五
五
「あれは何が泣いているのでしょう」
たまらず僕は、松川に問いかけた。
すると彼は苦い顔をして話を脇にそらせたので、僕は深追いをせず、黙ったままでいた。そのせいでせっかくの酔いは醒めたのだけれど、酔っぱらって起きてはいられなくなったと言い訳をして寝室に退いた。
考えてみれば開かずの間の妖怪は、めでたいことがあると泣き声を立てるという。今夜、誕生日の祝宴で大いに楽しんでいた我々をねたんで、不快な声を発して喜びの気分を損ねようとしたのではないか。なんて嫌な奴なんだと布団を引っかぶった。目をつぶってはいたが、神経は醒めていた。
寝つけないまま、夜は更けていく。時計が深夜一時を告げるのを聞いてからは、ようやく少し眠気がさして、意識が朦朧とし、自分と自分でないものの区別がつかなくなる、いわゆる半覚半睡の状態に陥っていた。そのとき僕の部屋の襖が、かすかにスッと開く音がした。いや、ただ音がしたという意識はあったが、誰かいるのかと問う気も起こさず、身を起こしてそちらを見たわけでもなく、うつらうつらとしているだけだった。けれども続いて畳を摺って近づく足音が聞こえて、何者かが、僕の枕もとの傍にいる気配を感じた。
はてな、と思うと、離れていく。しばらくしてまた、こちらに近づく。ふたたび引き返していく。……そういうことが、三度繰り返された。
ここに至って僕は、はっきり過ぎるほど目を覚ましていて、寝返りしながら目を見開き、ふと視界にその何者かを収めたとたん、蒼くなった。ほとんど気絶寸前だった。それは誰であったか。雪でこしらえたような全裸の女である。あるかないかという暗い灯火の光に、ぼんやりと乳房のあたりがほの見えて、絵に描かれたもののようにたたずんでいる。
僕は叫ぼうとしたが声にならず、跳ね起きて逃げようと焦るのだが、まるで岩盤が布団に乗っているかのように、身動きさえできない。自分がここにいることを悟られまいとして、かすかな鼻息も立てないようにしながら、心のなかで仏の御名を唱えてはいたが、わななく手足は布団をあおって、波のように揺らめかせていた。
女は僕を見つめているようだ。一種の電波を身体に感じて、毛穴がさらにそそけ立った。すると彼女はなんとも形容しがたい声で、
「藪にて見たのはこの人なり、さても暖かに寝たることよ」
とつぶやいた。
まざまざとそのことばを聞いたとき、意識も魂も身体を離れて、僕は身を縮ませて堅くなった。
やがて女はあろうことか、僕がかぶった布団を持ち上げて、体をすべりこませてきた。僕は絶叫して、ゴムのボールのように飛び上がると、部屋の外に飛び出して、必死の力を込めて、この色欲の悪霊を封じ込めようと襖を押さえて立っていた。一連の行動は、自分の力がなしえた業とは思えない。心から祈った神仏がなさしめたことだと信じている。
とはいえ、寒くてたまらない。寒さと恐ろしさにガタガタと震えが少しも止まらぬ状態で、とうとう明け方まで立ち尽くしていた。周囲が明るくなったことにやや心を落ちつかせて、押さえていた戸を引き開けると寝室はもぬけの殻で、僕自身はもちろん、女の姿も見えなかった。その夜の間に去来した感情は、うまく描写することができない。なぜなら僕はあまりの恐ろしさに、記憶を失っていたのである。
それでなくても前日の竹藪の一件以来、すっかり怖じ気づいていた僕だから、昨夜の怪異に茫然自失となり、もうこの塾にはいられないと思った。その日のうちに逃げ帰ろうと、すでに心を決していたが、それではあまりにも怪異の究明という本来の目的が果たせない。今夜一晩だけ我慢をして、もしふたたび昨夜のようにあの女が来ることがあれば、度胸を据えてその顔かたちや姿態を観察してやろう。あわよくば勇気を奮い立たせて、ことばを交わしてみるべきである。もし妄念が留まって後世に怨みを訴えるようなことになっても、罪のない僕にとり憑くこともないだろう。手ごたえのない幻影を、そこまで恐れる必要はない、などと、昼のあいだは誰しもが、このように英雄を気取れるものである。
ところが、逢魔ヶ時の薄暗がりを迎えると、しだいに元気が衰えて、夜になって雨が降りだすと、なんとなく寂しさが増してきた。昨夜の出来事がやたらと思い出されて、恐怖はますます耐えがたくなり、こうなるとわかっていたら日のあるうちに別れを告げて、この塾を去ればよかった、くだらない好奇心に駆られたせいで、僕はまんまと臆病神の犠牲になったのだった。
ひたすらランプの灯を明るくする。それがせめてもの元気づけである。机に向かって正座をして石のように身を固め、夜が更けゆくことを告げる時計の音を心細く数えながら、
「もう一時か」
とつぶやいたとき、陰気な音色で響いてきたのは、怨むかのような女の泣き声で、柱を回り襖をくぐり、壁に浸み入るかのようである。
ついに来たかと膝を立て直し、いても立っても落ちつかず、魂が宙に浮くような気でいたときだった。
沈んで聞こえる女の声が、
「やまだぁー、やまだぁー」
と、僕の名前を呼んだのである。
まさか、と思って耳をそばだてたが、聞けば聞くほどはっきりと、疑いもなく山田という僕の名を呼んでいる。
「やまだぁー、やまだぁー」
と呼ぶ声が、耳もとでささやくように近くなり、かなたで叫ぶようにまた遠くなる。
南無阿弥陀仏。これはたまらない。




