リヴァイス・レード公爵の後悔
愚かな男の話です。
女性が酷い目に遭う表現があります。描写ではなく「こういうことがあった」という表現に止まりますが不快に思われる方もいるかもしれません。
長めです。
私は公爵家嫡男として生まれた。厳しくも暖かい父と優しくいつも朗らかな母。両親共美形というようで2人の良い所を取った私もかなりもてるだろう。黄金色の髪と若葉色の目に整った顔立ちは女性から騒がれたが私の目には1人しか入らなかった。
この国の王女であり幼馴染みであり婚約者のフェリシア。シアは銀色の髪に宝石のように見える美しい紫の目で美姫として名高い人だった。王女としての自覚も有ったが、幼い頃から私の妻になる事が決まっていたため自由闊達でもあった。私達はいつでも一緒で初めての口付けはシアが14歳の時だった。
今でも王城の庭園で交わしたあの日が思い出せる。相思相愛で似合いだと誰しもが言った私達の結婚まで後僅か。そんな時に我が国に水害が起こり備蓄が足らずに他国に協力を仰いだ。
そしてそれが悲劇の始まりだった。使者としてやって来た王太子殿下の側近にシアが目を付けられ無理やり私達の婚約が解消された。シアには王女としての使命より私との結婚を取って欲しかったが、この国の王女として生まれたシアは私との別れを受け入れた。私は最愛の、命と同じくらい大切な半身を失った。
そうして月日が流れて私は25歳になっていた。半身であり唯一の最後・シアとの絶望的な別れから3年が経っていた。そろそろ父が爵位を譲りたいと言ってきたが、この国の古い慣習で独身の男は半人前と見られてしまい爵位を譲るのに相応しくないと言われる。父から早急に結婚せよ、と言われていたがシアが居ないのに結婚なんて出来るわけがなく。
父が見つけて来た女と仕方なく本当に嫌だったが爵位のために結婚した。美しいシアと比べると地味で平凡。特徴が無いので忘れてしまいそうな顔だ。女には「抱く気はない」と告げれば夫人として足りないものを勉強したいというので家庭教師をつけてやった。
そういえば子爵家の娘だと聞いた気がした。報告は受けていたが意外にも勉強についていく頭はあったらしい。また毎日10分程度で良いから会話を、と言って来たのでそれくらいなら構わないかと受け入れた。最初は苦痛だったが半年も経つ頃には女の頭の良さをそれなりに認めていた。
使用人達からの評判も悪くなかった。だがシアじゃない。それだけで私は生きるのが面倒だったし女が煩わしかった。それから少しして女から「働き過ぎ」だと言われた。生意気だとは思ったが執事や侍女長、それに上司からも少し休めと言われて仕方なく3日休みを取った。
すると女が折角だから「朝食を共に」とか言ってきた。面倒くさかったが3日我慢すれば良いかと受け入れた。そうして訪れた休暇。書斎で本を読む時間が案外心地好かった。昼は書斎で食べられるように、とサンドウィッチらしい。珍しいなとは思ったが美味いパンと具材に文句の付けようは無かった。
「美味かった」
執事に言えば
「奥様のお手製ですよ。我々も頂きました」
と笑う。あの女が作ったと知って驚いた。少なくとも私の舌に合う味だった。だから少しだけ興味を持った。
「アレは……」
「奥様ですか?」
「そうだ。名は何と言ったか」
私の問いに執事が呆れた目を向けてから「エリス様でございます」と答えた。エリス。そうか。胸の中で呟いて少し頷く。悪くない名前だと思った。
その翌日は朝から出かけようと誘われて嫌な気持ちになったが家と城の往復だけでは身体に良くないと執事達からも説得され仕方なく出かける事にした。行き先は郊外の森で此処で散策をしようと言う。
そういえば昔、シアと此処に来た事があった。懐かしい。木々に気を取られ転びそうになったり虫が出て騒いだりで直ぐに帰る事になったが……。シアとの思い出が過ぎりながら歩き出していた。私の頭の中にはシアだけでエリスの事など全く無い。1人で散策しながら昔を懐かしみ時折立ち止まって見上げる。
……ああ木々の合間から零れる日の光はこんなにも柔らかいのか。
それに気付かせてくれたのはシアではなくエリスだった。ふとエリスを探して来た道を戻ったが居ない。どうしようかと迷ったが侍女達が「旦那様」と呼びかけるのでそちらに行けば茶の支度が整っていた。
「茶の支度が出来ているのか」
「奥様からのご提案で此処でお昼を摂られて帰るそうでございます」
「此処で昼を」
