アルゼンチンの風、日本の空
《ゲルニカ?》俺は名前を繰り返し、想像しようとした。アルゼンチンについての知識はメッシとタンゴくらいしかなく、それが今は何の役にも立たないことは確かだった。
《そう、いつも気を張ってなきゃいけない場所よ》ソフィアは懐かしさと何か重いものを混ぜたような笑みを浮かべて続けた。《お母さんと二人で育ったの。私たちだけだったから、時々大変なこともあったけど…なんていうか、物が少なくても、なんとかやっていける方法をいつも見つけてた》
(どうやって? そんな苦労を乗り越えて、それでも前に進む方法を見つけるなんて、俺には想像もできなかった。彼女のお母さんはすごい人だったに違いない)俺はしばらく黙って、彼女の話から伝わる強さを噛みしめた。《それって…かなりハードだったよね。どんな感じだったの?》
ソフィアは肩をすくめたが、彼女の目は柔らかくなった。《んー、私にとってはそれが普通だった。時々、問題起こしたりしてたけど、別に大したことじゃないよ? ただのいたずら。近所の女の子たちとケンカしたりとか。たぶん、お母さんの性格を受け継いだんだと思う。どんなことがあっても立ち向かう準備ができてて、でも笑顔は忘れないって感じ》
(若い頃のソフィアか。同じピンクの髪で、挑戦的な目つきで、誰にでも立ち向かっていく姿。笑うべきか、隠れるべきか、わからなかった)《それで、どうやってここに来たの? ここって、めっちゃタフな地区とは正反対じゃん》
彼女はハァとため息をつき、一瞬、目が曇った。《数ヶ月前、突然パパが現れたの。それまで一度も会ったことなかった。手紙も電話も、なんにも。急に高いスポーツウェア着て、まるでジムから出てきたみたいな感じで現れた。あまり話さない人で、口数が少ないみたいなんだけど、悪い人じゃないってのは感じた。なんでこうなったのかはわからないけど、ママにもパパにも聞く気にはなれなかった。なんか、みんなにとって空気が重かったんだよね》彼女は言葉に重みを感じるように一瞬止まった。《ママが説得してくれた。ここが私の未来を良くするチャンスだって。断れないって》
《で、パパは何してる人なの?》俺はあまり好奇心を見せないように気をつけながら聞いた。(でも、正直、これはどんなメロドラマより面白かった!)
《マリアーノ・ルイス・カタルドって言うの》彼女は誇りと苛立ちが入り混じった口調で言った。《サッカー選手。ディフェンダーで、人間の壁って呼ばれてるらしい。ヨーロッパの大きなチームでプレイしてるけど、どのチームかは知らない。サッカーってあんまり興味ないから。でも、有名なんだと思う》
(ミリオネアのサッカー選手の父親? なのに彼女は貧しい地区で育った? これは思ったより複雑だ)《それで、どうやって日本に来たの?》
彼女は苦笑いを浮かべた。《なんか変なサッカーのプロジェクトに雇われたらしい。よくわからないけど。で、急に空港でスーツケース持たされて、『日本』って聞いたときは卒倒しそうだった。日本! こんな急激な変化にどうやって適応しろって言うの? 日本語なんて知らないって言ったら、パパったら平然と『翻訳機使えばいい』だって! そんな簡単なわけないじゃん!》
俺はプッと笑いをこらえきれなかったけど、なんとか隠そうとした。(普通の日本人ならそれに腹を立てるかもしれないけど…彼女がイラつくのもわかる)《まあ、公平に言うと、日本語って外国人には難易度5レベルだからね。君のせいじゃないよ。でも、君のパパはそれで助けになると思ったんじゃない?》
ソフィアは俺を見て、突然、予想もしなかった甘い輝きを目にキラッと宿した。彼女は俺の制服の袖を指先でそっとツンとつまみ、まるで何か壊れるのを恐れるように、めっちゃ可愛い口調で話しかけてきた。《本当に教えてくれる? 少しでもいいから。ずっと翻訳機に頼りたくないの》
(警報! これは罠だ! その目はぬいぐるみに偽装した手榴弾だ。でも…どうやって断れる?)俺は首の後ろをかきながらハァとため息をついた。《もう手伝う気満々だったんだから、そんな風に頼まなくてもいいよ》
(その目は両刃の剣だった。そして俺は、どうやら喜んでその罠に落ちるしかなかったみたいだ)