セキレイ
車窓が広い田んぼを切り取っている。遠くには山が見える。自分が人間であることを忘れて、鳥にでもなったかのような気になって、車窓を流れる景色を見ている。都会で育った僕は、街の喧騒を忘れさせるそんな景色が好きだ。
一人で電車旅をするようになったのはいつからだろう。なぜ田舎の終点に惹かれてしまうのだろう。車窓を眺めながら、そんなことを考えている。
「次は終点、鳩川、鳩川です。」車内アナウンスが一両だけの車内に響く。乗客は僕と運転手だけだった。
鳩川は県の郊外にある小さな村だ。住人は百人ほどしかいない。特に観光するところもないただの田舎だ。だが、僕にとってはそんな田舎の方が良い。人のいない、静かな場所が良い。
「ありがとうございました。」たった一人の乗客のためにも運転をしてくれる運転手に感謝する。「いえいえ。お気をつけて。」そう言って運転手は無人の駅員室に入っていった。
十時。ご飯を食べるにはまだ早いので、先にお弁当を食べる場所を探す。駅から続く道を歩き始めた。
一面に田んぼが広がっている。ぽつぽつと家が建っているが、人は見当たらない。本当に人がいるのか疑ってしまうが、のどかな村である。近くに流れている川の音が心地よい。油断すれば眠ってしまいそうになる。のんびりと歩いていく。
十一時半。お弁当を食べるのにちょうどいい小川を見つけた。シートを持ってきたが、あえて敷かずにそのまま座った。自然のシートが歩き疲れた体を優しく迎え入れてくれた。お弁当を食べる。
うとうとしてきた。お腹いっぱいになった体と相変わらずの天気はお昼寝を勧めてきているようだった。だが、眠気を押しやって再び歩き始めることにした。
十四時。地図を見ずに歩いてきたせいで道に迷ってしまった。スマホの地図は圏外であてにならない。田んぼと川ばかりの単調な景色には目印になるようなものがなく、途方にくれる。「どうしよう。」独り言をつぶやく。まだ二時だ。大丈夫だ。額の汗をぬぐって歩き続ける。
バス停のようなものが遠くに見えた。もしかしたらバスが来るかもしれない。淡い期待をしてバス停に向かった。
分かっていた。このバス停が、今は無きバスの駅だということを。期待した自分がバカだった。歩き疲れたので椅子に座って休むことにした。場所のことは、動けるようになったら考えよう。
・・・
「大丈夫ですか?」
どこからか声がする。ああ、夢を見ているのか。
「起きてください。」
何度も聞こえる。ここはどこだっけ。
「こんなところで寝ちゃだめです。」
そうか。バス停で寝てしまっていたのか。
「起きて下さい!」
大きな声で、はっと目が覚める。目の前には少女の顔があった。
「よかった、起きた。」そういうと彼女はほほ笑んだ。
「起こしてくださってありがとうございます。この村に住んでいる方ですか?」
「は、はい。鳩川の住民です。あなたは・・・なぜこんな所で寝ていたのですか?」
「電車旅でこの村に来て・・・歩き疲れたので座ったら、寝てし まっていました。」道に迷ったなんて恥ずかしくて言えない。
彼女を見る。白いワンピースに麦わら帽子。それに、綺麗な声をしている。まだ夢を見ているのだろうか。まるで物語の中から出てきたような少女だった。そんなに年は離れていないと思う、多分。
「こんな田舎に来てくれてありがとうございます。そうだ、よかったらこの村を案内しますよ。」
「本当ですか? ぜひお願いします!」
色んな所を回った。村の神が奉られているという神社や、かき氷を作ってくれるおばあちゃんの家。ただの農村だと思っていた村は、いままで訪れたどんな村よりも温かいと思った。
彼女が無邪気に笑っている姿を見て、つい、かわいいと口に出しそうになる。こんな子が村にいるなんて駅に着いたときには想像もできなかった。もっと一緒にいたい。彼女の隣で、そんなことを思っていた。
十九時。空がオレンジ色になってようやく気付いた。僕はまた、電車で帰らなければならない。少女ともお別れの時間だ。帰りたくないと思ったのは初めてかもしれない。この場所にずっといたい訳でもない。ただ、彼女ともっと一緒にいたい。
「また、会いに来てくれますか?」彼女は少し寂しげに、綺麗な瞳を真っ直ぐ僕に向けて、そう言った。
