「婚約破棄をしてもいい」と言うならば、覚悟を決めてくださいね。婚約者様。
蝶よ花よと愛でられて育った侯爵令嬢にだって、絶望する瞬間はある。
例えば、国王主催のパーティーで胸元のボタンが弾け飛んだ時。
王子に熱湯同然の紅茶をぶちまけた時。
学院の期末テストで解答欄がひとつズレていたと気がついた時。
正直、思い出したくないことばかりだが、そういう小さな絶望の積み重ねが人を大人にするのだ、と誰かが言っていた気がする。
それならば、絶望なんてどんとこいだ──前向きが取り柄のアリシア・クラウゼンはそう思っていた。
「いいぞ、別に。君が望むなら婚約破棄しても」
アリシアの記念すべき18歳の誕生日当日。
ディナーデートに誘ったにもかかわらず、婚約者であるヴィクトールに、そんなことを告げられるまでは。
*****
「……何が悲しくて誕生日に婚約者でもない男と飯を食わなきゃならないんだ──って顔をしてんな」
「滅相もございません、アルストの太陽」
「やめろってそれ、恥ずいんだから」
「じゃあ王子様って呼んであげようか?」
「もっとやめてくれ」
アルスト王国の第二王子、ルーカスはステーキを口に入れながら眉をひそめた。
貴族の子女も多く通うこの学院だが、学校内に政治を持ち込まないようにするため、上下関係を構築するのは禁止されている。
そのため、平民も貴族も関係なく友人になるし、多少失礼を働くことも問題ない。
特に、良くも悪くも王族らしくなく、王子と呼ばれることを嫌うルーカスは友人が多い。
侯爵令嬢であるアリシアだって、本来はルーカスに対して軽口を叩けるはずもないのだが、学院内ではこうして対等な友人関係を築いている。
堅苦しいテーブルマナーも気にせず、アリシアは大口を開けてステーキを放り込んだ。
肉は柔らかく、ほどける様に口の中で消えていく。流石、学院併設のレストランである。
「ルーカスが居てくれて助かったわ」
「ドタキャン要員なのか、俺は。一国の王子様をデートの穴埋めに使う奴がどこにいるんだ」
「やっぱり、王子様なんじゃない」
「やめろ」
一見和気あいあいと話しているように見えるが、アリシアはうっかり気を抜けば涙が零れてしまいそうだった。
今日は、アリシア18歳の誕生日であった。
教室でぼーっとしていた婚約者のヴィクトールをディナーデートに誘ったところ、『断る』と返された。いつもならば、引き下がるアリシアだが、あまりに素っ気なさすぎる態度に思わず、こう言ってしまったのである。
『それって、婚約破棄したいってこと?』
アリシアは、ヴィクトールから謝罪が来ることを期待していた。だが、帰ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
『いいぞ、別に。君が望むなら婚約破棄しても』
王族の遠縁である公爵家の令息、ヴィクトール・エルベルトと侯爵令嬢アリシア・クラウゼンが婚約したのは、学院に入った15歳の時だった。
婚約したといっても、二人の距離は特に縮まることもなかった。外部の上下関係を持ち込まない学院内においては、特に交流の機会が生まれるわけではなかったのだ。
ヴィクトールとアリシアの婚約者としての務めは、年に一度の両家との食事会で、社交辞令の会話を交わすことだけである。
それでも、アリシアは婚約者であるヴィクトールが好きだった。
陽に当たれば輝く金色の髪も、人を寄せつけないような冷たい眼差しも、頭の回転が速いところも、ぶっきらぼうながら、貴族らしく人に優しく手を差し伸べるところも、実は数学が苦手だから人気のない教室で勉強して、学年一位をキープし続けているところも。
全部ぜんぶ大好きだった。
学院内では、自由恋愛に目覚め、婚約破棄をする学生も少なくなかった。
アリシアもそこそこモテたが、学院の男子生徒がいくらアリシアにアタックしようとも、彼女が靡くことはなかった。
それくらい、アリシアは一途に彼を思い続けていたのだ。それなのに。
