闡明
かつんと何かが落ちた音がした。手に持っていたブラシだった。
レイは拾うついでに彼女と向かい合う。
「……なに、言ってるんですか」レイは動揺しながらも、なんとか言葉を返す。「その発言を上に告げ口したらどうなるかわかってますか」
「当然、知ってるさ」彼女は何でもないようにけらけら笑いながら答えた。「さらに拷問が厳しくなるね」
「それを知っていながらどうして僕に話したんです。傷が増えて嬉しいことなんて何一つないでしょう」
「聞いても、君は話さないだろう?」
根拠でもあるかのようにきっぱりと告げられたそれに、レイは僅かに恐怖する。
会って一時間もない人に自分の性格を知られていることに。
何が目的なんだ、何に利用する気なんだ――疑心暗鬼に陥りつつあるレイを置いて、彼女は得意げに話を続ける。
「君は私の体の傷を見て共感の色を顔に浮かべたんだ。しかも無意識に腹を庇う仕草までしてさ。痛みを知っている仲間がさらなる地獄へ突き落とす真似はしないと思ってね。そうだろう? それに、君は優しいから」
その返答にレイは顔をしかめる。
言い当てられたのもそうだが、何よりこんな軽薄そうな人の仲間に入れられたことが心外だった。
――人間なんて簡単に信じてはいけないのに。自分は優しくなんてないのに。
「……仮にそうだとしても脱獄まではしないでしょう」意趣返しのつもりで返事をする。「名前も性格知らない上に、魔女と疑われた人を信用できるわけないじゃないですか。会話さえろくにしていないというのに」
「では、君を虐げている飼い主は『信用できる人』なのかい?」
レイは言葉に詰まる。
彼女の指摘通り、レイの飼い主――エーゼルは信用できない側の人間だ。約束を反故にするなんてざらにあるし、息をするように嘘をつく。
だがそれでも、初対面の人を信用する理由には到底ならない。
「確かに信用できない人ですが、見ず知らずのあんたについていくよりも安心はできますよ」
「安心ねえ。君、つまらない人生してるね」
氷の刃が心臓を貫いた。罪を咎められているように感じ、反射的に首元のロザリオを掴む。
思わず唾を飲むレイを見据えつつ、彼女は嘲笑さえ浮かべながらまくし立てるように彼を責める。
「自由な世界に飛び込むよりも、暴力を振るわれる方がましなのかい。狭い檻の中で仮初の幸福を享受しつづけるなんて、惨めにもほどがあるよ」
「ッ別にいいじゃないですか。下手に抵抗して酷い目に遭うよりもおとなしく飼われていた方がましです」
「犬の様に這いつくばって足を舐めて、どんな酷いことされても尻尾振りながらついていく生き方が、君にとって自由や幸福よりもましなんだ? そこから抜け出す選択肢に見ないふりするの、君は楽しいんだ? 私は死んでもそんな人生、お断りだけどね」
喧嘩を売るように投げかけられる罵声に、感情が荒ぶるのを否応なしに感じる。
レイはぐっと掌に爪を立て、悪臭など気にも留めず深呼吸する。落ち着け。彼女が何を考えているかは知らないが、ここで挑発に乗ったら確実に悪いことになる。そして何より掌の上で転がされるのはごめんだ。
レイが必死に抑え込もうとした激情は――彼女によってあっけなく引きずり出される。
「現状を変えようとしない奴はただの馬鹿だよ。自由を謳歌する人間を指くわえて見てろ、哀れな子犬」
「――うるさいッ!」
くすぶっていた火種に油が注がれたように、かっと怒声が飛び出した。火は窘める理性を焼き切り、熱は網膜に宿る彼女を焦がす。
酸欠に喘ぐようにして、レイは感情を爆発させる。
「何も、何も知らないあんたが、僕の生き方に文句なんかつけんなよ! 現状を変えようとしない? 選択肢に見ないふりしてる? そんなものは愚かだって、僕が一番わかってるよ! だけど……!」
レイは目に涙を浮かべ、彼女を睨む。
「僕だって逃げようとしたさ。でも無駄だった。どれだけ下準備を重ねても見つかるんだ、捕まるんだ。その絶望と恐怖を……後悔を、あんたはわからないだろ! 捕まるたんびに受けた躾を、打擲を、拷問を、恐れることの何がいけないんだ!」
叫びと共にレイの瞳からぽたりと雫が落ちる。
息も絶え絶えになったレイに、彼女は先程の冷笑が嘘のようにあっけらかんと笑った。大口を開けて、涙さえ拭きながら。
「……何がおかしいんです」
「いやあ、やっと年相応な表情を見せてくれたなあと思ってね。さっきまでの仏頂面より、そっちのほうがまだ可愛げがある。しかしそれにしても、君の本心を知れて良かったよ。逃げようと思い続けていることを」
「当たり前じゃないですか。好き好んでこんなとこいたくないですよ」
言うようになったね君、とふてくされながら鼻をすするレイに、彼女は呆れるように微笑む。そして、ピンと人差し指を立てた。
「脱獄についてきてくれない理由は、私自身への信用のなさだけだとわかったから……一週間だ。その期間で君を口説き落としてみせよう」
「……いいですよ。できるのなら」
「ああ勿論。私は魔女と呼ばれる女だからね、君を惑わすくらい造作もないよ」
そうですか、と素っ気なく返し、レイは彼女にくるりと背を向け仕事を再開した。彼女は不満を漏らしたものの、おとなしく引き下がった。
――ここから出られるのなら、すぐにでもあんたの手を取るのに。
喉まで出かかったその言葉は忌々しい記憶によって息と変わる。心は開放を切望しているのに、心がエーゼルの呪縛から逃れられずにいる。相反する感情が僕をこの場所に閉じ込め続けている。扉は彼女によって開け放たれているのに。
(意気地なし、びびり、根性なし)
自分を貶してみるも、本質は変わらず奥底に巣食っている。
ため息をつくレイに、彼女は明るく呼びかける。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私はアナスタシア、近いうち君をここから連れ出す魔女だ。気軽にナーシャと呼んでくれ」
彼女――ナーシャは胸を張って、闊達と笑った。
読んでいただきありがとうございます。
変更(2023 3/4~)
そんな時間かけなくても、僕はあんたの手を取るのに。⇨ここから出られるのなら、すぐにでもあんたの手を取るのに。