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牢中のカナリア

 ちゃぷちゃぷ鳴る水とブラシが入ったバケツを持ちながら、レイは薄暗い監獄の中を門番と二人歩いていた。周囲にまとわる闇は点在する蠟燭の明かりで多少ましにはなっているものの、無言で進むには厳しい恐ろしさを醸し出していた。

 レイはもう幽霊を怖がることはないが、ただでさえ真っ暗な監獄内を、ずっと黙って知らない人の背中を追い続けることにはさすがに抵抗があった。監獄に光源くらいはあるだろうと、自前のランタンを持ってこなかった自分を罰したくなり、レイはため息をついた。


「おお? こんな時間に見回りとは珍しいな看守さん?」

「……っ!」


 真横から聞こえた男の声に、レイは悲鳴を嚙み殺せたが驚きを隠せずに水をバシャりとこぼした。そんなレイの失態を気にもせず門番はレイを置いて先へと歩みを進めていった。少しも行動を止めない門番に焦りを覚えつつ、置いて行かれないように早歩きで距離を縮める。

 囚人が収容されている区間を抜け、階段を下って地下に降りると目的の拷問部屋に繋がる古めかしい木の扉がレイを迎える。その周辺は黒く汚れた石壁に蠟燭一本の明かりと、不気味さを感じさせる作りになっている。

(本当に一人でここの掃除をやるのか……)

 そう考えると急激に喉が渇いて冷汗が止まらなくなってくる。レイは扉の取っ手に手をかけ深呼吸をしながら、緊張を怒りで上書きしようと、仕事を押し付けられた経緯を思い出す。


 レイの雇い主であるエーゼルの屋敷の裏手の掘っ立て小屋へ、エーゼルの関係者であろう茶髪の男が断りもなくやってきた。もっとも、立場の低いレイにとって断りを入れられることの方が珍しいので、さほど驚かずに、されど()()()()()対応する。

 この場所に人が訪ねてくる、その目的はレイを使って憂さ晴らしをすることに他ならないからだ。

「おい、エーゼル様んとこの坊主。お前に用事があるんだが……聞いてくれるよなあ?」

「っはい、何でしょうか」

 旧来の友人のように肩を抱かれ、レイは猫のように体をびくりと跳ねさせる。手足が震えこの場から逃げ出したい衝動に駆られるが、酒気を帯び上機嫌な男の手前、粗相をして気分を損ねるわけにはいかない。

 レイは首から下げた小さなロザリオを、手が白むほど握り締めてこらえる。

「お前、確か夜に牢の清掃やってるよなあ」

「はい。エーゼル様の管理するリトス監獄で清掃の役を務めていますが……」

 意想外の話に困惑しつつ、感情を表に出さぬように平坦な声で答えた。男は内緒話をするように顔を近づけ、囁くように尋ねる。

「そんとこの魔女って知ってるか?」


 ――魔女。

 それは人智を超えた、魔法と呼ばれる力を使い人々を虐殺したとされるおとぎ話の存在だ。その描写は白髪の老婆であったり、黒髪の美女であったり、人を誘惑する美丈夫であったりと地域によって様々だ。しかしどんな話においても、魔女は「人に危害を加え、恐れられる」存在であると表現されている。

 だがそれは架空の話であり、信じて怖がるのは年端もいかない子供だけだ。

 では、男が言う魔女とは何なのか。

 レイは記憶を辿り、数日前に看守が噂していたことを思い出した。

 確かその内容は、

「――魔女狩りで告発された女性……でしたよね?」

「ああそうだ。そいつがすっげえ美人でよお、なんとか一発やれねえか上に相談したんだが、割り当てられた仕事が牢の見張りでもなんでもなく掃除だったんだよ。ああまったく意味がわからねえ! どうせ汚しちまうのに綺麗にするなんて無駄だろうし、ちまちました掃除なんてやってらんねえっての! おこぼれどころの話じゃねえ!」

