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奴隷令嬢を拾ったら  作者: 魂々
奴隷令嬢を拾ったら①
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第四章 約束の言葉

 春も中頃のその日、ヴァルナルの魔導具屋の扉には「閉店のお知らせ」と題した貼り紙があった。


 それを貼り出したのは、ようやく北部行きの準備が整ったからだ。テレ―シアの体調が回復しつつあり、最低限度の情報も集まった。遺跡都市にいてもこれ以上出来ることは無く、後は北部入りしてから動けばいいことだった。


 だが、悪辣な人間が蔓延(はびこ)る遺跡都市とは言え、ヴァルナルにも恩人と言えるほど世話になった人はいる。そんな人たちに、急に店を閉めて不義理を通す訳には行かなかった。だからこうして、計画的に準備を進めているのだ。


「それにしても、この店が閉店かぁ。駄弁(だべ)るのに丁度良かったのになぁ」


「こらこらヨーゼフ。店長にも店長の事情があるから仕方無いって」


「まあそれはそうだけど。そっちのアイナちゃんだっけ? その子育てるのに里帰りするんだよね」


「ああ」


 ヴァルナルはヨーゼフの言葉に軽く頷いた。


 店を閉めるためとは言え、本当の事情を説明する訳には行かない。そのため、「アイナを引き取ったのでいい機会だから里帰りして育てることにした」という偽りの事情をでっち上げ、閉店の理由として使っているのだ。


 まあ、そのせいでエーヴァルト二等商官には「言った通りになったじゃねぇか」と馬鹿笑いされてしまったのだが。


「で、店長。アレいいの? アイナちゃん、うちの女どもに揉みくちゃにされてるけど」


 ヨーゼフの視線の先には、ヴァルナルの隣に座るアイナ姿のテレ―シアとフレオヴォルフの女性二人がいた。アイナがこうして店先に出たのは今日が初めてで、フレオヴォルフの面々とも初顔合わせとなる。


 その珍しさが彼女らの好奇心を刺激したのだろう。ヨーゼフの指摘の通り、アイナはクラーラとヘレナに質問攻めにされ、或いは頭を撫でられ、抱き締められ、頬を触られと玩具のようにされていた。


 ヴァルナルは嘆息する。


「好きにさせておけ。そのうち飽きるだろう」


「うっわ、(ひで)え。見捨てたよ」


「ちょっと、さっきから何よ。言いたいことがあるなら直接言いなさい」


「いえ、何でもないです」


 ヘレナの剣幕に押され、ヨーゼフ即座に折れた。その情けない姿に、店内に笑いが広がる。


「でもよー、酷いと言えばアイナちゃんの扱いもそうだよなぁ。探索者の義務で助けられたってのに主人だった男に切り捨てられるとはなぁ」


「ええ。ですが、義務を破った話は探索者の間で広まっています。もうあの店を使わないと言うパーティも少なくありません」


 フリッツはそう言う。


 ヴァルナルが商業ギルドと探索者ギルドの両方に報告したからだろう、アイナの元の持ち主だった回復薬屋が探索者の義務で救われた奴隷を見捨てたという話は大いに広がっていた。あの店も長くは無いだろう。


「それよりも驚いたのは、店長が上級回復薬を持ってたことよ」


「別に驚くほどのことじゃ……ん、ああ。君たちは知らなかったか。店長、昔は凄腕の探索者だったんだよ。なんせ、ソロで僕たちより下の界層へ潜ってたくらいだし」


 意外そうなヘレナの言葉にフリッツはそう答える。パーティリーダーとして一番長い経験を積んでいる彼だけは、ヴァルナルが探索者を辞めるときには既に遺跡へと潜っていた。それだけに驚きも無いのだろう。


「えー! ソロで私たちより下位界層へって、凄くない? 店長ってば、一体なにものー?」


「ただの魔導具屋の店長だよ」


 クラーラの問いをヴァルナルは軽く流す。その様子にフリッツは「ははは」と陽気に笑った。


「まあ、でもあの頃の店長は凄かったな。何と言うか、鬼気迫るって言えばいいのかな。人を寄せ付けない凄みがあったよ」


「……若気の至りだ。忘れろ」


 ヴァルナルは無表情を意識しながらそう言った。あの頃のヴァルナルは色々と一杯一杯だった。婚約者を奪われ、師から託された流派をも守れず、怒りと後悔を綯交(ないま)ぜにしたような酷い心持ちで八つ当たりのように闘いに明け暮れていた。今にしてみれば、忘れてしまいたい過去だ。


