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掃き溜めの楽園

「……五回。五回だよ黒猫君」

「五回?」

 気分じゃないと言わんばかりの布の塊から、気だるそうなくぐもった声が届く。もはや意味がないと悟った掃除を動揺を隠すための蓑にして、レイは問いの意味を探る。

「何がです、今日何かあったんですか?」

「気づいていないのかい。君が、ため息をついた数だよ。それも一時間も経たずにね」

「え、そんなですか」

 驚き、今更ながらに手の甲で口を押さえる。自分はこんなに感情が表に出すことはなかったはずだが。もしかしてナーシャに耳触りの良いことを言われて気が緩んだのか?

 ぐるぐると自問するレイに彼女が「あのねえ」と少し苛立たしそうに呼びかける。ぴくり、と僅かに伝わる負の感情が心を波立たせ、レイはそっと伺う視線を向ける。彼女はいつの間にか布を部屋の隅へ乱雑に投げ捨て、胡坐をかいてこちらをじとっと見ていた。

「君は愚痴を吐くことを覚えるべきだよ。ありのままを話せとは言わないけれど、ご飯がまずかったとかエーゼルがヤな奴だとか、そんな些細なことを零してほしい」

「あんたに言うようなことなんて、特には、」

「それだよそれ」

 びしっとこちらを指さすと、壁に寄りかかって腕組みをする。

「愚痴なんかに遠慮する必要ないんだよ。それに、私は囚人で看守よりも立場が下だ。独り言に近い面白くないものなんて耳が腐るほど聞いて来た」

 心底辟易したように彼女は頭を振り、それから今まで聞いて来た愚痴を指折り数えて語り出す。それらを貶しているくせに、なぜかどこかうきうきと楽しそうに。

──やはり彼女は明るい。眩しすぎるほどに。

 蝋燭の小さな炎をめいっぱいに反射する月の目を直視できず、レイはゆっくりと瞬きをして焦点を床へずらす。

 こんな牢獄にいるのに彼女は底抜けに明るい、それこそあの人のように。それはきっと楽しさや喜びを暗闇の中で見つけることができるからだろう。迷子のごとくふらふらと探す僕とは違って、自分の中からそれを見つけ出し、周りに作り出す。周りを巻き込む。

「で、黒猫君は何に悩んでいたのかな?」

 にやにやとふざけた口調で言うものだから、愚痴を重く捉えていた自分が何だか馬鹿馬鹿しくなってきて、口角を緩ませて答える。

「そうですね、エーゼルがヤな奴だったってだけですよ」

「おっ、その調子だよ。やっぱりあの太っちょは性格が悪いね」

「ええ。昔からずっと変わっていません」

 むしろ今の方がお腹周りも性格も悪くなっている、と昔を思い出しながらレイは隠すように笑う。

 エーゼルは自分の足元が見えない程太っていて、その上風呂嫌いで不潔だ。たるんだ顔の肉と、太ったせいで起こる浅い呼吸を弄り、彼を嫌う人は「豚」と陰で呼んでいた。初めて聞いたときは顔を見る度に思い出し、吹き出さないことに必死だった。

「昔って何年くらい?」

「えっと、確か一年半ぐらいですね。あいつに雇われた時からああでしたので……まあ、ましになった方ですが」

「ふうん、どうしてそう思う?」

「あいつが結婚して相手が家に来てからいろいろあって、まあ夫婦仲は知りませんけど、あいつの下で働いてる人はみんな彼女に感謝していると思います。以前よりも怒られないので」

 暴力と欲の矛先が少しだけ彼女にずれただけで、根本的な解決ではなかったが、それでも回数は減ったのだ。彼に従う者に善人なんていない、他人の身より自分の方が可愛い。

「そんなだと奥さん逃げ出しそうだけど」

「言われてみればそうですね、最近姿を見かけませんし」

 ひょっとするとあいつに呼ばれたのも相手に逃げられたから、その腹いせに?

「腹いせ?」

 ナーシャはスズメのように首をかしげる。やらかした、と理解するのに一秒もいらなかった。

「呼ばれたんですさっき。全然呼ばれてなかったのに、明日来いと急に。何ででしょうね、こうやって話しているのがばれたんでしょうか?」

 そんなことあるわけないだろう、の否定の言葉が聞きたくて顔を向ける。

 相槌も否定も肯定も、何もかもを言わずにただ、彼女はあでやかに笑っている。

「な、何か言ってくださいよ。いろいろと勘ぐってしまうじゃないですか」

「へえ、何を考えたの?」

 頬杖をつく彼女の顔を見て、レイは六回目のため息をつく。

 遊ばれている。掌の上だ。

「はあ、楽しいですか、僕で遊んで」

「まあね。ほら、黒猫君は素直だからね。気に障ったなら謝るよ、すまないね」

 彼女はもう一度すまない、と言うなり頭を下げた。

 あまりにも真剣に謝る姿に見かねて、レイはわざとため息をついて許すことにした。

 エーゼルが頭を下げることができたなら、一瞬よぎった考えを四隅に押しやった。あいつが一生できないであろうことはわかっていたし、何よりこの時間の少しでもあいつ以外のことで埋めたかった。

「別に気にしてませんよ、楽しければいいです」

 ナーシャがいるここがあらゆるものからの逃げ場になっていることを、レイはとっくに自覚していた。無論、それを言うつもりはないし、ナーシャも聞くつもりはない。

 光との距離は、鉄格子を隔てるくらいが丁度いい。

読んでいただきありがとうございます。

生きています。(2023 3/11)

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