そう呟いた私の側を爽やかな風が吹いていく。風が気持ちいいと思ったのはどれくらい久しぶりだろう。大人しく茶を嗜んでいるとエリスが戻って来た。森の妖精が現れたかのような可憐な笑顔で私を見る。こんな女だっただろうか、と視線を逸らした。
青空の下で食べた昼食は開放感があって美味しく感じた。自然と頬が緩んでいたと思う。自分の強張った顔が柔らかくなったことになんとなく気付いた。エリスは何も話さなかったし私も話さなかったがそれでも居心地が良いと思えた。
そこから私のエリスに関する認識が少しだけ変わった気がする。エリスが家に居る事が嫌だとは思わなくなった。家に帰るのがそれほど苦痛では無くなった。時折エリスが実家に顔を出す以外は、孤児院へ足を向けたり貴婦人の茶会へ出向いたり招待したり……と母が公爵夫人として行っていた事と変わらなかった。
夜会も夫婦同伴の時はエスコートしかしない私だというのに、にこやかに貴婦人達の間を渡り歩きいつの間にか社交界の中心人物と呼ばれる貴婦人に気に入られていた。そんなエリスからもたらされる女性しか知らない情報は私の仕事の役にも立っていてまた少し、エリスの認識が変わった。そうして1年と半年が過ぎていた。
「エリス?」
それはとある夜会での事。男が呼びかけてきて私とエリスは振り返った。男もエリスも驚いた表情をしてからエリスが淑女の微笑みを浮かべた。
「こんばんは。ご無沙汰しております、バーナード伯爵」
エリスがカーテシーを決めるのを見ながらバーナード伯爵の情報を思い浮かべた。確かどこかの男爵家の次男で夫人の猛アピールを受け入れてバーナード家へ婿入りした男だったはず。もう6年か7年前の話だ。ご無沙汰、ということは以前どこかの夜会で会って言葉を交わしたのだろう。ずっとエリスに付き添っているわけではないから知らないが。
「エリス、君」
「バーナード伯爵様。私はエリス・レードと申しますの」
「レード?」
「はい」
「そう、か。そうか……」
このやり取りを見るに結婚後の夜会で会ったのではなく結婚前に会っていたのだろう。しかし、親しげにエリスの名を呼ぶ男、か。なんだか少しだけ嫌な気持ちに駆られた。私でさえ名を呼んだ事が無いというのに。ではこれで。と頭を下げて私の腕にそっと手を乗せるエリスに合わせてその場を離れた。
エリスの横顔をチラッと見れば……初めて見る女の色香を滲ませていた。たった一瞬だったがそれが胸を掻き毟られるような想いになった。だが、これ以降エリスとバーナード伯爵は会うことが無かったから私はこの時の気持ちを忘れてしまった。
翌日以降も彼女はいつもと変わらぬ優しく穏やかな微笑みを浮かべていたから、やはり見間違いだったと思った。そうしてまた日々が過ぎた頃、両親が久々に顔を出した。今は領地に引っ込んでいる父と母。少し歳を取ったように思えたが夕食を共にしていた時のこと。
「まだ孫は見られないか」
父が何気なく尋ねてきて俺は息を呑み込んだ。母がすかさず
「そういう事は口にしてはいけないのよ」
と窘める。父もスマンと言いながらどこか期待していた。私はエリスの事を見られなかったがエリスの穏やかな声が聞こえてきた。
「まだ神様が早いと言っているのかもしれませんわ。私にもう少し公爵夫人として頑張りなさい、と」
「そんな事は無いわ! エリスは良くやっているわよ。私、あちこちであなたの噂を聞くわよ。下位貴族だったあなたが上位貴族のトップの妻である事を自覚して公爵夫人として良くやっている、と。執事や侍女長もあなたの事を褒めていたわ!」
エリスが和ませるように言ったのに母は必死になって否定する。エリスがそんなに評価されているとは知らなかったし、母がこんなに必死になるほどエリスを気にかけているなんて知らなかった。
「そう仰って頂けますなら良かったですわ」
「本当よ? それにエリス。あなたお父様の事も気がかりでしょうに本当にリヴァイスに良く仕えてくれて」
「それが私の使命ですわ。公爵家と旦那様に尽くす事が私の出来る唯一ですもの」
「まぁ……。これからもよろしくね」
「はい、お義母様」
それでこの話は流れた。全く閨を共にしていない私達なので焦った。だから私はすっかり聞き逃していた。エリスの父親が……という母の言葉を。そうして両親が領地へ戻った頃に宰相補佐様から密かに聞かされた。
ーーフェリシア殿下が離縁をして帰国される
シアがっ! シアが帰って来る!
