暗がりの北極星
「そういえば君、名前はなんて言うんだい?」
血と吐瀉物で塗れたこの場に似つかわしくない、好奇心に満ちた問いかけに、レイは眉をひそめた。幸い、ナーシャに背を向ける形で掃除をしていたおかげで、その感情の機微を悟られてはいないようだ。
内にほの暗い心情を宿しながら、レイはため息交じりで答える。
「どうして、名前なんて知りたいんですか」
「名は体を表すと言うだろう? 私はまだ、君について何も知らない。互いを知らなければ信頼なんて土台無理だろうからね。私は、君の全てを知りたい」
ナーシャは親指と人差指で丸を作り、返事のない背中を覗く。彼女からは表情こそ見ることが出来ないが、掃除の進み具合や声色から、僅かな心情を読み取っていた。
「ふーむそうか、話したくない、か……」
腕を組み唸る声を尻目に、レイは密かに安堵する。無神経なように見えて、案外人を慮ってくれているみたいだ。
そう考えた途端、罪悪感が背筋を伝う。
折角脱獄する機会が与えられたというのに、嫌いな名前を言いたくないというエゴを通そうとしている。自己矛盾も甚だしい。
手のブラシを握りしめ、思い詰めるレイの耳に「でも……」と妙に楽しげな声が届く。
「いい判断だよ、君。先程も言った通り、名前はその人全てを表す。だからそういうのに詳しい者――例えば魔女たちは皆、偽名を使うんだ。真の名を知られてしまったら、自分の命は相手に握られたも同然になってしまうんだからね」
「……じゃあ、アナスタシアも偽名なんですか?」
久方ぶりに向けられた視線に、ナーシャは金色の目を妖しく光らせて、こう返した。
「さあ、どうだろうね。まあでも、戸籍上はそれだし、皆が私をアナスタシアと、または愛称で呼ぶ。この名前は気に入っているから完全に偽名ってわけじゃないさ。それに――」
俯きがちに呟かれたその一言に、レイは目を見張る。
尻すぼみに発せられた言葉は、想像の中の彼女とは程遠い悲しい響きだったから。まるで、笑い話にしようとして、突っかかりを感じてできなかった、そんな。
レイは押し黙ったナーシャを盗み見しながら、思案を巡らす。
彼女は、不思議な人だ。
この血なまぐさい拷問部屋に何日もいるというのに、けらけら笑って発狂の素振りを見せない。そのくせあの黄金の、月のような目は、稀に遥か遠くを見据える。その時間だけ、彼女の目は曇り、柔らかな表情に影が差す。
触れれば、飲まれてしまう。
その姿はまさに、人を闇に引きずり込む魔女。そして――ただの寂しがり屋、なのかもしれない。でなければ、どうして僕を脱獄に誘うというのか。
(……そう考えると、ナーシャがあの状態のままなのが落ち着かなくなってきた)
レイはおもむろに首にかけた、塗装の禿げたロザリオを取り出して見つめる。
長く暗い、独りぼっちな夜をいくつも乗り越えてこられたのは、鈍く光る思い出があったからだ。あの人は、もう僕のことなんて覚えてすらいないだろうけど、僕は少しばかりのあの人の優しさにすがって生きてきた。
では、ナーシャにとっての支えはどこにあるのだろうか。
余計なお世話だというのは、自分が一番わかっている。出会ってまだ数時間も経ってない、何も知らない子供がそれになれるとは思わないし、その考えはとても傲慢だ。
でも――それでも。
「……僕は、僕には名前がありましたが、もう忘れてしまいました。誰かに与えられた最初の名前は、数えるほどしか呼ばれませんでしたから。次につけられた名前を、僕は毛嫌いしていますが……意外と、僕たちは、その……似ていませんか?」
ずっと孤独を生きてきたレイの、最大限の歩み寄りだった。
レイは暴れる心臓を抑え、耳を澄ましていた。そして――
「何だ、聞かれてたのか……」
突然どうしたのか、と困惑の言葉が来ると思いきや、呆れが含まれているものの、声色は随分と柔らかで、レイは思わず振り返る。
目が合うと、ナーシャは目元を緩ませ、穏やかに笑って見せた。
「っはは。君、慰めるの下手だねえ。そういう台詞は口ごもってはいけないよ」
「うるさいです。慣れてないだけですから」
「そうかいそうかい。まあでも、君はたどたどしいくらいが丁度いいよ。こんなところにいるロクでもない人たちには、君のような純朴さが一等響くんだからね」
そう言った後、ナーシャはくすくすと思い出し笑いを続けた。レイは急にいたたまれない気持ちになり、緩めていた掃除の手を一層早めた。
「ああ、そうだ君。さっき今の名前が嫌いって言ってたね?」
「……そうですけど、何か?」
これ以上からかわれるのはごめんだ、そう恨みを込めて返事を返すと、ナーシャは「悪かったって、そんなに怒らないでおくれ」と肩をすくめ、こう返す。
「いつまでも君呼びじゃあ素っ気ないだろう? だからあだ名をつけようと思うんだ。ちなみにこれに拒否権はないよ」
「変なのはつけないで下さ……てもう聞いてないし」
反論をしようと顔を上げると、もうすでにナーシャは指を折ってあだ名を吟味していた。そうしてブツブツと独り言を呟き、何回か頷いたかと思うと、指を鳴らし満足げに告げる。
「よし決めた。今日から君を黒猫君と呼ぶことにしよう。いいかい、黒猫君?」
「黒いってだけじゃないですか……」
「まあまあ、君はあだ名に込められた思いを知らないからそんなことが言えるんだよ。ともかく、これからはそれで呼んでいくからね、黒猫君」
有無を言わせない笑顔の圧に、レイは黙って首を縦に振るしかなかった。
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