パクってされた
高二の夏の終わり、家の裏の湖で、じいちゃんがぱくってされた。
慣れ親しんだ湖で、俺の目の前で、じいちゃんがぱくってされた。
『巨大生物が住む』という伝説を持つ湖で、代々貸しボート屋をやってる勇喜たち家族。
そんないつもとなんら変わらない日常が、突然崩れ去った。
目撃者多数。物的証拠は無。親子で食い違う伝説。
俺は誰から、この伝説を聞いたんだっけ。
裏の湖には巨大生物がいるらしい。
じいちゃんも、じいちゃんのじいちゃんもそう聞いて育った。
けど、みんなそれは子どもの事故を防ぐ為の方便だと思ってた。
俺もそう思って十七年間生きて来た。
そう、流された無人ボートを回収しに行ったじいちゃんが、ボートごとぱくってされるまでは。
そもそもそう言われて育ったのに、何でうちは貸しボート屋なんてやってるんだって話だ。
確かに、市の観光マップや雑誌に載るくらい大きく綺麗な湖で、年がら年中カメラを持った観光客で賑わってるけど。
確かに、ここ何年かは巨大生物伝説の湖って事でそっちが目当ての観光客も増えたけど。
夏休みに小遣い稼ぎするのに最高な家業だけど。
空っぽの棺を置き、形だけの葬儀をしている間、俺はそんな事ばかりぐるぐると考えていた。
「ウツボみたいだったよな。蛇とも鰻とも違う、こう、ウツボみたいなガバッと開きそうな口のよ」
葬儀中だと言うのに、こそこそと落としたつもりの声がそこかしこから響いてくる。
そりゃ、未知の巨大生物を見てしまったら、葬儀なんかよりそっちに夢中になるのも仕方がない。
こんな時、小声の方が嫌でも響いて聞こえてくるんだよな。
「鯨よりでかかったよな? 鯨、見たこと無いけど、大口開けてもあれよりは小さいだろ」
「鯨よりでかいウツボがこの湖になぁ。でかい湖だけど、さすがに無理があるだろ。そんだけでかいのになんで今まで見付からなかったんだよ。なに食ってんだよ、絶対餌足りないだろ。どうなってんだよ」
「そんな事聞かれても知らねぇよ。でも、お前も見ただろ。槨水さんがーー」
どこからともなく聞こえてきた咳払いに、それっきりピタリと小声が止んだ。
視線で探ってみると、じいちゃんの将棋友達だった木工所の楠さんが、眉間にくっきりとシワを彫り込み、周囲を睨み付けていた。
小柄な体に不釣り合いなそのオーラと言うか、とてもカタギとは思えないその雰囲気のせいか、変な噂絶えない楠さん。
・七歳にして、熊の首を手刀で落とした。
・指で弾いた小石が木を貫通した。
・神輿を一人で担ぐ。
・発声による健康法が流行った時、大声を出したら失神した魚が浮いてきた。
絶対嘘だと分かっているのに何故かどれも出来そうで、しかも本人も否定しない。そんな噂ばかり持つカッコいい楠さん。
その楠さんが、泣かまいと唇を噛み締め斜め上に視線を向け、静かに座っている。
空っぽの棺のせいか非現実的な事故のせいか、みんな浮わついているけど、楠さんのその凛とした姿が現実に引き戻してくれる。
なんとも悲しみの薄い葬儀を終え不思議な虚無感の中、気付いたらみんなぼんやりと湖を眺めていた。
湖は変わらず静かにさざ波が打ち寄せ、鳥がぽつぽつと浮いている。
対岸では紅葉が始まり、これから山と水鏡に写った二つの紅葉目当てに観光客が更に増える。
『槨水ボート』と書かれたボートはいつも通り番号順に並んでいるが、五番と六番が欠けている。
ボートを新調しなきゃ。ボートの字も掠れて消えかけてる。
何となく、一番のボートに乗り込み座ってみる。
心地よい揺れにまたぼんやりと思考が停止する。
ごろりと寝そべってみれば、ボートの内側の見えないところに男女の名前の落書きを見付け、なんか癪にさわったので削ってやった。
「勇喜、恵ちゃんが心配してる。ボートから降りろ」
突然視界に割り込んで来た楠さんにビックリして思わず飛び起きると、見事に楠さんに頭突きをしてしまった。
「ご、めんなさい……」
再びボートに寝そべりながらどうにか謝ったけど、シャレにならないくらい痛い。
痛いじゃ済まない激痛なのに、楠さんには何事も無かったかのように余裕の笑みを浮かべている。
「いや、俺も悪かった。でもほら、今ので恵ちゃん笑ったぞ」
息子が悶絶する姿を見て笑う母親なんていないだろ。
ちらりと視線を流せば、母さん元気に大爆笑中だった。
微笑んだくらいかと思ったら、まさかの大爆笑。
見渡せば、どいつもこいつも俺を見て笑ってる。
少しは気が紛れたみたいで良かったと思うことにしよう。
楠さんの手を借りボートから降りると、足元がふらついた。
よたよたと数歩後ずさりし、どうにかボートに寄り掛かって立つ。頭突きのせいか動くと視界がふわふわ揺れる。
「おい、大丈夫か。担いでやろうか?」
珍しく慌てた楠さんが、心配そうに俺の肩を支える。