私はその事実にすっかり浮かれてしまい、自分が今、どんな状況かも忘れて只管に再会を待ち望んだ。仕事も張り合いが出るし帰宅も出来るならばしたくない。だから朝食も夕食も必要無いと屋敷に手紙を出し帰るのは着替えを取りに行くだけ。
そうして待ちに待ったシアが帰って来た。ああシア。あなたは5年の月日を経て更に美しくなったのだな。女神がいる。そうして密かに私達は逢瀬を交わした。シアの想いも私の想いも変わらなかった。抱きしめ合い口付けを交わし合い愛を囁き合った。だがそんな私達に水を差す者がいた。誰有ろう私の上司であった。
「リヴァイス! お前離婚もせずにフェリシア殿下を愛人にでもする気か!」
「は? いえ。シアは妻にします!」
そこで思い出した。私にはエリスという名の平凡な妻がいた事に。シアが帰国して1ヶ月が経っていた。私は慌ててエリスに離婚しろ、と迫った。するとエリスは自分達は白い結婚だが世間はそんな事を知らないから後1年だけ我慢してくれれば子が産めない女だ、と私達に瑕疵が付かずに離婚出来ると言われて納得した。
確かにシアと再婚するのにそれならば私とシアに傷が付かない。多少は仕方ないにしても子が産めないのだから仕方ない。シアは残念ながらあの側近の妻として男児を産んでいる。つまり初めての男が私ではないが、逆に言えばシアは子が産める事を世間が知っているのだ。子が産めない女より子が産める恋人を取るのはおかしくない。そんなわけで私は1年だけ我慢して、エリスと結婚したその日に離婚した。
これで晴れてシアを妻に出来る!
私は本当に自分の事しか見えておらず、執事と侍女長を筆頭に使用人達が冷たい目をしている事も離婚されたエリスがどんな目を世間から向けられるかも想像すらしていなかった。
子が産めない女など何処かの年老いた男の後妻か修道院くらいしか身の置き場が無いのだ、という事を知っていたのに、それも本当は私がエリスと閨を共にしていない私の責任だと言うのに、事実を忘れ想像力が欠如したまま浮かれ切った頭でシアと再婚しようと国王陛下と我が父に申し出た。
だがいくら私達が元々恋人同士で婚約者だったとしてもシアの元旦那との後始末や離婚して直ぐに私が再婚する事は世間体が良くない、と渋られてしまい、再度の婚約期間を設けられた。まぁいい。今度こそシアと結婚出来るのならば、と納得した。
そんな頃に私は懐かしい男と再会した。とある夜会で。
「レード公爵閣下、ご無沙汰してます」
振り向けばエリスと知り合いだったバーナード伯爵だった。その時の私は酒が入り気分が良く気紛れを起こした。
「君はバーナード伯爵か。少し話さないか」
そう言って酒を片手にバルコニーへ出た。そこでふとエリスとの関係を尋ねた。
「君と前妻のエリスはどういう関係だったんだい?」
「エリスからは何も? ああいや、エリスはそうですね。そういう事は話さない。自分の昔の恋人との関係など話して相手に不快な想いなどさせたくない女性ですからね」
「恋人……?」
初耳だった。いや、私は彼女のことを何一つ知らなかった。どんな色が好きか。好きな花は。宝石は。食べ物は。何も知らない。
「ええ。私とエリスは同い年の幼馴染みでした。そして互いに惹かれあい婚約しました。私達が19歳を迎えたら結婚しようと約束していたのですが……。私達が17歳の時でした。ご存知のようにエリスの母が風邪をこじらせて悪化したのです。その頃私は今の妻にこういった夜会で見初められてしまい……。
エリスの事を話したのですが、私はしがない男爵家の次男。エリスは貧乏子爵の令嬢。しかも婿取りでは無い。そして今の妻は婿取りの伯爵令嬢。しがない男爵である父は伯爵家に逆えず私達は引き裂かれました。エリスの母が病に罹っていなければ駆け落ちをしたかったのですが、痩せ細った母親をエリスが見捨てられるはずもなく。結局私達は婚約を解消して私はバーナード家へ婿入りしたのです」
知らなかった。
エリスがそんな恋をしていたなんて。
エリスが私と結婚したのは21歳だったはず。
だとするならば私より早く、私とシアのような思いをしていたのか。
そんなエリスだから、いつも私に話しかけ、私に文句も言わず、私を気にしていた……?
