第3話「死者の歩む道、命の温度」
歩くたびに、肉が軋む。
皮膚は剥がれ、骨の一部が露出し、関節は錆びた機械のように鈍い音を立てる。
それでも、俺は歩く。
腐った体に、痛みはない。
寒さも、空腹も、もう感じないはずだった。
――なのに、どうしてこんなにも、苦しいんだろう。
死んで、蘇って、ゾンビになった。
笑えるよな。物語ならここで「復活の勇者」とか言われるんだろうけど――
現実は、腐肉の化け物だ。
人間の村に近づけば、叫ばれて、武器を向けられ、追い払われる。
自分が「人として扱われない」という事実が、何よりも堪える。
ある夜、小さな村の近くを通った。
灯りが点っている家。誰かの笑い声。子どもが走る足音。
その光景を、森の影から見つめていた。
ただそれだけなのに、体の奥がギリギリと軋んだ。
「……ああ、俺……まだ、羨ましいんだな」
心なんて、とうに捨てたと思っていた。
でも本当は、捨てきれなかったんだ。
俺はまだ、恋がしたい。
誰かと手をつなぎたい。
隣で笑って、「おかえり」って言ってほしい。
そういう、ありふれた――それでも、俺には永遠に手の届かない“日常”を、
俺はまだ、夢見ている。
物音に気づいて、森の奥へと隠れた。
走ってきたのは、小さな子供だった。
何かに怯えている様子で、森に入ってきてしまったらしい。
「おい、そっちは……!」
声をかけた瞬間、子供の目が俺と合った。
絶叫が響いた。
その瞳に映っていたのは、“怪物”の姿だった。
逃げていく子供の背中を、追いはしなかった。
ただ――そこに、確かな温度があった。
怖がられた。嫌われた。拒絶された。
でも、それでもいい。
この腐った体が、誰かを助けることができるなら。
少しでも、人としての“証”を残せるなら。
――それが、俺の“生きる理由”になる。
深夜。雨が降ってきた。
ゾンビの肌には染み込まないはずの冷たい水が、なぜか胸に滲みた気がした。
小さな岩の下で、体を丸める。
目を閉じても、眠れはしない。けれど、意識が薄れる感覚はある。
その中で、夢を見た。
光の中に立つ少女――セリア。
あの銀髪と、青い瞳。勇者として、人々に希望を与える存在。
俺とは、正反対の存在。
けれど、恋をしてしまった。
あの瞬間、心が奪われた。
そして今も、その感情だけが、俺の腐った体を前に進ませている。
「……会いたい。もう一度」
まだ、俺は終わっていない。
死んでなんか、やるもんか。
夜が明けた。
雨は止み、空気が澄んでいた。
まるで、世界が“まだ進め”と言ってくれているようだった。
よろよろと立ち上がる。
足は重く、体はきしむ。
でも一歩、また一歩と、前へと進む。
「俺は……ゾンビだ。それでも――」
この歩みは、恋に向かっている。
この腐った体でさえ、誰かのために剣を振るう日が来るかもしれない。
その日まで。
その瞬間まで。
俺は、この足で、歩き続ける。
森の奥に、枯れかけた一本の剣が落ちていた。
赤錆びた刃。折れた鍔。柄は半分朽ちている。
それでも、それは“武器”だった。
俺はそれを、そっと拾い上げた。
皮膚の剥がれた手が、柄を握るとギリギリと軋んだ音がした。
けれど、確かに――この手には、力が宿っていた。
ゾンビになってから、初めて“何かを持つ”という感覚。
ただ歩いているだけの存在だった俺が、“意志を持って戦う”存在になるための道具。
それはたとえボロボロでも、俺にとっては剣以上の意味を持っていた。
「……これが、俺の剣か」
誰も見ていない森の中で、そう呟く。
その声は、腐った喉から漏れ出すようなかすれ声だったけれど――
確かに“俺”だった。
数日が経った。
森の中には、弱い魔物がたまに現れる。
以前の俺なら、出会った瞬間に襲われていた。
だが、今は違う。
朽ちた剣を振るう。
腐った腕が、恐ろしく遅い軌道を描く。
けれど、魔物もまた低位の存在。牙だけが武器の獣でしかない。
何度か斬られ、噛まれ、肉がえぐれても、痛くない。
ただ、倒す。
ただ、それだけを繰り返す。
そしてある日。
一体の魔物を斬った瞬間――何かが、体の奥で脈打った。
ズキン、と。
腐りきっていたはずの胸の内側から、熱が走った。
右手が震える。
刃の先に、薄く黒い瘴気がまとわりついていた。
「……これは……?」
よく見ると、倒した魔物の体から淡く煙のようなものが立ち昇っている。
それが、俺の手に吸い込まれていた。
理解には少し時間がかかった。
だが――わかった。
「喰ってる……?」
俺は、敵から“何か”を奪っている。
それは、生命力か、魔素か、それとも……スキルのようなものか。
ゾンビである俺の体は、不完全な死体。
けれど“まだ変化する余地がある”ということでもある。
つまり――俺は、進化できる。
「……これが、俺の特性か」
死んでも、腐っても、まだ終わってない。
俺はまだ、強くなれる。
その日、俺は初めて“敵を狩る”という目的を持った。
ただ歩いていた存在が、意志を持って“力を得る”ために動き出した。
最初の頃は苦戦した。
動きは遅く、力も不安定。
けれど、“腐敗した分だけしなやかになる”という妙な特性にも気づいた。
筋肉の拘束から解放された骨の可動域は、案外広かった。
視界は濁っているが、暗闇には慣れている。
剣の扱いも、少しずつ、体に馴染んできた。
まるで、かつて生きていた頃に剣術を学んでいたような感覚――いや、これは“本能”だ。
それから数日後。
初めて“喰った”魔物の特性が、自分の体に馴染んだ感覚があった。
足取りが少し軽くなった。
剣を振るスピードが、ほんのわずかだが速くなっていた。
死体が進化している。ありえない話だが、現に今、俺の中で何かが変わっていた。
「……いいぞ、これでいい」
強くなる。
ただ恋を叫ぶだけの化け物じゃない。
その恋を叶えるために、俺は“それにふさわしい存在”になる。
夜。
岩陰で朽ちた剣を磨きながら、俺は呟いた。
「待ってろよ、セリア……」
名前を呼ぶと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
誰かの名を、恋を込めて呼ぶという行為。
そんな当たり前が、今の俺にはとても貴重で、温かいものだった。