(ヴィクトールは、ずっと素っ気ない態度だった)
アリシアが話しかけても、すぐにどこかに行くし、デートに誘っても素直に頷いてくれることは一度も無かった。思い切って「好きだ」と告げたこともあったのに、彼は何も言わずに立ち去ってしまった。
そして挙句の果てには『婚約破棄してもいい』だなんて。
「婚約者ってお飾りで、実際は別の人と結婚することだって沢山あるのよ。結局は、その家同士が仲いいですよ、って対外的に表すものだってことくらいわかってるもの……」
「達観しすぎだろ」
「でも、実際そうでしょ。ルーカスだって、ちっちゃい頃、私と婚約してたじゃない」
記憶が無いほど昔、アリシアとルーカスは、婚約していたこともあると聞いた。
それほど、この国において婚約というものは『形式上』のものなのである。
「まあ、そんなこともあったけどさ。ヴィクトールとアリシアはさ、そういう形式ばったのじゃないっていうか……なんか違うじゃん」
「何が違うのよ」
ルーカスは至極言いにくそうな顔をして、誤魔化すように笑った。
そして、ちらりとアリシアの後ろを見た。
先ほどから、アリシアの背後が少々騒がしいのだ。
貴族が集まる学院といっても、身分の高い第二王子のルーカス・アルストと侯爵令嬢アリシア・クラウゼンは、ちょっとした有名人である。
しかも、アリシアのディナーデートの誘いを婚約者であるヴィクトールが断った──しかも、『婚約破棄宣言』までした──ことは光の速さで学院中を駆け回ったことだろう。
アリシアは今、時の人なのである。もちろん、悪い意味でだが。
「ヴィクトール様の断り方は問題がありすぎますわ。アリシア様への当たりが強くなくって?」
「しかし、アリシア様にも責任あるのでは?」
「見守ることしか出来ないのがもどかしいです……」
おしゃべり好きの令嬢たちの声がアリシアに届く。
そんな声を背景にしながら、アリシアは深い溜息をついた。そして、「ねぇ、ルーカス」と声をかける。
「18歳ってさ、もういい加減、お遊びの仮婚約じゃなくて、本当の婚約をする時期なのよ。結婚する人もいるくらいだし」
「まあ、そうだな」
ルーカスはステーキを咀嚼しながら、相槌を打つ。
「酷いよね、ヴィクトールは。クラスメイトの女の子とは話すのに、私が話しかけた時は顔を見てくれないし」
「まあな」
「言葉をかけてくれても、冷たい言葉ばかりで」
「おう」
アリシアは、決意したような瞳でルーカスを見つめる。
「本当に婚約破棄……するしかないのかな」
彼女がそう零した瞬間だった。
ガシャン、とアリシアの背後からカトラリーの落ちた音がする。ちょうどお喋りの令嬢たちがいる方角である。
アリシアからは確認できないが、ルーカスからはばっちり見えているだろう。
テーブルに動揺してぶつかる────婚約者、ヴィクトール・エルベルトの姿が。
「ヴィクトール様、お気を確かに!」
「せっかく隠れさせてもらっていたのに、少々取り乱してぶつかってしまった。問題ない……すまない……」
「今はそちらのテーブルに近づかない方が良いのではありませんか」
「いや、近づくというか、そもそも僕が誘われ……」
「いえいえ、いっそのこと近づいて、ルーカス様から奪いましょう!」
「奪うというか、そもそも僕は……」
お喋り令嬢たちの声に交じる、心地の良い声。アリシアはその人物の声を聞いて口元が緩んでいく。
本人は、これで隠れているつもりだと思っているのだから面白いことこの上ない。
(タイミングばっちりね。計画通りだわ……)
先ほどから、ヴィクトールの動向を見守っていたであろう、ルーカスは溜息をついた。
そして、勝ち誇ったような笑顔を浮かべているアリシアを見て、小声で話しかける。
「おい、アリシア、お前……」
「さっきも言ったでしょう。18歳って本当の婚約をする時期だって」
アリシアは知っていた。
恥ずかしがり屋のヴィクトールはアリシアのディナーデートを断るということを。