 この話をすぐに打ち切りたく思うヴァルナルは、隣から向けられる視線に気付いた。


 ヴァルナルが振り返り見ると、アイナがはすぐにフリッツを見やり口を開いた。


「ご主人さま、こわかったの?」


「うーん、そうだね。怖かったかな。凄く怖かったし強かったけど、その頃からいい人だったよ。初めて会ったときも助けてくれたしね」


「へー、店長とフリッツの出会いかぁ」


「おい、遺跡に行くんだろう。昔話をしたいなら他所へ行け」


「えぇー、聞きたい聞きたいぃー」


「……ひよっ子が死にそうにしてるのを通りがかりに助けてやっただけだ。それ以上を聞きたいなら酒場にでも行ったときにフリッツに聞け」


 ヴァルナルの簡潔な説明に、フリッツは苦笑しつつ首肯した。


「それはそうとして、店長は何で探索者辞めちゃったの? そんなに優れた探索者なら引く手数多じゃないの」


 未だに駄々を()ねるクラーラの顔をおもむろに避けると、ヘレナが口を挟んで来る。その疑問が(もっと)もだと思ったのだろう、フレオヴォルフの面々もヘレナの言葉に頷いて同意を示す。


「探索者を続けたいとも思ってなかったからな」


 探索者として実力を手に入れた者はクランに入り、その支援を受けて更に下の界層へ進む。それが探索者の常道であり、栄達だ。ヴァルナルのように魔導具屋を開くというのは、一般的にはあり得ない変遷だと言えた。


 しかしヴァルナルはクランを必要としていなかった。探索者となって遺跡に潜っていたのは半ば八つ当たりだったのだから。ひたすら魔物との闘争に明け暮れていた当時のヴァルナルには、安全確実に進むなんてまどろっこしいやり方はとてもではないが目的にはそぐわなかった。だから探索者に未練は無く、むしろやりたいことは全てやり切ったという清々しささえ感じていた。


「そんなことより、だ。魔導具の修繕相手は紹介してやるから、閉店に間に合わせようなんて考えるな」


 ヴァルナルは話題を切り替える。ヴァルナルの魔導具屋の閉店まで後五日しか無いが、彼らはまだ魔導具の修繕に必要な素材を集め終えてはいなかった。閉店までに用意出来ればヴァルナルが手掛けるのは(やぶさ)かでは無いが、若い探索者は得てして焦っては仕損じることが多い。ヴァルナルの都合でフレオヴォルフを死なせたくは無かったからこその忠告だった。