支える力があまりにも強くて諸々の噂は本当だったんじゃないかと、ついにやけてしまった。
「おい、しっかりしてくれよ」
「頭突きで死んだら、また変な伝説増えるね。頭爆発しそうに痛いけど、大丈夫」
泣きそうになりながら俺を抱え込んだ楠さんに、元気に笑いかける。
「それより楠さん、五番と六番のボート造ってよ。他のと違う、なんか特別なやつ。海賊船とか宝箱とか、そんなやつ」
突然そんな事を言ってみると、楠さんをはじめ、大人達が一斉に顔を歪めた。
「勇喜、うちは木工所だぞ? そのボート、強化プラスチックだろ? 木で造ったって、それに……」
「強化プラも木も、鯨よりでかいウツボの怪物相手じゃ笹舟と同じだよ。なら楠さんのが良い。楠さんのなら、食われても腹の中で生き延びれそうな気がする。なんだっけこの話、ピノキオ?」
問うように振り向くと、父さんも母さんも何とも言えない悲しそうな顔で立っていた。
父さん達の後ろの方で、葬儀中小声で話していた人が気まずそうに顔を反らしたのが見えた。
「勇喜、事情聴取が終わって諸々一段落したら、引っ越そうと思ってるんだ。四十九日明けくらいから準備をして……。もう貸しボートなんて続けていけないし、ここに住み続けるのも」
父さんはそこまで話すと言葉を濁し、ぼんやりと湖に視線を投げる。
いつも通りの変わらない湖だけど、父さんにとっては見たくもない場所なんだ。
父さんだけじゃない。
母さんも、近所の人も、湖にもボートにも近付きたくないはずだ。
危険生物が居て、人が死んだ。
人が死んだ場所なんだ。
ショックと言うより、現実味が無さすぎてショックですらない。
そう言えば、目の前でぱくってされたのを見たのに、葬儀を終えた今でも涙の一滴も出てこない。
泣き出した母さんがしがみついてきた。
母さんをあやすように、父さんは俺ごと母さんを抱き締める。
俺は大丈夫だから。
そう言いたかったけど、大丈夫がなんなのかわからなくて、そのままぼうっとしてたけど、それはそれで大丈夫そうに見えないだろなって思ったら、更にどうしたら良いのかわからなくなって。
楠さんが泣きそうだ。
ボートがダメなら、遺骨も無いじいちゃんを偲ぶ何かを楠さんに造って貰おう。
ああ、頭の中がめちゃくちゃだ。
やっぱり俺、大丈夫じゃないのかな。
頭突きのせいかも知れないけど。
「今までずっと大丈夫だったのに、ずーっとボートやってて何とも無かったのに。じいちゃん、何かしたのかな。何したんだろ。いつもと違う何か……湖で立ちションとか、タバコ捨てたとか。タバコ吸わないけど。でもそんなの観光客がやりそうだから違うか。そう言えば、巨大生物伝説っていつからあるんだろ。市は、警察は、巨大生物をどこまで把握してるんだろ。被害があったらこんな曖昧な伝わり方しないよな。じゃあ警察関係ないか。ゲームだったら封印が解かれてって感じなんだろな。じいちゃん、ついに封印解いちゃったのかぁ……」
何となく、目があった楠さんに言ってみたけど、目があっただけで独り言だ。
でも、楠さんはそんな独り言を真剣に聞いて、相づちを打ってくれた。
その顔があまりにも険しくて、ちょっと泣きそうになった。俺もメンタルやられてるかも。
こんな時は優しく頷いてくれよ。
楠さんは険しい顔のまま腕を組む。
小柄なのに仕事がら腕の筋肉はバッキバキで、腕を組むと喪服がパンパンになる。カッコいいけど超怖い。
「魚がのけ反ったみたいな形だから反魚湖。その形から、空から落ちて来た巨大な魚が地面にぶつかって出来た湖で、市内にある池はその時飛び散った破片で出来た。伝説って言うかおとぎ話な」
「え? 海に狂暴なでかい魚が居て、退治しようと追いかけ回して、跳ねて逃げてその時に出来たのが池で、湖は隠れる為に魚が掘ったんじゃないの? 魚がいつかまた海に帰るから帰魚湖」
お互い何言ってんだと言わんばかりに見つめ合う。
「だって俺、じいちゃんにそう聞いて。湖の回りの変な石は剥がれた鱗で、湖の小島にある祠には、追い回した時の銛先があるって」
「なんの話をしてるんだ。父さん、そんな話知らないし、湖に祠なんてはじめて聞いた。どの島の事だ? 父さんも楠さんと同じ事をじいちゃんから聞いて育ったし、勇喜にもそう言って来ただろ?」
みんなの顔を見る限り、二人とも嘘は言ってない。
いや、こんな話に嘘も本当も無いんだろうけど、楠さんのが共通認識らしい。
酷くめまいがする。
確かに俺はじいちゃんからそう聞いた。
でも父さんは聞いてない。
俺に言って、父さんには言ってない? そんな事あるか?
じいちゃんから聞いたんだよな?
でもいつ、どこでだっけ。
本当にじいちゃんだったのか?
俺は、誰にこの話を聞いたんだっけ。
酷くめまいがする。
空と地面が反転する。
ごめん。俺、倒れる。