そして、ヴィクトールは、なんだかんだと断りつつも、律義にアリシアが誘った19時にレストランに来ると言うことを。
そして、18時から予約していたレストランで仲睦まじそうに話しているアリシアとルーカスを目撃するということを。
アリシアは、ヴィクトールの行動を先読みして、『痛い目』を見てもらうことにしたのだ。さすがの彼女も『婚約破棄宣言』は堪えたのである。
「────『婚約破棄をしてもいい』と言うならば、覚悟を決めてもらわないと」
アリシアのその言葉に、ルーカスは思わずグラスを取り落としかけた。
「俺を利用する気か? この国の第二王子を当て馬に使うのか? おい、マジなのか、なあ」
「滅相もない。まさか、帝国の太陽を利用するなんて」
「そのまさかだろうが!」
ルーカスのじっとりとした目線がアリシアに突き刺さる。実際その通りなので、申し訳ないとは思っている。
「でも、私の立場になって考えてみてよ。好きだった人に皆の前でディナーデート断られた上に、婚約破棄までちらつかされたんだよ。ちょっとくらい痛い目見てもらわないと、気がすまないじゃん」
「……ってことは、分かってるんだよな。ヴィクトールがなんで、アリシアにそんな態度をとるのか」
ヴィクトールが、アリシアにつれない態度を取る理由。そんなの一つしか答えがないだろう。
アリシアは、何を聞いているんだ、と言った表情で答える。
「え、ヴィクトールが私のことが好きだからに決まってるじゃない」
「なんだ、気付いてんのかよ!」
ルーカスは思わず声を荒げた。
「私、そんなに鈍感女に見えた?」
「あぁ、そうだな! お前はそういう奴だった!」
アリシアだって、はじめは、本当にヴィクトールに嫌われているのだと思っていた。だが、彼の様子を見ていくうちにそれは間違いだとすぐに気が付いた。
不自然に避けられ、デートに誘えば断られはするものの、当日はばっちり現れる。
真っ赤に染まった耳と、周囲の反応を見ていれば嫌でも気が付く。
『どうやら、ヴィクトールは思ったよりも自分のことが好きらしい』と。
アリシアは、そんな素直になれない彼を微笑ましい目で見守ってきた。だが、さすがに『婚約破棄してもいい』は酷すぎるだろう。
いよいよアリシアも耐えられなくなったのである。
「だって、好きな人に目を見て話してほしかったの。他の女の子とは普通に会話できるのに悲しいじゃん。それってそんなに高望みかな。誕生日くらい素直にお祝いしてくれていいのに……そんなに駄目なのかな」
先ほどの『覚悟を決めて欲しい』という、アリシアの言葉の意味を理解したらしい。
ルーカスは肺から絞り出すような溜息をついた。
そして、アリシアの方を真っすぐ見て、わざとヴィクトールに聞こえるように少し大きめの声で告げる。
「──なあ、アリシア。もう婚約破棄して、俺と結婚する?」
その直後。
ガッシャーン、と派手な音がレストラン中に響いた。
ルーカスとアリシアのテーブルは、誰かに強く手を突かれて、激しく揺れたのだ。
カトラリーが散らばり、テーブルクロスも歪む。本来であれば、給仕や周囲の生徒が注意に来るはずだが、今日はなぜか静かだった。
アリシアが見上げると──そこには、見目麗しい男、ヴィクトール・エルベルトがいた。
ヴィクトールは、その淡い水色の瞳を揺らして動揺している。
「おい、ルーカス。今の言葉は本気なのか?」
「さあ?」
「……誤魔化すなよ」
頭に血が上っているヴィクトールは、今にも第二王子に掴みかかりそうな勢いだ。そんなヴィクトールに、ルーカスはスッと目を細めて言う。
「好きなのか、アリシアのこと」
「当たり前だろう! じゃなきゃ、王子のお前に怒ったりしない!」
ルーカスは言質取ったぞ、というような顔をして口元に笑みを浮かべた。
アリシアは心の中でルーカスに手を合わせる。
(ありがとう、ルーカス……! はぁ……好き! ヴィクトール、好きよ!)
