幕間 よくある事
施療院をあとにしたアメリアが酒場“ふくろうの巣”に辿り着いたのは、すっかり日の落ちたあとだった。
冷たい雨は依然として降り続いていた。
フードつきのマントから雨水を滴らせながら軒を潜り抜け、入り口の扉を開ける。
いつもなら冒険者達の騒がしい声が聞こえて来るはずだが、この日は流石に静かだった。
アメリアはフードを頭の上からはたき落すと、ひと気のない店内を見渡す。
すると、赤々と燃えさかる暖炉の前の席でドワーフがただひとり、背もたれのある椅子に深々と腰を埋めていた。
ルーミスである。
「来たか……先に一杯やっていたぞ」
ルーミスはアメリアに気がつくと、右手の酒杯を掲げた。
アメリアは、そんな彼の赤ら顔を見て呆れる。
「絶対に一杯だけじゃないでしょ?」
彼の向かいに腰をおろした。
「火酒はこれが最初の一杯だ」
どうやらエールは何杯もやったらしい。
ルーミスは他のドワーフと同じく酒を好む。しかし、他のドワーフとは違って、炉の前で鎚を打つより書を好む。端的に言うなれば変わり者である。
「……まあ別に構わないけど」
と、アメリアが肩をすくめたところで、ヒューマンの年配の女がやって来る。
「いらっしゃい、アメリア。いっぱい頼んでいってね? 本当はお店、閉めたいんだけど、あんたらのために薪を燃やしてやってるんだから」
彼女はシェリル。この酒場の女主人であった。
「あー、じゃあ……温めた葡萄酒とにしんのパイで。葡萄酒はシナモン効かせてね」
「注文はそれだけ?」
「スープも」
「はいはい。良い子だね」
と、シェリルが奥へ引っ込んだあと、ルーミスが口を開く。
「……で、どうだった? 例の負傷者」
「ずいぶんと、記憶が混濁しているみたい。意味のわからない事を言っていたわね」
そう言って、アメリアは施療院での事をかい詰まんで話して聞かせた。
その間にアメリアの注文と二杯目の火酒がテーブルに運ばれて来る。
「……不気味な男ね」
「どう思う?」
アメリアの問いにルーミスは首を振り、火酒をちびりと舐めた。
「まだ何とも言えんが……不気味な男はその男の妄想ではないだろうな」
「どうして?」
「薄気味の悪い男が時おり目撃されていてな……」
これは、新米パーティが拠点としていた酒場の店員から聞いた話らしい。
「その男は例の全滅したパーティの様子を窺っていたように思えたらしい」
「そいつが不気味な男」
「そうだ……それ以外は特に引っ掛かる点はない。パーティ仲も良く、恨みを買っていた様子はない」
「そう。何者なのかしらね」
「さあな」
ルーミスが、ぞっとしない表情で肩をすくめた。
アメリアはにしんのパイを頬張り、シナモンの効いた温かい葡萄酒を口にする。
それから事件の話や、とりとめもない雑談をかわしていると、酒場の入り口から騒がしい声が聞こえる。
「シェリルー! ボリス来てる? ……て、こっちも誰もいないじゃん」
その声の主は、悪戯好きで小柄な種族であるスモールフットの女だった。
まるで道化服のような酷い色彩の布鎧を着ている。
彼女の名前はユリン。ルーミスやアメリアとも顔見知りである。
そんな彼女の言葉にカウンターの向こうからシェリルが答える。
「ボリスって誰だい?!」
「金獅子遊撃隊のボリスだよ。金貸してんだけど。秋風亭へ行ったらもう店閉まってるし、こっちかなって」
シェリルが何かの言葉を返そうとした直前だった。
ユリンは暖炉の前のルーミスとアメリアに気がつく。
「あーっ!! ふたりとも、久し振りじゃん!!」
そう言ってユリンは大声で叫び、ふたりの席へとやって来る。
スモールフットは成人しても、その体格はヒューマンやエルフの子供ぐらいにしかならない。
ユリンはテーブルの縁に両手をついてよじ登るように、空いていた椅子に腰をかける。
「久し振りね。ユリン」とアメリア。ルーミスは面倒臭そうに鼻を鳴らしただけだった。
しかし、ユリンは気にした様子も見せずに、カウンターに向かって叫ぶ。
「シェリル、わたしは蜂蜜酒! 温かいやつね!」
「はいよ」
と、シェリルが返事をしたところで、アメリアが問うた。