「うん。絶対、来るね。」
握手を交わして、僕は電車に乗った。また会うことを誓って。
出発と同時に、大事なことを思い出した。お互い、名前を知らない。僕は窓を開けて、叫んだ。
「僕の名前は、湊!」
「私は、涼音! 忘れないでね!」
精一杯の声を出し、大きく手を振った。
この旅で、たくさん写真を撮った。帰ってから写真を印刷して、アルバムを作った。今度会いに行くとき、一緒に見よう。
・・・
一週間後、日本に大型の台風がやってきた。例年よりも大きな台風、という言葉を毎年聞くような気がして、大丈夫だろうと油断していた。しかし、自然はそんな意思に反して、人間に牙を向けた。
全国的に洪水による被害を受けた。例年になく、という言葉じゃ足りないくらいの大雨が各地を襲った。僕の街にも、まるで津波のような波が押し寄せた。避難所生活が始まった。
ふと、鳩川のことを思い出した。川があったあの村が大丈夫だという確信が持てない。涼音。涼音は無事なのか。会いに行きたい。しかし、電車も当然被害を受けている。もどかしいが、断念せざるを得なかった。
長い避難所生活が終わった。一年も避難所で過ごすと、元の感覚も忘れてしまっていた。都市部が完全に崩壊したため、かなりの時間を要したようだ。やっと、今までの生活に戻れる。
散らかった家に帰る。慌てて避難所に向かったので、窓が割れてからの記憶はなかった。散らかった部屋を掃除すると、アルバムが見つかった。中を開くと、気づけば泣いていた。
「どうして、忘れていたんだ。こんな大事な人を。」
慌てて準備をした。明日、絶対に探しに行く。
・・・
「次は終点、鳩川、鳩川です。」車内アナウンスが車内に響き渡る。相変わらず、僕と運転手だけの車内に安心感すら覚える。
大雨だったが、そんなことは気にしない。この村に来て、涼音に会えたらそれでいい。そう思っていた。
村へ着くと、膝から崩れ落ちた。あの村が、まるで別物に変わっていた。復興したという意味ではない。壊滅のまま、放置されていたのだ。
僕は記憶を頼りに、一緒に回った場所を探してみる。しかし、待っていたのは雨音がうるさく感じるほどの静寂だけだった。
もう、涼音はいない。信じたくなかったことが現実になった。酷い後悔の感情が心の中で渦巻いている。もう取り戻せないあの日を、願うことしかできなかった。
十四時。あの日と同じ時間。また、迷子になってしまった。怖くて、その場から動けなくなった。
じっと、考え事をしてしゃがみ込んでいたら、一匹のセキレイが足元に止まってきた。綺麗な白色の尾を振って見せた。どこか懐かしい気持ちになった。
セキレイが傘の中から飛び、すぐ近くで止まった。僕は、セキレイについていくことにした。ここまで来たら動物でも頼りにするしかないと、投げやりになっていた。
セキレイを追っていくと、古いバス停のようなものが見えた。
「あのバス停は・・・まさか。」
雨が降っていることを忘れて、ただ全力で走った。
バス停には誰もいなかった。分かっていた。期待した自分がバカだった。走り疲れたので椅子に座って休むことにした。帰りのことは、動けるようになったら考えよう。
・・・
「また、こんなところで寝てる。」
どこからか声がする。きっと夢だ。
「こんな大雨なのに。風邪ひくよ?」
きっと夢だ。夢だ。
「また、会えたね。湊くん。」
気付けば泣いていた。目の前には、確かに涼音の顔があった。
「ああ。よかった。会えた。涼音!」
ぎゅっと抱きしめた。
「本当に、会いに来てくれたんだね。」
頬に涙が伝っている。でも、ほほ笑んでくれた。あの時のように、優しく、かわいい姿で。
・・・
しばらくして、明らかに雨音とは違う音が聞こえてきた。その音源が近づいてきたとき、僕は驚いた。
「廃線になったバスが、どうして・・・」
バスは、古びたバス停に止まった。僕は驚いて動けなかった。
涼音が、手をつないで、「乗ろう。」と言った。涼音を信じて、乗ることにした。きっとまた、幸せな時間をくれると信じて。
・・・
ある小さな村を襲った、台風による大洪水は百人もの死者を出し、村を跡形もなく壊滅させたという。都市圏ですら復旧に一年を要した台風の恐ろしさを伝えるため、記念として村は壊滅のまま保存され、今も語り継がれている。