というよりエリスの母は亡くなっていたのか。私は何も知らない。いや、そういえば結婚式に参列していなかったような気がする。
だが、エリスは何故何も言わなかった?
一応私は夫だ。墓参りくらい……いや、そういえば時折実家に帰っていた。もしやその時に?
私は何も尋ねなかった。それはエリスに興味が無いと言っているのと同義だった。
「そう、か。聞かせてくれてありがとう」
「いえ。……でもエリスは子が産めない身体だったのですね。私自身は子が居なくてもエリスが居れば良かったですが、閣下はそういうわけにはいかないですからね。離婚しても仕方ないのでしょうね。……エリスの行き先は聞きましたか?」
「行き先?」
「ああエリスのことだ。閣下の子が産めない自分の事を考えるとそういった事は言わなかったのでしょうね」
納得したようにバーナード伯爵は頷く。まるでエリスの事をこれだけ知っている、とばかりに。なんだかムッとしたが私はそう言える程エリスを知らないのだから仕方ない。そして子が産めない身体、という言葉がいやに私の胸に重苦しくのしかかった。
「君は行き先を知っているのか?」
「いいえ。ご存知のようにエリスの父が亡くなって直ぐに実家を出たようです。そこまでは知っていますがそれ以上は私には関係ない、とエリスの兄上に突っぱねられてしまって知りません」
苦笑したバーナード伯爵は「ではこれで」と頭を下げたが、私は新たな事実に唖然としていた。エリスの父が亡くなった? 私とエリスの離婚はまだ1ヶ月程。その間に亡くなっていた? 病だったのか? だとしたら私との結婚生活中に悪くなっていたはず……。私は何も知らされていない。
いや。私がエリスとの会話をしていなかったのだ。だから知る訳が無かった。
帰宅後執事に確認すれば直ぐに教えてくれた。丁度シアが帰国する前……両親が領地から出て来た頃からエリスの父が体調を崩していたこと。エリスが頻繁に実家に帰り兄嫁と共に父を看病していたらしい。その薬代は我が家からの援助金だった。私はエリスにちっとも会っていなかった。だから父親が具合が悪い事すら知らなかった。
仮にも妻として3年の月日を過ごしたエリスに対して私は何という仕打ちをしたのか。結婚前に母を失ったエリス。離婚後に父を失ったエリス。そういえば、エリスは私の両親……特に母を自分の母のように接していた。そんな母が言っていたではないか。エリスの父が、と。私はそれを聞き逃していた。
恋に破れ母を失ったエリスはどれほど失意に陥ったのか。
シアを失った私以上だったのではないか。
それでも失意から立ち直り金で買われたも同然の私と結婚し、私は夫の役目を果たさず、けれどもそんな私のために懸命に歩み寄ろうとして、夫人としての務めも果たし、慣れないマナーや勉強も努力して使用人達と仲良くなって私に仕えてくれた。
それなのに私は自分で閨を共にしなかったくせにエリスが子を産めない事にして、自分の恋に酔ってエリスを追い出した。
妻が居ながらシアと恋人としての時間を過ごしていた私に何も言わなかった。それでもエリスは最後まで妻の役目を果たしていたのに。
最後まで何も言わずに去ったエリスはどんな心境だったのだろう。
私を愛していなくても尊敬はしていた、と告げたエリスを私はシアとの幸せのためだけに追い出した。
そうして追い出されたエリスは恥を忍んで代替わりした子爵家に戻り、父親の最期を看取った。
……その後のエリスについて探そうとしたが、どうやらシアに何か勘付かれてしまったらしく、エリスの事を今更気にしているのか、と問い詰められた。結局私は自分可愛さにエリスを探すのは諦めた。どこかで幸せになっていてくれ、と。
ここまで来ても私はエリスに良い再婚先が見つかるだろう、と愚かな事を考えていた。
子が産めないレッテルを貼ったというのに。
そうしてまた時が経ち、エリスと離婚してからおよそ半年が経過した。ある日父が激怒しながら現れた。
「リヴァイス!」
「父上⁉︎」
「貴様、良くもわしを騙したなっ!」
