憧憬
「ねえ黒猫君、好きな景色はあるかい?」
「景色……ですか?」
「そうだ。青空とか、街並みとか、何でもいいよ」
何の変哲もない、ただの世間話。だがレイには語れるほどの何かを持ち合わせていなかった。
言葉につられて、眼前の汚れた手を見る。色んなもので元の手の色が分からない、爪も割れている、ざらついた奴隷の手だ。全然、綺麗じゃない。
レイはため息を誤魔化すように、ブラシで壁を強く擦った。
――俯いてばかりで、何も浮かばない。色のない風景ばかりだ。
沈黙を困惑と受け取ったのか、ナーシャは頭をガシガシとかき回し、「あー、」と続ける。
「答えられないなら、今はそれでいいよ。私は君が脱獄した後、何がしたいかを聞きたかっただけだからさ」
「何がしたいか……」
「そうだ。君は脱獄を最終目標だと思っているだろう? そして成功した後は漠然とどうにかなるだろうと考えている」
「……」
レイは一瞬手を止め、キッと口を一つに結ぶ。
確かに彼女の言ったことは間違っていなくて、あまりにも情けなくて、いたたまれなくて、言い訳なんてないのに「違う」と言ってしまいたくなる。
「別に、その考えも悪くはない」
腕を組み、妥協を滲ませてナーシャは語る。
「脱獄した後、食べていけるのか、金は稼げるのか、追手が来ないか、住処はあるのか……心配事を数えていくと、その数だけ不安要素が見えてしまって、行動へ移すのに随分と億劫になってしまうからね……でも」
ナーシャは言葉を切って、それから心底懐かしそうに、眩しそうに目を細め、伸ばした手を眺める。
「それじゃあ面白くないだろう? この世界には、果ての見えない海があり、表情を変え続ける空があり、人情深い人たちがいて、美味しい食べ物がある。こんな素晴らしいものを追手や金のしがらみに囚われ、見過ごしてしまう……それは、とてももったいないことなんだよ」
切なく響く声は、色褪せた風景を呼び覚ます。
――とある絵描きと、異国の花。そして未だ果たされぬ約束を。
レイは服の上からロザリオを撫でると、静かに決意する。
「……つまり、脱獄以外の目標を見つければいいんですね?」
「ああ。黒猫君には人生を楽しんでほしいからね。上を向く何かを決めるのは、大事なことだ」
「なら僕は……人を、探したいです。旅をしている、たった一人の友人を」
目を閉じて、姿を思い浮かべる。
記憶の中のあの人はいつも歯を見せて笑う。絵具を散らした手でレイの頭を撫で回しては、髪を短く切りたい、と一つにまとめた自身の長い茶髪を指に巻き付けてぼやく。絵を学ぶためなら金に糸目はつけない、豪快で、変なところが抜けている、騙されやすい人。
「絵描きなんです、女性の。あの人にお礼を言いたくて。昔本当にお世話になったので」
「……そうか。うん、いいね」
――またナーシャは、遥か遠くを見ているのだろう。
レイは口数の少なくなったナーシャの状態を伺う。彼女とは半日も過ごしてはいないが、一つだけわかったことがある。それは彼女が昔を懐かしむとき、声色は酷く優しくなり、独り言のように声量を小さくするのだ。この声を聞くと、知らない感情が沸き上がり、どうにもナーシャを気にかけてしまい、色々なことを口走ってしまう。感情が先行していく、抑えきれない。
「あんたこそ、見たいものはないんですか」
「私かい?」
「ええ。僕だけ喋るのは不公平でしょう」
「そうだね、私が望むのは……」
一拍置き、ナーシャは小さく笑って答える。
「君が、自由を手にして笑うところだよ」
「っ誤魔化さないでください。そんなこと見ても楽しくも何ともないでしょうに」
「本音を言ったまでだよ。黒猫君はこんな薄暗いところなんかより、青空の下がよく似合う」
蠟燭の火が、ほのかに揺らめいた。
「はあ、もういいですよそれで」
「はは、酷いなあ君は。私はただ、黒猫君の心からの笑顔が見たいだけなのに」
(……狡い人だ)
僅かに緩む頬を引き締めながら、レイはふっと息を吐く。そして取り出したロザリオに額を預けた。
――例えナーシャの話すことが全て噓であっても、裏切られるその瞬間までは、その優しさにすがっていてもいいだろうか。
「一週間後が楽しみだね?」
投げかけられるからかうような声に、レイは何も返さなかった。
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