汚泥
R-15らしい表現があります。
閲覧の際はご注意ください。
エーゼルが新しい奴隷を連れてきたとはいえ、レイの仕事が少なくなるわけではなかった。
レイは眠い目を擦りながら、庭の雑草を抜き、悪態を人知れずついた。
「お金もらっているんだから、庭師がやればいいのに……」
奴隷に近寄りたがらない、あの茶髪の庭師を思い出し、レイは顔をしかめる。汚らわしいとか吐き気がするとか暴言を吐き捨て、今朝小屋の周辺の雑草抜きを押し付けてきたのだ。
普段過ごす小屋の数倍の広い裏庭を見て、ため息を吐き、額に流れる汗を拭う。
「ろくに見ない癖に庭なんか作って」
尊大で傲慢な態度を象徴するような、増築を重ねた下品な屋敷を睨んだ。
――エーゼルは貴族だ。それも、それなりに地位のある。
レイは彼が何の職についているか詳しく知らないが、監獄の管理をし、定期的に奴隷を連れてくる、悪い意味で顔の広い人物だということを知っていた。そして、この国で最も最低な趣味を持つ男だということも。
「……しまった」
知らぬ間に力を込めすぎていたのか、雑草が葉っぱから千切れた。その勢いのまま、眩しすぎる空を仰いだ。
――黒猫君はこんな薄暗いところなんかより、青空の下がよく似合う。
ふと、ナーシャの言葉を思い出す。
あの言葉をもらったとき、本人には言えないが、嬉しかった。僕みたいな日陰者があたたかな陽だまりに照らされて、そこにいても許されるのだと思えて、少しだけ泣きそうになった。
だけど、やっぱり僕はそこに長くいることはできない。あたたかさで火傷してしまうから。
「つくづく後ろ向きだな……」
蝋燭の火よりも眩しくて明るい太陽に、ぎゅっと目を細める。
ああほら、今も光に焼き殺されそうだ。
「おい、そこの愚図!」
無心に染まる心を呼び戻すのは、いつだって誰かの怒鳴る声だ。
レイは積み上がった雑草の山を無視し、声の主の下へ急ぐ。怯える体を叱咤し、その人の下に行くと彼は愉悦で口角を歪ませていて、ここへ何をしに来たか、僕に何を求めに来たのか分かってしまった。
「お呼びでしょうか」
「おせーんだよカス。お前は奴隷で、俺よりも下の立場だろ。待たせるとは何事だ、ああ?」
頬に来る衝撃に目を閉じた。骨がぎしりと音を立てた。
「すみません」
「ちっ、まあいい。これ以上やるとエーゼルの旦那に怒られちまうからな」
不意に聞こえた名前に、ぴくりと大げさなほどに震えた。心臓がひときわ大きく跳ねる。
あいつが僕の体を心配、いや、自分以外の痕が残っているのを気にするとき、それは――それは。
(ありえない。前に呼ばれたのは半年以上も前のことだ。まさかもう新しい奴隷に飽きたのか?)
冷汗が一つ、二つと流れていくのを感じる。握るロザリオが酷く冷たくて、心細い。
「旦那が明日の夜に来い、だってよ。お前をいたぶれないのは残念だが……つまみ食いくらいは見逃してくれるだろうな?」
そんなわけがないだろ、という怨嗟を記憶と共に噛み殺した。
獣の目が欲望に支配される瞬間に、無遠慮にまさぐってくるざらついた手に、与えられる痛み以上に耐えられない無力感に組み伏せられるこの時間が、一番嫌いだった。食べたものも、感じる気色の悪い感情も、奥からせり上げてきて吐き気がする。
それら全部に知らないふりをして、身に沁みついた汚らわしい愛嬌を振りまくのだ。
「……ええ、旦那様は寛大なお方ですから」
伸ばされた手を受け入れる。相手が望む反応を返す、言葉を漏らす。
――なんて息苦しいんだろう。
ここは血の匂いも何かの腐敗臭もしないし、あの場所より空気の通りもはるかにいいというのに、うまく息が吸えない。首が絞められているみたいだ。
涙で歪む視界に、鈍い色の一番星が瞬いた。
地に落とされたロザリオは、星明かりを反射することはない。
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