「だ、騙したとは一体⁉︎」
父上の怒りが良く分からない私は騙したと言われても……という気分だった。父上は溜め息をついて疲れ切った顔である話を切り出した。
「今から3ヶ月程前のこと。ある1人の女性が記憶喪失の状態で平民夫婦に保護された。彼女は衣服を破かれほぼ裸同然。そして夫……つまり男に異常に怯え錯乱していた」
その話と私が怒られる理由が分からないが、その名も知らぬ女性の被害に胸を痛めて父の話を遮らずに聞く。
「彼女は郊外の森に1人だったようだ。何故そんな所に1人でいたのかも分からない。彼女の記憶は失われていたからだ。取り敢えず夫婦は異常に怯える彼女の様子と状況を見るに何が有ったのかは悟って夫が妻と女性から少し離れて王都を目指した。そして彼女を騎士団に連れて行き保護を頼もうと思ったが、王都に入った途端に怯えて仕方ない。これでは……と思った夫婦は自分達の家に連れ帰って面倒を見る事にした。
そして夫の方は騎士団へ話だけはしておいた。女性が落ち着いたら騎士団へ連れて行く事を約束し。彼女は1ヶ月程をかけて徐々に落ち着いて行ったが全く記憶は戻らないまま。とはいえ落ち着いた事から夫婦はようやく彼女を騎士団に連れて行った。そうして彼女は騎士団に何人かいるうちの1人の女性騎士の家で預かってもらっていた。
そこで暮らすうちに女性騎士は彼女の所作がやけに綺麗な事に気付いた。最初は提出された破れた衣服から平民だと思われていたが、平民にしては背筋も立っていてお茶を飲む仕草一つとっても美しい。これはもしや貴族では無いかと思ったそうだ。そこで上司に掛け合い貴族に繋がりのある騎士を紹介してもらった。
その騎士は彼女の事を知らなかったが、確かに所作の美しさは貴族。それも上位の貴族ではないか、と疑った。そこで家出した令嬢を中心に心当たりを当たってみたが全くない。彼女は推定年齢は20歳を過ぎているようだったから令嬢ではなく奥方かもしれない、と疑った。だが。令嬢にしろ奥方にしろ、平民が着るような衣服を着ていた事の説明がつかない。
そこでもしや彼女は誘拐されて来たところから逃げ出したのかもしれない、と判断された。そうなると慎重に事を進めなくてはいけない。そうして騎士団では彼女の身元を探る者達と彼女を誘拐したかもしれない悪人達を探す者達とに分かれた。彼女を驚かせないように彼女に隠れて騎士達は彼女の顔を覚えて探していた」
父上はそこで息を吐き出し頭を抱えた。それから深呼吸して続きを話し出す。
「1ヶ月経っても彼女の身元は分からず彼女の記憶も戻らない。かと言って彼女が辛い想いをしただろう森へ連れて行くのも考えもの。そこで気休めとばかりに2つに分かれていた班を入れ替えた。つまり彼女の身元を探る組が犯人探しに、犯人探し組が彼女の身元を探る組に。
それが功を奏した。新しく彼女の身元を探る組に配属された騎士達の中に彼女を見た事がある、と申し出た者がいた。それを聞いた上司は彼女を見た事がある者に何度も確認したらしい。それはそうだ。彼女は高位貴族でもかなり有名になった女性だったからだ。だが騎士は近くで見た事があるから見間違いなどない、と言った。そこでその上司は一大事だと騎士団長へ報告した。騎士団長はその話を聞いて様々な事を確認した後、国王陛下に内々で報告した。
国王陛下はその話を聞いた時、犯人を見つけるまでは内密にせよ、と命じたそうだ。そうして彼女を酷い目に遭わせた犯人探しに執念を燃やした騎士達が10日前、とある平民の酒場である男に出会った」
そこで父上はグッと目を閉じてそれから怒りに目を赤く染めて続ける。
「男は酔って聞き捨てならない話をしていた。何か情報があるか偶々入った酒場で。男は大声で言っていた。
“ちょっと前まで貴族の偉い人と結婚していた女がよ、平民になってるって噂を聞いた事があるかい? その女はなんでも子どもが産めなかったって言われて旦那に追い出されたんだってよぉ! で。俺はそういう女なら孕むわけねぇなって思って、俺の女にしようとさがしていたらよ! 見つけたんだよ! そんでその女の様子を見ていると時々郊外の森に1人で行く事を知った。そんである日女が森へ行った事に気付いて追いかけて手篭めにしてやったのよ! そうしたら産めるわけねぇよなぁ。処女だったんだぜ、あの女”とケラケラ笑ったそうだ。
