ひとつの灯火
「ねえ黒猫君、掃除は楽しい?」
ため息交じりに投げかけられた言葉は、確かな呆れと辟易が感じて取れた。
――いつの間に、気に障るような真似をしたのか?
レイは静かに息をのみ、動揺を押し殺しながらナーシャの顔色を伺う。
本当は、彼女の機嫌を取る必要も、不機嫌からくる脅威を恐れる必要も、どちらもない。しかし骨の髄まで溶け込んだ恐怖は、星明りですら完全に消し去ることはできなかった。
「……あんたは、この単純作業を楽しいと思うんですか?」
「そんな言い方はよくないなあ、世の中にはそういったことを喜んでやる人もいるというのに。まあ黒猫君は……その種類ではないようだけど。でもそれでよかったよ。真面目過ぎるのは私もあまり得意じゃなくてね――」
いつものへらへらとした調子が戻ってきて、レイは密かに胸を撫でおろす。身振り手振り、レイが何も反応を返さないのに、ナーシャは酒を飲んだように饒舌に語る。
それにしても――。
レイは喋り続けるナーシャを尻目に、掃除の手を緩めた。この、一つのことに集中すると、もう一つがおろそかになってしまうのはレイの悪癖だった。
ナーシャは、僕に何を尋ねようとした?
掃除が楽しかろうと、つまらなかろうと、ナーシャは僕について何も知ることが出来ないし、得もないだろう。
「単刀直入に聞きますが、あんたは何を知りたいんです?」
「突然なんだい。ただの世間話に大仰なものを求められても困ってしまうなあ」
「少なからず、今まであんたは目的があって僕に話しかけてきたでしょう。名前の時も、景色の時も。……あんたの質問は、そういったものではないんですか?」
言葉が数秒宙を漂った後、ナーシャは、ああ、と声を漏らすと闊達に笑い始めた。
「あっはは、どうやらだいぶ、私を買いかぶってくれているみたいだねえ。そのことは嬉しいが、残念ながら君の期待するような目的はないさ。さっきのは本当にただの世間話のつもりだったんだ。ふっ、ははは!」
にわかに明度が増した景色に瞬きを繰り返す。やはりナーシャは眩しい。この光景は嫌いではない、が笑い続けられるのはさすがに居心地が悪い。
「はあ、時間も有限だというのに呑気なものですね」
「おや、君がそれを言ってしまうとは。照れ隠しにその話題を使うなんて……よっぽど恥ずかしかったみたいだね?」
――ばれている。
うまい言い訳なんて思いつかず、悪態すらも微笑まれそうで、レイは掃除に意識をそらした。
前と違って、自分が知られていることに嫌悪を抱かない。背筋に氷がつたうこともない。今あるのはどうしようもない居心地の悪さと、抑えきれない体の熱。
「私はただ、首輪を外す手伝いをしているだけだよ。ここから脱獄するには、黒猫君自身が踏み出さなくちゃあならない。君に告げた一週間の猶予は、そのためにあるんだからね」
盗み見したナーシャの表情は、とてもきれいで、怪しくて、人を誑かす魔女そのものだ。どんな物語においても、魔女に惹かれ、にこやかに差し出された手を取った者は、必ず不運な目に遭う。最悪、家族のみならず自身の命すら失う。
でも、そんな運命に引きずられることになっても、僕は必ず、ナーシャの手を握ってしまう。囁かれる甘言に一も二もなく頷いてしまう。
(たった数時間過ごしただけというのに、こうも絆されるとは)
レイは鼻を鳴らし、自嘲の笑みをこぼす。
話し相手に飢えていたからだろうか、この状況から脱出できると知って安心したのだろうか、それともナーシャにあの人の面影を重ねているのだろうか。
……何だっていい。どんな理由であれ、魔女を自称するナーシャのせいにしてしまおう。
掃除がひと段落着いたところで、朝を告げる鐘の音が地下に鈍く響いた。
レイは水を壁にかけると、手に持っていたブラシを空になったバケツに放り投げ、ぐっと背伸びをする。
「もう帰ってしまうのかい」
「ええそうですよ。僕はまだ別の仕事が残ってますから」
「ふーん、そうか。適度にさぼりなよ。脱獄のときへろへろじゃあ大変だからね」
ナーシャのからかう声を背中に、レイは古めかしい木の扉を閉じた。
最初に感じた不気味さを、もう感じることはできなかった。
前回の話にいいねをつけてくださり、ありがとうございました。