
至留が立ち上がりソファーの方へと歩いて行く。
溶けた苺アイスをスプーンで掬って、止まる。
食べる意欲が湧かない。
泣きたくて、泣いたところで仕方なくて、涙すらもう出なくなっていて。
「美味しかったです。ご馳走様でした」
お礼をしてキッチンへ片付けの続きに向かう。
至留はテレビ番組に飽きたのか動画サイトを眺めている。きっと何も気付いていないだろう。
嘘をついた後はいつでもキリキリと胃が絞られ気持ち悪くなる。何度自分を騙してもこの気持ち悪さに慣れる事は無いだろう。
最後のお皿を棚にしまい終えたわたしはちょっとでも良いから星空を見たくて窓の方を見た。
締め切られたカーテンだけが見えた。
広々としたリビングにソファーで寝転がった至留がいる。
気分は昨日と何も変わらない。今日は至留がいるけど、わたしは一人だ。
「もう寝よっか」
あくびをしている至留の後を追って部屋に入る。
扉を閉めた途端に息が詰まり体が強張った。
至留が振り返ったりしないよう彼の背中が擦り切れるほど凝視しながら願う。少し離してある隣の布団にモゾモゾと潜り枕に頭を置いたのか確認してから、わたしも布団に入り、そこでやっと息を吐き出す。
「あっ……」
隣に至留がいるのにも関わらずわたしは思わず声を出してしまう。
布団にもぐり、暗闇の中で画面を覗くと、光くんからのメッセージが届いている。夕食ごろに送られたものだった。
全神経がその小さな光へ吸い寄せられ、わたしはロックを解除した。