騎士達はその場で男を拘束したが、何しろ証拠が無かったために酒場で話をさせたからその場にいた平民達に知られた。直ぐに話は広まって揉み消す事が出来なくなった」
私は愕然としていた。
郊外の森。
20歳を過ぎた女性。
高位貴族の妻。
子を産めないと追い出された女性。
だが処女……。
心当たりのある人が1人だけいた。だが彼女だと信じたくなかった。彼女がそんな悲惨な目に遭ったなどと信じられなかった。
しかし父上の目は冷たく私を見ている。
喉がカラカラに渇く。
舌が張り付いて口が開かない。
「捕らえられた男を彼女に見せるのはとても辛い事だったが、彼女にそっと男を見せると途端に怯えて錯乱した。その様子で騎士達は間違いない、と悟った。彼女は記憶の一部を取り戻したように
“あの、男……襲われた”
と言って意識を失った。だがそれだけ。おそらく精神的なショックで思い出したくなかったのだろう。けれども、彼女の身元は判明した。彼女の実家である子爵家に連絡すると、亡き両親に代わり兄と義姉が迎えに来て彼女だと認めた。父親を看取った後、2人に迷惑をかけたくないからと言って平民暮らしを始めていた矢先に行方不明になっていた、と兄が言っていた。
ーー彼女の名前は、エリス・ネルソン。婚家での名前は、エリス・レード。
彼女を見た事があるという騎士は元々近衛騎士でフェリシア王女殿下の護衛をしていたが、フェリシア殿下から呼び出されたエリスを覚えていたらしい。どうやらフェリシア殿下は帰国して早々にお前と別れろ、とエリスを脅したらしいな。陛下が確認したところあっさりと白状したそうだ。
そうしてフェリシア殿下から“あの女がリヴァイスとは閨を共にした事がない白い結婚だって言って、1年我慢してくれれば子を産めない女として離婚出来るって言ったのよ”と話を聞いた、と陛下から聞かされたわしの気持ちが分かるか⁉︎」
私は血の気が引く想いをする。
まさか。そんな。どうして。
エリスがそんな目に遭わなくてはいけない⁉︎
「お前は子が産めない女だから仕方なく別れた。そう言ったな! だが事実はどうだ? お前は一度もエリスを妻として扱っていないという事だろうが! 執事にも確認したところ、初夜でお前が閨を共にしない事を言ったからエリスは、お前がその気になるまで待つ、と。
だからそれまではわし達にも黙っておくように、とお前を気遣っていたそうじゃないか! お前は、あんなにも尽くしてくれたエリスを妻としても扱わず、それどころかフェリシア殿下との浮気に夢中になってエリスを蔑ろにして、挙げ句子が産めないなどと良くもそのような嘘をついたな!」
父上の怒号に私は膝をついた。父上に怒られている事実よりも彼女がそんな悲惨な目に遭った事実の方が胸が掻き毟られる想いだった。
「お前とフェリシア殿下の結婚はこの事態が落ち着くまで執り行われない! いいな! 全く。いくら子が産めるとはいえ浮気性の殿下を嫁にするなんて嫌だったのに、エリスが子を産めなかったのなら仕方ないと受け入れたが……真実がこれではエリスを可愛がっていた妻が可哀想だと思わんか!」
そうだ。母上はエリスを可愛がっていた。良く仕えてくれている、と。夫人として良くやってくれている、と。
「浮気性……?」
ふと、父上の言葉が気になった。
「そうだ。知らぬはお前だけだな。フェリシア殿下はあちらの国で夫だけでは満足出来ず結局王太子殿下とも関係を持った。だがさすがに側近の妻であり他国の王女を愛妾にするわけにはいかない、という事で離婚されて帰国したのだ」
私は唖然とする。シアがそんな女だと思わなかった。いや、もう私が知るシアでは無いのか。そんな女と私は結婚するのか? あれほど尽くしてくれたエリスを捨てて?