 男はその時の苛立ちを思い出したのか、舌打ちをし、壁を殴った。落ち着くまでに何回か繰り返し、一つ息を吐くとこちらに顔を向け、にたりと悪趣味な笑顔を浮かべた。

「だからお前に変えといたから」

「え、そ、その業務はいつ頃行えばよろしいのでしょうか」

「あー? 館の掃除なら別の奴が入るってよ。そん代わりお前はろくに掃除してねえ拷問部屋をかかりきりでやんだよ。ざまあねえな」

 いつもの時間に行きゃ門番が案内してくれんだと、そう男は言い残し、げらげらと笑いながらこの部屋を後にする。

 残されたレイは状況を把握できず、男の背中が見えなくなるまでぼんやりと眺めていた。


「思い返せば意外に親切だったな、あの飲んだくれ」

 湧きあがった感情は怒りではなくむず痒いものだったが、緊張を解せた。これで扉の先に進む覚悟が整えられた。

 レイはノックをし返事が来ないことを確認してから、思い切り取っ手を引いた。

「うっ……!」

 濃厚な血の匂いが鼻を刺す。血以外にもカビや吐瀉物といったものが混ざり合った悪臭に、とっさに空いている腕で鼻を覆う。本能が足を進めるのを拒絶している。肺を動かすのを拒否している。胃を痙攣させ中身を吐き出させようとしている。だが理性は任務を遂行させるため、体を前へと突き動かす。

 拷問部屋の内部は四つの空間に分けられていた。扉から伸びた道を挟み、左側は休憩スペースに一人分の牢。右側は拷問場所と物置になっていた。そこまで広くなく掃除には楽だろうが、何年も放置されたような悪臭が大きな障害になっていて思うように作業できなくなる可能性が高そうだ。

 どこもかしこも汚れがこびりついていてどこから始めるべきかわからず、レイはひとまずバケツを部屋の中央に下ろす。さすが拷問部屋と言うべきか、汚さも臭いも牢屋の比にならない。

「……はあ、やるか」

 最初は牢内の掃除にしよう、とレイは水中のブラシを取り出し、鉄格子の扉に手をかけて――弾かれたように手を引いた。

 牢に置いてあった布が唸りながら動き出したからだ。

 どうしてここに人が、ここは使われていないんじゃなかったのか、魔女は上の牢じゃなかったのか――踊る思考を無理やり頭の隅に追いやり、レイは音を立てぬよう後ずさる。拷問場所の鉄格子に背中をつけたと同時に、布の中の人物が姿を現した。

 暗闇に光る金色の目。寝起きで細められた目は蛇が獲物を狙うが如く鋭く冷ややかだ。長くぼさぼさな黒髪、体に見られる傷、手足につけられた枷がその人物が拷問を受けていることを示している。

 レイは金縛りを受けたようにその人から目を逸らすことができなかった。そんな彼の心情を知ってか知らずか、その人は口角をあげ微笑んだ。

「ここを掃除しようだなんて酔狂なことしてるね、君。水拭きどころか箒で掃かれてるところすら見たことなかったのに」

「は、はあ、そうですか……」

 がしがしと頭を掻きながらあくびをする彼女に、レイは密かに体の強張りを解き自嘲する。鉄格子越しに危害を加えられるわけがないというのに、どうしてあんなにも警戒してしまったのか。

 レイは視線を彼女から外し、掃除へ戻るためバケツを持ち拷問場所へ入る。どこから手をつけるべきか悩んだが、ひとまずは壁からにした。床や道具はどうせすぐ血なんかで汚れてしまうだろうし、何より掃除は上からだ、と昔いた孤児院で習ったからだ。

(……必要な知識だけはちゃんと教えてくれたんだよな、あの人たち)

 それ以外は本当にくそだった、とレイは心の中で吐き捨てる。

 親が死んで身寄りのないレイを保護してくれたのは孤児院だ。だがこの地域では見ない黒髪や、充血したような真っ赤な目を理由に虐待したのも孤児院の人だ。恩はあるが、その倍は恨みがある。

(それに僕がここにいるのも()()()()()――)

 突如耳に届いた透き通った声が、沈んでいく思考を引っ張り上げた。

「ねえ君、私と脱獄しないかい?」

 ――酷く不穏な響きを伴って。

読んでいただきありがとうございます。

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