 だが案の定と言うべきか、フレオヴォルフの五人が苦虫を噛み潰したような顔になり、言葉に詰まる。


「えー、閉店に間に合わせて驚かせたら格好良いよねって皆で話してたのに……」


「あっバカ」


 悪びれもせず白状するクラーラに悪態を()くヨーゼフ。


「安心しろ、持って来ても驚きはしない」


 そんな彼らの小さな企みに呆れつつ、ヴァルナルは駄目押しした。


「えーん、店長が冷たいぃー。ねえ、アイナちゃんもそう思うでしょ?」


「えっ……その……」


「……話を進めるぞ。その魔導具の修復だが、ブリューム通りのハイノと言う男がやっている魔導具屋がある。そこへ行け。不愛想だが腕はいいし、何より誠実だ」


 急にクラーラに巻き込まれ、アイナはしどろもどろとする。取り敢えずクラーラはアイナに任せることにして、ヴァルナルはフリッツに事務的な話を切り出す。


「へえ。そんな所に魔導具屋があったんですね。初めて知りました」


「最近出来たばかりだからな、知らないのも無理はない。元はウルブリヒの親方の所の弟子だ」


「ああ、あの大店の」


 そのとき、カーンと大きな鐘の音が響いた。閉店時間となる正午の一つ前の鐘の音だ。


「もうこんな時間か」


「つい長居し過ぎましたね。……じゃあ皆、行こうか」


 フリッツの号令に「りょうか~い」や「おう」と返事をして続くフレオヴォルフたち。


「それでは、今日はこの辺で。店長、お世話になりました」


「ああ、閉店までは後少ししか無いが、また来い」


「ええ。必ず」


 元気良く去って行く五人をアイナと共に見送る。こうして彼らを見送るのが多くても後五日しかない。いつも通りだったそんな日々が終わるのだと、ヴァルナルはどこか郷愁に似た気持ちを感じていた。




   ◆




 フレオヴォルフを見送ってすぐ、ヴァルナルは外回りに繰り出した。外へ出る仕度をさせたアイナ姿のテレ―シアも一緒だ。


 まず最初は同業者――フレオヴォルフにも話したブリューム通りのハイノの元へ向かった。ヴァルナルが定期的に引き受けている仕事を任せたり、フレオヴォルフのように魔導具の修復を予定している客を任せたいからだ。


 店を閉めるから定期の仕事を任せられないかと言うと、彼は喜んで引き受けてくれた。長年の信頼と実績が無いと、商業ギルドでは高等職人の称号を得られない。それだけに新参者には厳しい世界なので、彼には願ったり叶ったりの申し出だったようだ。


 その日はハイノに予定が入っていたので、三日後に取引先へと連れて行く約束をして別れ。次に鍛冶屋に向かった。


 ザッツの鍛冶屋はヴァルナルにとって一番大口の取引先で、定期的に魔蝕用の加工素材を卸していた。「この子を引き取って田舎へ行く」とアイナを見せて言うと、「確かにこの街はお行儀良くないからな、女の子を育てるには向かねえわ。ガハハ」とザッツは快活に笑った。


 別の魔導具屋を紹介すると言うと「あんたが仕事を任せられる相手なら問題無い」と信頼を滲ませる親方に、「手加減してやってくれよ、親方」とヴァルナルは返す。はははと笑い合い、世話になりました、こっちこそと言い合うと、次は連れて来ると約束して辞去する。


 サンドイッチを買い込み、続いて向かうのは遺跡だ。


 完全に店を閉める前に商品を切らす訳には行かないため、素材を採取しなければならないからだ。しかしながら、テレ―シアと一緒という制約があるので、行くのは「森」が限界だ。


 そういう事情もあって用意出来るのは低級回復薬と後数点がくらいだが、用意出来ない品は元々売れ行きがあまり良く無いものが多いので、恐らく品切れにはならないだろうとヴァルナルは踏んでいる。


 そうして遺跡まで連れ立って来たとき、転移門の前でテレ―シアの足が(すく)んだ。それが緊張か恐怖かは分からない。ただ、前に踏み出せないようだった。


「怖いか?」


「うん、すこし……」


 テレ―シアにとっては死に掛けて以来の遺跡だ、無理もないだろう。


 だが、遺跡に入りたくないからと言って家で留守番をさせておく訳にも行かない。家の扉なんて無理矢理開けようと思えば簡単に開けられる。あって無いようなものだ。テレ―シアを狙う敵がいる状況でそんな場所に一人置いておくことは出来なかった。


 ヴァルナルは「大丈夫だ」と言ってテレ―シアの青髪を撫でてやる。「森」の敵如きに遅れを取るつもりはない。それは確固とした自負だ。ヴァルナルの泰然(たいぜん)とした姿に安堵したのだろう、テレ―シアは覚悟を込めて頷き、自ら一歩を踏み出した。