「あなた、ボリスにお金貸してたの?」
「うん」
「いくら?」
「銀貨三枚」
アメリアは、遠い目で苦笑した。それを見たユリンが頬を膨らませる。
「今、三枚くらいおごってやればいいのにって思ったでしょ?」
「思ったけど」
ユリンはこう見えてかなりの腕利きで稼ぎも良い。
「スモールフットにはね、こんな格言があるの。銅貨一枚を落とす者は金塊で殴られて死ぬって……」
「何その無茶苦茶な格言」
アメリアが露骨に呆れる。
そこでルーミスが火酒を口に含んでひと言。
「ボリスは死んだよ」
「嘘……」
ユリンがアメリアの顔を見た。
すると、アメリアは無言で頷く。
「まじかー」
ユリンはテーブルに突っ伏してふて腐れる。
「わたし、金塊で殴られて死ぬわ……」
「はい。お待ちどうさま」
ちょうど、シェリルが蜂蜜酒を運んで来た。
冒険者の日常は死と隣合わせだ。
これは、この世界では良くある事である。
次の日ようやく数日の間、降り続いていた雨が止んだ。
アメリアとルーミスのふたりは、中断していた捜索を再開するために朝からグレイヴへと向う。
昼過ぎに村へと着くと村人の力を借りて、捜索を開始する。この日は、ルーミスの提案で沼地をさらう事になっていた。
すると、早々に女性の遺体が発見される。
「……間違いないな」
金髪に白い肌。歳の頃は二十前後。
遺体は冷たい泥水にまみれていたが行方不明者の特徴と一致している。
着衣の状態から彼女が死の間際に、口にするのもはばかられる仕打ちを受けたであろう事は一目瞭然だった。
ルーミスはしゃがみ込んで、遺体の検分を始める。
アメリアは彼の隣で嫌悪感をあらわにしながら死体を見下ろしていた。
そんな、ふたりを遠巻きに村人たちが不安げな表情で見詰めている。
「……外傷で直接の死因になったようなものは見当たらない」
ルーミスは人差し指と親指で硬く閉ざされていた右眼を押し開きながら言った。
次に顎を持ちあげた。
すると喉元に、くっきりと手形がついていた。
「首を絞められたようだ。犯人は多分、ヒューマンかエルフだな。力が相当強い。首の骨が折れている」
「それにしても……何で彼女だけ沼地に沈めたのかしら」
アメリアの疑問にルーミスが答える。
「いろいろあるだろうが、真っ先に思いつくのは、良心の呵責だろうな」
「良心の呵責ね……」
アメリアが、訳が分からないとでも言いたげに肩をすくめた。
「それから……」
「何?」
アメリアが首を傾げる。
「この手のやからは、放っておけば、きっと、また殺るぞ」
彼の元にアメリアが訪ねて、数日後の事だった。
空を覆い尽くす鈍色の空から純白の雪綿が世界を埋めつくさんと、地上へと押し寄せ始めた。
彼はベッドで上半身を起こし左脇の窓から、そんな光景をぼんやりと眺めていた。
まだ記憶は判然としない。自分の名前も思い出せない。
施療院の庭先の芝生は、みるみるうちに白へと塗り替えられてゆく……。
ふと、そのとき、彼は視線を感じた。
それは庭先にそって横たわる背の低い生け垣の向こう側からだった。
彼は窓に顔をつけて、包帯の隙間から覗いたふたつの眼球をぎょろりと動かして視線の元をたどった。
すると生け垣の向こうの路地に、誰かが立っている。
その姿を見た瞬間、彼はぎょっとした。
深緑の長衣を着ており、フードを目深にかぶっていた。人相はわからない。
しかし生け垣越しに施療院の病棟を見あげる視線には、どこか覚えがあるような気がした。
いつのまにか自然と震えていた唇から、その言葉が漏れる。
「……やめろ。やめてくれ」
男がフードを頭から落とした。二階の病室から見おろす彼の視線に気がついたようだ。
しかし、その顔は窓硝子の汚れと悪天候のため、よくわからない。
「ああああ……来るな……来るな」
彼は窓から顔を背け、両手で頭を抱える。
「不気味な男だ。……やつが、来たんだ」
彼はベッドから飛び出すと、病室の入り口に駆け寄り、施錠された扉板を叩いた。
「助けてッ! 誰か助けてッ!! 不気味な男がいるッ!! 不気味な男が殺しに来た!! 助けてッ!!!」
彼の狂乱は施療院の司祭たちがやって来るまで続いた。