三
三
お村を陥れたそもそもの張本人であるお春は、素知らぬ顔を取り繕いながら、旗野の家に勤め続けていた。
人には奇癖があるものである。この女は極度に蜘蛛を怖れて、蜘蛛ということばを聞いただけで絶叫するほどで、まして蜘蛛そのものを目にすると、顔色が青ざめて死人のようになったという。
お村が虐殺されてから四十九日にあたる日の夜更けのことである。
お春は厠に行きたくなって、寝床から起き出した。その帰りに寝ぼけ眼で迷ってしまい、あの血天井の部屋に入ってしまった。ここはあの部屋だと気づいたときには、頭から爪先まで氷を浴びた気持ちになり、ガタガタと歯の根も合わないほどおののいていた。気味が悪いと思いながらも、手燭の灯に照らされた先に血の足跡を仰ぎ見たそのときである。天井から一匹の蜘蛛が糸を引いて垂れ下がり、お春の頬にくっついた。
「あっ」
と叫んで棒立ちになる。蜘蛛は喉をつたって胸に入り、腹から背中へと這いまわった。お春は声も立てられず、身を悶えて、虚空をつかみながら苦しんでいたが、不意に倒れるとそのまま意識を失った。夜更けのことでもあり、誰も気づかず、翌朝になって発見された。
お春の身体は冷たくなっていた。蜘蛛が這った跡は、まるで縊死体のそれのように、首に青い筋を描いていた。
お春の最期を目のあたりにして、旗野の神経は狂いはじめた。あらぬことばかりを口走り、一ヶ月間ほど錯乱状態が続いたが、月光の冴えたある夜のこと、戸外に旗野をおびき出すかのような、なんらかの姿が現れた。彼は居間からさまよい出て、そわそわと庭をさまよっていたが、やがて恐ろしい声を発した。
「おのれ!」
と言うなり刀を抜き、竹藪に躍りかかって、えいっと切り口も鮮やかに竹を斬り倒す。そのまま転んで、斜めに尖った竹に胸を貫かれ、その場で絶命した。因果応報とはこのことである。
旗野の家は主人が絶えてのち、代を継ぐ子もなかったため、そのまま断絶となった。
幾年もの年月を経て、現在の松川私塾となるまでには、さまざまな人がここに移り住んだ。しかし、ひと月以上住み続けた者は皆無で、ほとんどは半月もいられなかった。極端な場合、一晩きりで引っ越した者もいたほどである。
松川一家が転居してきてからは別段変わったこともなく、彼らはすでに二ヶ月間あまりも落ちついている。これは異例なことだと、近所の人々はうわさしている。
とはいえ最初のころは十数人の寄宿生がいて、授業も大いに賑わっていた。それが二人、三人と去り、終いには一人もいなくなった。今は昼間のあいだ通学生が来るだけで、寄宿生は新たに入学した僕一人である。
冒頭に述べたように、僕がこの塾に入学したのは、学問をするためではない。この家にどんな不思議が隠されているのか、探ってみようと思ったからである。
不躾なことゆえお許しをいただきたいのだが、僕には妙な性癖があって、奇怪なことを見たい、聞きたいという欲望を抑えきれない。もともと腕力に長けていて、妖怪を退治しようというわけではない。研究心を抱いて、怪異を研究しようというわけでもない。俗に言う、怖いもの見たさが高じただけの、たんなる物好きなのである。
さて、松川私塾に入学して、さっそく開かずの間を探検しようとしたのだが、開かずの間は板戸に釘を打ちつけた密閉状態で、開けることができなかった。しかたなく板戸の隙間からなかの様子をうかがうと、三十畳ほどの広さがあり、あちらこちらに柱が立ち並んでいる。日中であるにかかわらず、かすかな光しか差さない室内は暗澹として、陰鬱な空気のなかで雨漏りの染みが壁に異形のかたちを描いているのがほのかに見えて、鬼気迫るものがあった。
覗き見をした僕の目が無事であったことは収穫だが、それ以外にはなんの発見もない。次は血天井を見に行くことにした。
血天井の部屋も現在は使われていないため、掃除がされることもないようだ。畳は塵や埃で埋まり、梁には鼠の糞が積み重なり、障子も煤け切っている。呪いの血判があるのはあのあたりかと思われる部分も含めて、天井全体が黒ずんでいて、長い年月を経た血痕は判明できなかった。
歌枕として名高い更科の月を実際に見ても、月が四角だったなどというほどの驚きがあるわけでもない。名所と呼ばれる場所の多くは、失望の種にほかならないのである。だがまだ三不思議には竹藪が残っている。どうやら土地の人は有名な禁足地である八幡の藪知らずをこの竹藪に重ねて、奥に踏みこむことを恐れているようだ。見るからにゾッとするような、昼なお暗き別天地であり、お村の死骸もそこに埋まっているのだというから、安易に足は踏み入れ難い。僕はまず、探検の下準備に取りかかることにした。
僕が入学をしたころ、誰かに棄てられたような一頭の野良犬が、よく庭先をうろついていた。それを見て、思うところがあった僕は、犬の頭をなで、背中をさすったりして馴らしていき、賄の食事をいくらか分け与えてきた。そうして三日も経てば、早くも犬は僕を飼い主だと思い、命令を聞くようになっていた。