 転移門を抜けると、そこには「森」が広がっている。その頭上には外の世界と同じように天に陽が満ちている。


 ヴァルナルにとってはほぼ毎日来ている、テレ―シアにとってはアイナだった頃以来の「森」。こうして二人で「森」にいるのは久々だった。


 そのまま、二人で手を繋いで二階まで歩く。外回りを先にしたおかげで、既に正午の鐘は鳴ってしまっていた。


 散歩するようにあの頃取引に使っていた大木の元へと辿り着くと、木陰に腰掛け昼食のサンドイッチを取り出した。


「こうしてここで食べるのも、ひさしぶりだね」


「ああ、そうだな」


「あの木の下で会ったんだね」


 テレ―シアの視線に釣られて目を向ける。その先では赤々とした毒の実が実っていた。季節の無い遺跡の中では、その枝の先にその実は年中付いているのだ。


「なあ、アイナ。今でもあの実を食いたいか?」


 そのとき、ヴァルナルはふと思い浮かんだことが口を()いていた。かつて初めて出会ったとき、大事そうに、奪われまいとその果実を手に持っていたことを思い出したからだ。


 テレ―シアはそんなヴァルナルの顔を見上げ、ゆっくりと首を横に振る。


「ううん、もう食べたいとは思わないよ。ヴァルナルのおかげ」


「そうか。なら、いい」


「うん」


 言葉が途切れる。そのまま、どちらも話さない、静かな時間が流れた。


 柔らかな風が吹き、木々の木漏れ日が揺れる。横でテレ―シアの食べる音だけが聞こえた。


 ヴァルナルとテレ―シアが交わす言葉は少ない。だが、間が持たないような気まずさはなかった。


「ねえ、ヴァルナル。わたしには、わからないことがあるの」


 少し時間が経った後、テレ―シアはそう切り出した。


「何だ?」


「ヴァルナルはどうしてわたしと取引したの? わたしの家を手に入れて、どうしたいの?」


 目を見張る。それはヴァルナルの核心に迫る問いだ。


「どうしたい、か。……特にしたいことは無い。強いて言うなら、それを手に入れること自体が目的だ」


「なんで、欲しいの? わたしにはそれが、わからない」


 分からない、か。まあそうだろうな、とヴァルナルは思う。


 ヴァルナルが権力の価値が分かるようになったのは、身につまされたからだ。権力の横暴に晒され、理不尽を飲みこまなければならなかったその時に思い知ったのだ。


 権力さえあれば、と。


 無ければ守れない。日々穏やかに過ごしていたとしてもそれは錯覚で、権力者の気まぐれで突然崩れ去る。功績も、財も、婚約者でさえも。権力はヴァルナルから多くのものを奪い去っていった。


 ヴァルナルはもうありきたりな幸せを手に入れることすら怖い。いつか失うのではないか、そんな恐怖を拭えない。


 そして、そんな恐怖と同時に心の中で渦巻くのは理不尽への怒りだ。もう決して己の大切なものを奪わせてなるかという猛烈な憤怒だった。


 だが、それはヴァルナルにとって余り触れられたくない事情で、そのありのままをこの小さな童女に教えるのは(はばか)られた。


 ヴァルナルは誤魔化すようにそっとテレ―シアの頭を撫でる。


「分かる必要はない。むしろ分からなくていいんだ」


「分からなくていいことなの?」


「ああ」


 頭に疑問符を浮かべているテレ―シアに取り合わず、ヴァルナルはやおら立ち上がった。これ以上聞かれても困る所だ。


「休憩も十分だろう。そろそろ薬草を採取するぞ」


「うん」


 ヴァルナルが手を差し伸べると、テレ―シアはその手を取り元気良く立ち上がった。


 それから、二人で黙々と薬草を採取した。二人で採取すると普段一人で採るより随分と早く採取出来たので、日が暮れる前にはヴァルナルの採取鞄は一杯になっていた。




   ◆




 閉店までの五日間は、とても慌ただしい日々だった。


 馴染みの客が来て閉店を惜しんで行ったり、同業のハイノを連れてザッツの鍛冶屋へと引き合わせに行ったり、テレ―シアと「森」に薬草採取へ行ったり。忙しくあれこれとしている間にあっという間に過ぎてしまった。