「言っておくがいくらお前が浮気性の女と結婚したくないと言っても無駄だ。フェリシア殿下とは結婚する以外道はない。何故なら離婚する前から浮気をしていた、と城内ではお前とフェリシア殿下の関係が有名になっているからな」
あ……あ、そうだ。私は幼い頃から愛人を持たないでずっと仲の良い両親を見て育ってきたから浮気をすることは嫌っていたのに、私はエリスとの婚姻中に浮気をしていたのだ。嫌っていたはずの行いを私はやらかしていた。なんて不誠実な男なのだろう。
「とにかく結婚はもうどうにもならないが、わしはお前を許す気はない。お前達の結婚式には参列しない。本当なら親子の縁を切りたいがそうもいかないからな。だが結婚式に参列しない事でお前達の結婚を認めない事は表明出来る」
それは良い。
寧ろ結婚式など挙げたくないからせめて父上と母上に見られない事が有り難い。
だから素直に頷いた。
そんな事よりも。
エリスがその後どうしているのか知りたかった。
父上は話は終わったとばかりに領地へ戻ってしまったから、私はとにかく居ても立ってもいられずにネルソン子爵家へ出向いた。
「これはこれは公爵閣下。貧乏子爵家に何の用でしょうかね」
嫌悪も露わに結婚式に一度だけ見た男が睨んでくる。エリスの兄だ。
「エリスは」
「呼び捨てにされる筋合いはない!」
「エリスさんはどうしている?」
「はっ。今頃エリスに何の用でしょう? あの話でも聞いて来たんですか? 悪いが他人の閣下には関係ないでしょう! 妹を蔑ろにして夫の役目も果たさないくせに妹に全てを押し付けて王女殿下を妻にするような男に! もう沢山だ! 妹は、エリスはあんたみたいな男に不幸にされるために生まれて来たんじゃないんだ! 帰ってくれ!」
不敬だとは言えない。その叫びは私が聞かなければならないものだから。それでも。それでも彼女の現在を知りたかった。
「彼女がどうしているのか教えてくれたら帰ります」
頭を下げて頼む。溜め息をついたあと。
「エリスは……心を壊したのだろう。兄である私にも怯えていた。妻が付き添う日々だ。記憶は全く戻らない。だが生きていてくれるだけ、有難い。母を失い父も失った。私の家族は妻と妹とこれから生まれて来る子。人はいつか死ぬとはいえ、まだ私は妹を失いたくない。さぁ帰ってくれ」
……エリスは今も記憶を失くしたまま。
彼女が何を思って郊外の森へ行っていたのか分からない。
だけど。もしも私と一度だけ出かけたあの日を思い出していたのなら。
平民になってもあの日を糧にしてくれていたなら。
それはとても嬉しいと思える。
だがもう彼女はあの森を訪れないだろう。
私は……わたし、は。
ああそうか。
失って初めて気づく。
私、リヴァイス・レードはエリス・ネルソンを、エリス・レードとして支えてくれた妻を愛していたのだ、と。
もう彼女は戻らない。
辛い記憶になってしまったあの森も訪れない。
私がフェリシア殿下を失って辛い時に支えてくれたエリスを、私が支えてあげる事は出来ない。
私は。私は一体どこで間違えてしまったのだろう。……これは何の報いだろう。
ーーそれは多分。エリスを愛していると気付かないまま、蔑ろにしていた報い。
私に残されているのは……彼女の幸せを願うこと。彼女のために泣くことは許されていないこと。彼女を愛し続けてはいけないこと。
ーーそれだけ。
リヴァイスはこのままフェリシアと結婚するとは思います。その後の結婚生活は悲惨でしょうけど。
※執事と侍女長がエリスから聞いた「私にも経験がある」という話はこちらで明かされたバーナード伯爵とエリスの恋の話です。エリスと彼は上手くいかなかったけれど、リヴァイスとフェリシア殿下が上手くいくなら……とエリスは身を引きました。自分が恋に破れているから余計に。