アリシアは、大好きなヴィクトールを見上げる。いつもとは違い、きっちりと撫でつけられた髪に、紺色のジャケットに蝶ネクタイ。
今日も今日とてカッコいいなと、アリシアは思うが、ヴィクトールは、あまりに場にそぐわなすぎる恰好だった。
「てか、何だよその恰好。ヴィクトール、お前、舞踏会にでも行くのか?」
「はぁ? ディナーデートだろ。当然正装だろう」
当然、ディナーに出向く際は、女子はドレス。男子はタキシードである。ただ、それは学外での話だ。
「ここは、学院内のレストランだ。制服だろ普通」
「そ、そうなのか?」
ヴィクトールは周囲を見渡す。ここは一応学院内の施設であるので、利用するのも生徒や教師のみである。……つまり、全員制服である。
ヴィクトールは、この三年間、デートのひとつもしたことがなかったらしい。あまりに一途すぎないか。可愛すぎる。
アリシアは、ぐっと溢れそうな感情を押さえつける。
「ディナーは19時からじゃなかったのか」
「……ヴィクトールは、行かないっていったじゃない」
アリシアは、ヴィクトールに嘘の時間を伝えていた。
ルーカスとアリシアが『デートしている現場』を目撃するように。
緩みそうな頬を抑えて、なるべく厳しい表情を保ったまま、アリシアはヴィクトールを見つめた。
「僕は、ディナーに行かないなんて一言も言っていない……!」
「ヴィクトール……」
「き、君は、僕と婚約破棄するのか?」
彼の顔は、いつも冷静で崩れることは無いのに、今日だけは今にも泣きだしそうな表情をしている。余裕がないその表情を見ていると、心臓がうるさいくらいに音を立てる。
このまま爆発してしまいそうだ。
「はぁ……好き……っ!」
アリシアは、耐えられなかった。ついに思いが溢れ、顔全体を手で覆って俯いた。
未だかつて、ヴィクトールがこんなに必死にアリシアのことを追いかけてくれたことがあっただろうか。
自分のことが好きだからゆえに素っ気ない態度になっていることは分かっていても、自分ばかり気持ちを伝えるのは辛い。
「別れる!」なんて告げて相手の気持ちを試す女性の気持ちがわかった気がする。
「婚約破棄なんて、するわけない。私はヴィクトールのこと大好きなんだもの!」
「…………!」
ヴィクトールは、アリシアから顔を背ける。
いつもなら、アリシアが『好き』と伝えればどこかに去っていくのだが、今日はアリシアの誕生日である。
流石にそんな気にはならなかったらしい。
アリシアの方を見ずに、顔を背けたまま、素っ気なく彼女に薔薇の花束を差し出す。
「誕生日……おめでとう」
「……ふふ」
「違うからな! 落ちていたんだ! たまたま! そこらへんに!」
そこらへんにたまたま薔薇の花束が落ちていてたまるか、とアリシアは思った。
真っ赤な薔薇はアリシアの一番好きな花だ。
それは何度も言った覚えはない、何気なく両家の食事会で話したことだった。にもかかわらず、ヴィクトールがその言葉を覚えていてくれたのだと思うと、心がじんわりと温かくなった。
「覚えててくれたんだ」
「君の好きな花なんて知らない!」
「別に花の話とは言ってないんだけど?」
はっとしたヴィクトールは、奥歯を噛みしめたような表情をして俯いた。アリシアは勝ち誇った気持ちになって、ヴィクトールに尋ねる。
「私のこと好き?」
「……好きじゃない!」
弾かれたように顔を上げ、そう言ったヴィクトールの顔は真っ赤だった。
その瞬間、二人の間に甘くも気まずい、不思議な空気が流れた。アリシアも思わず赤面してしまい、視線をどこに向けていいのか分からなくなる。
ヴィクトールの顔に浮かんだ赤面と動揺を見て、アリシアの心は甘い混乱の中に飲みこまれていく。