「じゃあな、店長」


「ああ、気を付けてな」


 そうして、ヴァルナルの魔導具屋の最後の朝。


 一組、また一組と探索者たちを見送って行き、最後のパーティが店を出たことで店内が一気に静かになる。


 誰も居ないカウンターの向こう側を眺め、これで最後か、とヴァルナルは少しばかりの寂しさに浸る。


 この店を開いたのは、二年半前の秋だった。店を開いた当初には当然馴染みの客もおらず、誰も来ない店内をこうしてよく眺めていたものだ。


 じっと眺めていると、みすぼらしさが目立つ店内だと思った。狭く古い家屋を出来るだけ早く何とか使える形にしようとしただけなのだから仕方無いと言えば仕方無いのだが。


 それと言うのも、やはり特に準備をせず思い付きで店を始めたせいだろう。何の計画も立てずにとにかくやってみようと思い立って始めたものだから、後になって「あのときにもっとちゃんとしておけば」と色んな所で詰めの甘さを後悔したものだ。


 思い返すと何とも馬鹿なものだ。だが、そうして失敗して後悔してきた二年半が今は何とも懐かしい。妥協と思い付きで始めた店だったが、こうして閉めるとなると惜しくも感じてしまう。随分愛着を持っていたんだな、とヴァルナルは今更ながらに気付かされた。


「どうしたの?」


「……いや、何でもない」


 テレ―シアの呼び掛けに、ヴァルナルは昔に馳せていた想いを振り切る。今のヴァルナルにはすべきことがある。昔を懐かしむより先のことに時間を使うべきだ。


 ヴァルナルはカウンターを越え、陳列棚を見やる。普段と比べると商品は良く売れたが、大体の商品は一日では売り切れないだけの在庫がある。ただ、客寄せの低級回復薬だけが売り切れてしまっていた。


「ふぅむ、低級回復薬が品切れか」


 この店は魔導具屋であり、商うのは魔導具だ。本来は低級回復薬を用意する必要は無い。だから夜の部のためだけに用意する必要は無いのだが。


「……低級回復薬には助けられてきたからな。余ったとしても自分で使えばいいし、用意するか」


 低級回復薬を求めに来て、馴染みとなった客もいる。ヴァルナルの店にはこれがあると期待して寄ってくれる客がいるのだから、店を開けている限りはその期待に応えるべきだろう。


「テレ―シア、遺跡に行く。準備しろ」


「わかった」


 そう答え、店の奥へたたたと駆けて行くテレ―シア。用意も何も勝手知ったるものだ。すぐに採取用の外套を着て来ると、「はい」とヴァルナルの採取鞄を渡してくる。


 それを受け取ると、ヴァルナルはいつものようにテレ―シアの手を引いて遺跡へと向かった。




 その日の「森」は、いつもと違う気がした。


 それは繊細になったヴァルナルの気が小さくなっているというような錯覚ではない。一見静かで何とも無いように見えるが、風が木々を揺らす(ざわ)めきが妙に大きく聞こえる。


 魔物でさえ声を殺しているようなその緊迫した空気に、ヴァルナルの動物的な感覚が警鐘を鳴らす。


(何だ? 盗賊でも出たか?)


「ヴァルナル、どうかしたの?」


 神経を張り詰めるヴァルナルを心配するように、テレ―シアは首を(かし)げた。


「なん――」


 何でもないと、そうヴァルナルが言おうとしたとき。


「――えっ」


 その瞬間、テレ―シアの首が掻き切れ、鮮血が噴き出した。


「テレ―シア!!」


 ――馬鹿な、あり得ない! 攻撃の気配は無かった!


 ヴァルナルはテレ―シアを一気に抱き寄せる。


 テレ―シアは己の首から流れ出る大量の血に目を見張っていた。


「ヴァルナル、ち。血が……いや……」


「落ち着け……くそっ」


 咄嗟に槍を振るう。背に迫っていた矢と投石を一息に弾いた。


「……ほう。今のを防ぎますかぁ。それなりに出来る人物だ、という報告はどうやら検討違いと言う訳でもなさそうだ」


 そう言って出て来たのは大柄の男だ。歳はヴァルナルより幾らか上だろう。目に見えて筋肉質で、ぎらぎらと野心を漲らせた瞳が印象的だった。その慇懃振った口調には軽薄さが溢れている。


 ヴァルナルは男の目を睨み、気付く。


(――ああ、こいつは駄目な奴だ。人間として大切な物を無くした奴だ)


