1.プロローグ または最初の終わり
「はっ、はっ……。はぁっ」
動くには不適切なドレスを身にまとった少女が、ひとり森の中を駆ける。木の根に足をとられては、それでも止まる訳にはいかないとでもいうように、走る足を止めることはない。
「もう少し……っ」
出口に近付いているのか、少女の視界に光が飛び込んでくる。森を抜けた先にあったのは、切り立った崖だった。
荒い息を整えながら、崖の近くまで足を進める。胸元に抱え込んだ書物を手に、後ろを振り返った。
少女が抜け出した森から現れたのは、武器を手にした男。少女が乗っていた馬車を襲った盗賊の一味だ。
「何だ、鬼ごっこはもう終わりか?」
「ええ、遊んでくださってありがとう。とても楽しかったわ」
皮肉めいた少女の言葉に、男が舌打ちをする。
どうせ金目の代物はあの馬車に積んであるだけだというのに、リーダーが書物を持って逃げ出した少女を、殺して来いと男に命じたのだ。
早く戻らなければ獲物を全て取られてしまうというのに、目の前の少女は捕まらない。とうとうこんな場所にまで追いかける羽目になってしまった。
「だったらさっさとこっちに来い。俺だってガキに構ってる暇はねえんだ」
「その前にひとつ教えて下さらない?」
「ああ?」
言葉を荒げて男が凄んでも、少女の顔色は何ひとつ変わらない。少し頭を傾げたからか、さらりと髪が流れる。
「あの馬車には護衛やメイドが乗っていたでしょう? どうなったのかしら?」
そんな少女の言葉に男が笑う。
「そんなの死んでるに決まってるだろ、生かしておく理由なんてねえんだから。お前にとっては残念だったなあ」
「残念? どうしてそう思うの?」
下卑た薄笑いを浮かべる男の言葉に、少女がゆっくりと瞬きをした。言っている意味が分からないとでも言いたげな表情を浮かべる。
そんな少女の反応が気に食わないのか、男が歯ぎしりして顔を歪ませた。
「どうして、だあ? つまりお前を助けてくれるヤツなんてひとりもいないって教えてやってるんだよ。そんなことも貴族のガキは分かんねえのか」
「……ああ、そういうことなのね。なら貴方、馬車を襲撃した中にいなかったのね? もしくは後続だったのかしら」
「はあ?」
眉をひそめた男へと、まるで内緒話をするかのように唇に指を当てて少女が笑う。
「だって、護衛達は自分が死にたくないから馬車の扉を開けたのよ。メイド達は私を守るどころか、盾にして逃げようとした。例え生きていたとしても、そんな人間が助けに来るとは考えにくいと思わない?」
目くらましの閃光弾、商人から買っていて正解だったわ。ふふ、と柔らかく微笑む少女を、男は無言で見つめる。額に滲む汗が気持ち悪くて仕方がない。
「私があの人間達がどうなったのか聞いたのは、殺されていたら嬉しいから。貴方の言うことが本当なら、ひとり残らず死んでくれたのでしょう? だから、どうもありがとう」
片手でごめんなさいね、と少女がドレスをつまんで膝を曲げる。その美しい所作とは裏腹に、先程まで笑みを浮かべていた顔はひどく冷たい。
「あの若い娘好きなクズと結婚しなくて良くなったのも嬉しいのよ? でも、貴方たちが私を殺そうとしているのも事実。そんな相手にこれ以上の礼を尽くす気は無いの。だから、ね?」
一歩、二歩。男を見つめたまま、少女が崖へと後ずさる。カラリと音を立てて小石が海へと落ちていく。
「この世界から退場させていただこうと思うの。願わくば貴方達のこれからに不幸がありますよう、海の底から呪っているわ」
空へと飛び込んだ少女の体が、瞬く間に下へと吸い込まれる。男が手を伸ばした様に見えたが、少女にとってはどうでもいいことだ。もしかしたら少女の持つ書物が、大事なモノだとでも勘違いしたのかもしれない。
(これはただの日記帳なのだけど)
ただの日記帳でも、少女にとってはこの世界で二番目に大切な宝物だ。それをぎゅう、と抱きしめて目を閉じる。
どれくらいの時間が経過したかも分からないまま、海面へと叩きつけられる柔らかなドレス。痛みは感じられず、ただ衝撃だけが彼女の体を貫いた。
(あの子は幸せになってくれるかな? 笑って生きてくれるかな?)
男と話していたときよりも砕けた口調で思い出すのは、少女よりも小さな男の子。少女が買い上げた奴隷の従者。少女にとって、一番の宝物。
死ぬことよりも、何よりも。従者に何も残してあげられなかったこと。その事実が少女に涙を流させて、海へと馴染んで溶けていく。
(どうか、あの子が幸せになってくれますように。笑っていてくれますように)
神などいないことを知っている少女が、誰へとも分からない願いを祈る。それを合図に、少女の意識は暗闇へと落ちていった。