一
【原文】
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/1189_22309.html
【語り手と、化け物屋敷代々の住人たち】
山田 語り手。松川邸の三不思議の秘密を探る松川私塾の寄宿生
[化け物屋敷]
ある武士 不祥事のために追放され、奥方が屋敷に呪いを残す
↓(江戸期)
旗野 同じ屋敷に移り住んだ人物
村 旗野の愛妾。もとは腰元
春 腰元
用人 武家の庶務係
↓(明治)
松川 かつて旗野が住んだ屋敷で松川私塾を開いている。山田の師。
屋敷内に家族が同居する
一
僕が松川私塾に入学し、住み込みの塾生になったのは、英語を学ぶためではない。数学を修めるためでもない。かといって漢文を学ぶためでもなく、あることについて、ひそかな期待を抱いていたからだった。
旧加賀藩金沢市古寺町にある、両隣が空地になった一棟のお屋敷は、松川という先生が、英語、漢文、数学を教える塾舎になっている。もとは旗野という、明治維新以前に千石の俸祿を受けていた人の館で、その邸内には三不思議というものがあった。
「血天井」、「開かずの間」、「庭の竹藪」がそれである。
僕は、その由来を調べてみた。
旗野の先住者に、なんとかいう名の武士がいたのだが、不祥事があって身分を剥奪され、屋敷を追われて他国へ追放となった。その人の奥方は加賀の国じゅうに知られるほどの美人だったが、家を明け渡すのがくやしいという一途な女心から、
「我はいつまでもこの家にとどまり、決して外に出るものか」
と言って、自分の居間に閉じこもり、内側から錠を下ろしたのだが、それ以降、不思議なことに影もかたちも見えなくなってしまった。
その後、この家に住んだ旗野は、先住者の奥方が自らその身を封じた一室を「開かずの間」と呼んで、開くことも、また覗くことも禁じてしまった。
その女の執念は、たしかにその家にとどまっていたようだ。
次に旗野が移り住んでみても、普段から異変らしきものがあったわけではない。けれども家内に吉事があったときには、女のすすり泣く声が開かずの間から聞こえた。また不幸があったときには、さも嬉しそうな笑い声が聞こえたという。
さて、旗野には一人の愛妾がいた。その名を村といって、主人の寵愛を一身に受けていた。
ある年、夏の盛りの頃のこと。
夕立あとの冴えた月の光に照らされた北向きの庭では、竹藪が雨のしずくをたたえ、心地よく吹く風に真珠のような粒をはらはらとこぼしていた。そのさまがすばらしい、めったに見られぬ眺めであると、旗野は村に酌をさせて、遅くまで飲んでいた。
お村も少しばかりいける口であったし、その夜は心も清々しく、雰囲気の良さにも乗せられて酒が進み、かなり酔ってしまった。人々が寝静まって月の色も凄みを増した深夜になって、ようやく酒宴はお開きになったのだが、寝室に入る前にお村は腰元につきそわれて厠に行こうとした。
廊下を通って、例の開かずの間の前に差しかかったときのことである。酔って気が大きくなった彼女は、トントンと板戸をたたいて、
「執念深い奥方さま、中にいるんでしょう。なぜ今夜はお泣きにならないの?」
と言うと、声を立てて笑った。
とたんに生ぬるい一陣の風が吹き、腰元がかかげていた手燭の灯を消した。闇のなかで何かに驚かされたのか、お村は一声、
「きゃっ!」
と叫んで、右側の部屋の障子戸を外す勢いで倒れこむと、気を失ってしまった。
腰元もまた驚き、恐る恐るその部屋のなかを覗いてみた。室内には灯を細めた行燈が点って、お村が脚をむきだしにして横たわっている姿が見えた。そのそばでぐっすりと眠りこんでいる一人の男は、どうやらこの家の用人のようだ。先刻まで酒席に加わっていたが、飲み過ぎてここで寝こんでしまったらしく、たった今、お村が倒れこんで気を失い、自分の横に枕を並べるかたちになっても、まったく気づかない様子である。
この腰元は春という名で、もとはお村の同僚だった。彼女ら腰元のなかでお村だけが旗野の寵愛を受けて、「お部屋さま」と呼ばれる身分に成り上がった。春はそのお村から顎先で召し使われることに、常々不満を募らせていたのである。
いま、こうして偶然にも枕を並べた二人の姿を見るにつけ、むらむらと悪心が湧きおこった。介抱もせず、呼びかけもしないで、わざと行燈の灯を暗くして、
「これを見たら、誰でもね……」
と、にやりと笑った。
足を忍ばせてその場を離れ、主人の寝室に走り行くと、すでに眠っていた旗野を揺り起こして、
「お村さまは御用人と密会をしていらっしゃいます」
と、虚偽の報告をした。
旗野は日頃から気が短く、口よりも先に手が出るような男だったが、そのときは酒の勢いも加わり、怒気烈火のごとく心頭に発すというありさまでガバッと跳ね起きると、枕もとの刀を引っつかみ、脇目もふらずに駆けつけ、障子を蹴破って現場に躍りこんだ。
そこで見たのは、獣のようにもつれあった男女の姿である。
前後をわきまえる隙もなく、抜く手もみせぬ剣先で、旗野は用人の頭をころりと斬り落とした。