 ヴァルナルの眼光にも怯まず堂々としている姿には、荒事に場馴れしている者特有の狂気が見て取れた。


 男に続き、わざと音を立ててヴァルナルの周囲を男たちが囲む。そんな周囲を囲む男達の奥に、隠れるように数人。


 ここまで来れば疑いようは無い。奴らはヴァルナルたちを害そうとする敵だった。


「落ち着け、幻術だ。気を確かに持て」


 目を男に向けたまま、ヴァルナルは腕の中で暴れるテレ―シアの耳元でそう呟く。ヴァルナルの感覚をすり抜けてテレ―シアを傷付けるなんて芸当をしたのだ、その後のお粗末な矢と投石でその答えはすぐに分かった。


 ヴァルナルに抱き付くテレ―シアの震えが少しずつ収まる。そして、絞り出すように掠れる声で「うん」と答えた。


 そして、テレ―シアはヴァルナルの視線の先にいる男に目を向け――「ひっ」と息を飲んだ。


「んー、無視ですか。酷いですねぇ、傷付きました」


 男がそう言って手を振る。その合図と同時、四方から飛んで来る物を躱し、或いは打ち払う。


 ヴァルナルのその様子に、男がにんまりと嫌らしい笑みを浮かべた。


「おおー、やりますねぇ。なるほどなるほど。流石は遺跡都市エルサスと言った所でしょうか。ただの魔導具屋がこれだけの力を持つとは驚きです」


「……お前がテレ―シアを奴隷に落とした男か」


「いかにも、いかにも。と言いたい所ですが、残念ながら半分正解と言う所ですねぇ。私は命令に従ったまで。まあ仕事は楽しむのが信条なのでぇ、仕事自体は楽しくさせて頂きましたが」


 男はおどける。それが素か演技かは分からないが、その姿が無性に(しゃく)に障る。


「はぁー。しっかし、驚きましたよぉ。まさか<発信>が壊されるなんて思いもしてなかったので。流石は本職、良く気付きましたねぇ。……まあ、それはいいでしょう。過ぎたことは水に流す、それが世渡りのコツって奴でさぁ。それで、物は相談なんですが……彼女、渡してはくれませんかねぇ」


 男の視線はヴァルナルの腕の中にいるテレ―シアに向けられていた。


「そう言われて渡すとでも?」


 そう言うと男は呆れるように大仰に肩を竦める。


「……まあそうですよねぇ。随分と手厚く扱って下さっているようですし、そう答えられるとは思っていましたとも。こちらとしては無駄な労力を掛け無くて済む、貴方は命を拾うことが出来る、そんなどちらもが得をする取引だと言うのに。貴方のような情で動く手合いとは、交渉が上手く行った(ためし)が無い」


「随分饒舌に語ってくれる。腰の剣は飾りか? 剣では無く口で戦うのか、お前は」


「……なるほど、余程現世が恋しくないと見える」


 ヴァルナルの挑発に、それまで余裕を感じさせていた男の顔が一瞬強張る。飄々とした演技をしようとしているが、抑えきれない怒気が溢れようとしているのは隠せていなかった。


 男は再び手を振る。


「ッ、<障壁>」


 同時に四方から飛来する矢を払おうとして、その奥に魔力の迸りを感じ、魔術障壁の起動に切り替える。


 それはヴァルナルの障壁に激突し。直後、一瞬の紅蓮とつんざく様な爆音が響いた。


「んんー、判断は悪くない。しかし、いつまで持つかなぁ?」


 男は手を振る。飛んでくる(やじり)や石、魔術の衝撃が障壁にぶつかっては弾けた。


 攻撃を受けながら、ヴァルナルは四方を見る。敵は饒舌な男以外にも、取り囲む男が十に後ろに隠れた魔導士が三。それらの男たちが、ヴァルナルたちを逃がさないように距離を取って囲んでいる。


 テレ―シアはヴァルナルに抱き付き小刻みに震えている。そんなテレ―シアを抱えたままでは、とても打って出ることは出来ない。囲まれた状態で戦いたくは無いが、打って出れない以上、ヴァルナルは待ちに徹するしかない。