「あ、俺、帰るわ〜」
いたたまれなくなったルーカスがその場から去ろうとすると、横からにゅっと手が伸びてくる。ヴィクトールである。
「なんだ。痛いな」
「待ってくれ。お前に帰られるとアリシアと何話せばいいか不安になる……」
「もう、18歳だぞ!? 中等部の男子でもそんなこと言わないぞ」
「人によるだろそんなこと」
「お前ら二人ともめんどくさいな! 本当に!」
ルーカスの言葉に周囲の野次馬たちは何度も頷いていた。
生徒、給仕、いつの間にかコック長までも厨房から出てきて、二人の恋の行方を見守っている。
一方、アリシアは、こちらを向いてくれなくなったヴィクトールの背中に話しかけ続けていた。
「ありがとう、ヴィクトール。お誕生日お祝いしてくれて、とっても嬉しいわ」
「そうか。それなら良かった」
「来てくれて本当に嬉しい……!」
「暇だったからな」
「……あの、いい加減こっち向いてくれる?」
アリシアから見えるのは、紺色のジャケットの背面だけである。いい加減ご尊顔を拝ませてほしい。
「ヴィクトール?」
「ま、待ってくれ、顔をチューニングするから」
ルーカスは「……何だよ!顔のチューニングって!」と叫んだ。
チューニングが必要な顔って一体どんな顔なんだ。
ルーカスと同じく疑問に思ったアリシアは、ヴィクトールの顔を見るために回り込んだ。
「ヴィクトール、顔見せて……って……」
アリシアが彼の視界に入れば、彼の周りに花びらが飛び散ったのか、というくらい空気が明るく染まる。先ほどよりも、ずっと空気が甘い。
ヴィクトールの瞳はきらきらと輝き、頬はさらに紅潮する。それは誰が見てもわかるくらい『恋している人間』の表情だった。
「ば、ばか、見るな……よ……」
はじめて見た、彼のその表情にアリシアは頬がゆるゆるになっていく。
「ヴィ、クトール?」
「君のせいでこんなことになった!……責任を取れ」
「それってプロポーズってこと?」
「〜〜〜!?」
ヴィクトールは、その場にしゃがみ込んだ。そして、顔を両ひざの間に埋めてしまった。
「顔を上げて?」
「無理だ」
「お願い」
「無理だ。君を視界に入れた瞬間、頭がおかしくなる」
「ちょっと酷くない?」
アリシアがからかうように言葉を投げかける。
これは、完全にアリシアの方が優勢である。
少しいじめすぎたかもしれないが、これで少しは痛い目を見せてやれただろう。
彼女は勝ち誇った表情をした。
「ふふ、ヴィクトールたら、可愛いんだから」
しかし、アリシアがそう言った瞬間だった。
突然、ヴィクトールが立ち上がった。
「……なんで、僕が君を避けていたか教えてやろうか」
少しだけ低くなった彼の声に驚いたアリシアは、一歩だけ後ずさりした。
頭一つ分高い彼を見上げていると、ヴィクトールは脈略もなく、アリシアの肩をぐっと掴んできた。
怒られるのかもしれないと、アリシアは身を縮こませた。
「──君が可愛すぎるからだ」
「えっ」
突然の言葉に、アリシアはピシリと固まった。
静かな声に籠った熱が、アリシアにも伝わってくる。彼の瞳には真剣な光が宿り、まっすぐ見つめることができなくなってくる。
「君のことが好きだ。明るいところも、頭が良いところも、友人が多いところも、その薄ピンクの可愛らしい髪色も……」
「ちょ、ちょっとヴィクトールさん……?」
「近くにいると、好きな気持ちが止まらなくなる。だから避けていた」
「ちょっと待って、ってば……」
「でも、これからは遠慮するのをやめる」
「……っ!」
アリシアは彼の肩を叩く。
突然の甘い言葉の連続に頭がくらくらしてくる。