 そんな打たれっ放しのヴァルナルを見て溜飲を下げたのか、くくっと男は嫌らしく笑う。そして、今度はテレ―シアに視線を向けた。


「テレ―シア様、貴女は不幸でなくてはならないんですよぉ」


 その声に、テレ―シアがびくりと大きく震えた。


「今は涙ぐましくも魔術障壁で防げていますが、これはそう長く持たない物なんですよねぇ。そしたら、ドカンと。一発で終わりです。……何が悪かったか分かりますか? どうしてこんなことになったか、私がわざわざ出て来ることになったか分かりませんか? ――貴女がそこの彼を頼ったからですよ」


 その一言に、テレ―シアははっとしたように顔を上げる。


「くっハッ、いいですねぇその顔。恐怖と絶望に染まって実にそそる。いやぁわざわざ来たかいがあるってもんですよ、えぇえぇ。……貴女は聡いお方だ、我が君を悩ませる程にねぇ。その聡明さを持つ貴女なら、もうお判りでしょう?」


 テレ―シアは何も言わない。だが、ヴァルナルの服をより強く握り締める。


 攻撃は止まない。時折来る矢や石を槍で弾くと、すぐさま火の魔術が飛んで来て障壁を張らせ続けさせられる。


「単純なことですよ、貴女は救われてはならないのです。貴女がとびっきり不幸な目に遭う様に折角エルサスに流れるように仕組んだのに、そこで善人に拾われて普通の生活をし出したなぁんて、期待外れもいい所でしょう? 流石にそれは困るんですよねぇ。貴女の不幸が楽しみで楽しみで堪らないってお人がいるのでねぇ。……だからね、貴女がもう二度と救われないようにねぇ、こわぁいこわぁい、このマグヌスおじさんが懲らしめに参りましたよう!」


 マグヌスと名乗った男は大きく手を広げる。その醜悪な顔には悪意が満ち満ちていた。


 だがそれも一瞬で、すぐに疲れたようにだらしなく手を下ろす。


「そういう訳でやって来たんですが、こっちとしてもそこそこ出来る奴の始末は面倒なんですよねぇ。……そこで、です。取引、しやしませんかテレ―シア様。もし、貴女が心を入れ替えてちゃあんと不幸になるんでしたらぁ……その男、見逃してやってもいいですよ」


 マグヌスとの言葉を聞き、ヴァルナルの腕の中で「えっ」とテレ―シアが食い付いた。


「『どうかこの人は助けて下さい。代わりに私を滅茶苦茶に壊してもいいですから』って精一杯心を込めて言ってみて下さい。……心が籠ったそんな訴えがあったら、こっちの気も変わるかも知れませんよぉ」


 そんなマグヌスの下卑な言葉を聞いたテレ―シアは、一拍の戸惑いの後、ぎゅっと口の端を結んでヴァルナルの顔を見上げる。


 その目には覚悟と決意が見て取れて――


 ――咄嗟に、ヴァルナルはテレ―シアを抱き締めた。


「おい、お嬢様。下らないこと考えてるんじゃねえよ」


「えっ……」


「今お前が言うべき言葉はあんな奴に言わされる言葉なんかじゃない」


 テレ―シアは怪訝なようにヴァルナルの胸から頭を離す。


「もう忘れたか? 約束しただろう」


 目を合わせる。ヴァルナルは言葉に熱を込めて、真っ直ぐにテレ―シアに伝える。


「言ったはずだ、困ったらこう言えと。怖かったらこう言えと。お前はどうされたい? 俺にどうして貰いたい?」


 テレ―シアも思い出したのだろう。ヴァルナルが何を言いたいか分かったのだろう。だが、その目には躊躇がある。恐れがある。手を伸ばしたくとも伸ばせないというやるせなさがある。