このままでは、アリシアが恥ずかしさで爆発してしまうかもしれない。心臓がばくばくと音を立てて、息が荒くなってきた。
唐突な反撃による形勢逆転に、アリシアの心は付いていくのが必死だった。
「へへ、な、なになに突然、私を褒めても何にも出ないよぉー?」
アリシアは平静を装って、おどけてみせた。完全なる照れ隠しである。
だが、ヴィクトールは、相変わらず赤面しているものの、先ほどとは打って変わって表情に余裕が見える。
そして、ぐっとアリシアを引き寄せた。まるで、逃がさない、とでも言うように。
「────『婚約破棄をしてもいい』と言うならば、覚悟をしてもらわないと」
アリシアはひゅと息を飲んだ。
まさか、先ほど自分がルーカスに向かって放ったセリフが、ヴィクトールの口から返されるとは思ってもいなかった。
確かに、先に『婚約破棄』という単語を出したのは、アリシアだけれども。
(もしかして、嵌められたのって、ヴィクトールじゃなくて……!?)
アリシアは一瞬のうちに状況を理解してしまった。
ちらり、とルーカスの方を見れば、なんだか意味深な顔をして笑っていた。
(や、やられたんだわ……!)
覚悟が足りなかったのは、どうやら自分の方だったらしい。
アリシアの前に、ヴィクトールは跪いた。そして、右手を差し出す。
「僕と結婚してくれますか、婚約者様」
「……!」
どうしよう、とアリシアは思う。
答えは一択のはずなのに、返事をしてしまえばきっと、アリシアはもう、ヴィクトールのことしか考えられない。他の人を見る余裕なんてなくなってしまうくらい、今以上に彼のことが好きになってしまう。
アリシアがふわりと手を乗せれば、手袋越しにヴィクトールの手と触れ合った。そこに全身の熱が集まっていく感覚がする。くらくらして、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。
「うぅ……」
「返事は?」
「う……はい……」
やっとのことで返事をしたアリシアは、きっと顔が真っ赤だった。抱えている薔薇の花束よりも真っ赤かもしれないと思った。
だって、自分が言わせようとした言葉に、自分がやられてしまうなんて思いもしなかったのだ。
わっと周囲が湧き上がる。
ルーカスも、アリシアの後ろにいた令嬢たちも、給仕のスタッフも、コック長も、三年間、モダモダしながら、一向にくっつく気配のない二人を見続けてきたのである。
──素っ気ないヴィクトール様も悪いけれど、アリシア様もだいぶ小悪魔だったよなぁ
──アリシア様、無意識なのが質悪いわよね……
──デート相手がルーカス様じゃなかったら、このレストラン灰と化してるな、きっと
そんな各々の心の声は、アリシアに聞こえるはずもない。
『やっとか』という表情の周囲に見守られながら、アリシアは気が抜けたように、ヘナヘナと床に座り込む。はしたないとわかっていても、もう無理だった。
これ以上、ヴィクトールの顔を見ていると、自分の表情がコントロールできない。
「どうした?」
「駄目なの……」
「どうした、具合が悪いのか? 顔を見せてくれ」
ヴィクトールがしゃがみこみ、アリシアと目線を合わせようとする。しかし、彼女はヴィクトールと目を合わせることができない。
「ちょ、ちょっと待って。顔をチューニングするから……!」
薔薇の花束に顔を埋めたまま、アリシアは言った。
『「婚約破棄をしてもいい」と言うならば、覚悟を決めてくださいね。婚約者様。』完
誤字報告、感想、評価ありがとうございます!
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