 ヴァルナルは臆病に震えるテレ―シアの手を取り、握り締める。


「怖がらずに言ってみろ。そしたら、どんな無茶だってやってやる」


 テレ―シアを安心させようと、ヴァルナルは精一杯微笑んだ。俺ならやれるんだと、お前はそんな目には合わなくても済むのだと。不安で怯える少女に全力で伝える。


 テレ―シアは表情を崩す。


 そして、その決意と迷いの裏に隠した本心を、一粒の涙と共に(こぼ)れ落とした。


「…………たす、け、て」


「――ああ、任せろ」


 ヴァルナルはテレ―シアを抱き(すく)める。テレ―シアも(すが)り付くようにヴァルナルに抱き付いた。


 火の魔術の爆発音が喧しく響くが、無視する。今は腕の中の小さな童女を優先させたかった。


「……ああ、駄目駄目、最悪ですねぇ。命乞いする横で(むご)たらしく殺してやろうと思ったのに、実に興ざめだ。……もういい、や・れ」


 マグヌスの言葉と同時に、それまでとは比べ物にならない紅蓮の光が三方から迫る。


 ヴァルナルは瞬時に外套を外すとテレ―シアの身体に覆い被せ――


「<着装>」


 ――その小さな呟きは、一つの魔導具を解放した。


 瞬時にヴァルナルの身体を漆黒が包み込む。


 手も顔も、肌も服も靴も、その全てを隠すように深紅の眼窩以外が黒で覆い尽くされる。その手元には鎧と同じ艶やかな黒槍が現れ、ヴァルナルの手に収まった。


 それはテレ―シアの右耳飾りに使ったのと同じ竜の素材を使って作られた鎧。ヴァルナルがかつて倒した強敵を元に作った魔導具で、この遺跡最奥で封印されるように閉じ込められていた黒き竜を模した力。ヴァルナルが持つ中で最も強く、そして禍々しい魔導具。東部戦役でヴァルナルと共に災禍を振り撒いた災厄の権化。


 ヴァルナルはその黒槍を神速で振るい。そして、三方向から放たれた敵の魔術を寸分違わずその槍の先に当て、爆発させた。


 轟音。


 それは、これまでの魔術とは比べ物にならない威力であることを教えるもの。


 だが、その黒槍は。そして黒竜の障壁は傷一つ付いておらず。


 ヴァルナルとテレ―シアは無傷のまま視界を防ぐ砂埃を眺めていた。


「貫通術式。障壁破りの魔術です。まさか使えないと思ってましたかぁ?」


 砂塵の向こう側から得意気なマグヌスの声が響く。その攻撃はヴァルナルの黒槍で払われたというのに、それに気付いてすらいない。


 ヴァルナルは黒槍に魔力を込め、一振り横に振るう。それだけで突風が吹き、砂塵が掻き消えた。


 黒鎧の赤い瞳はその間抜けな声の元に向く。大口を開けたマグヌスがそこにはいた。


「…………なァッ! バ、馬鹿な!……貫通術式が効いていないぃ? いや、いやいや、効かないなんてある訳が無い。早着替えと同時に何かしたのだ! 種を明かしてやる、もう一度食らわせてやれ!」


 マグヌスが腕を振り下ろす。ヴァルナルは先程と同じように黒槍で振り払った。


「うっとうしいな」


 再び舞った砂煙を前に、ヴァルナルは吐き捨てた。


 焦れていた。普段なら足を止めてこんな攻撃を受けることなんてない。避けながら近付いて敵を切るか、受けながら近付いて敵を突くかで終わることだ。


 初めての状況に、ヴァルナルはどうするか考える。その逡巡は瞬きほど。――金銭や希少価値より敵の殲滅が優先と判断する。


 テレ―シアに掛けたマントから一つの銀のペンダントを取り出し、横に振る。


「<解放>」


 ヴァルナルの言霊に解き放たれた十数振りもの刀剣の魔導具が零れ落ちるように地面に突き刺さった。


「少しばかり勿体無いが」


 それは気が向いたときに集めた収集物の数々で、金銭的にも希少価値的にもそれなりに価値がある代物だが。集めるだけ集めて仕舞い込んでいたそれらを使うことに心が躍るのも、また事実。


 兜の奥で凶悪に口角を釣り上げながら、その内の三振りを片手で掴んで魔力を込める。当たれば爆発する珍しい刀剣型の魔導具だ。それを視界から砂が薄れた瞬間に魔導士がいた場所に向かって放り投げる。


 剣は三方の魔導士に同時に突き刺さり、炸裂する。


 一度限りの使い捨てだけあってその威力は悪くない。周囲に立ち並ぶ木々諸共、魔導士たちは呆気(あっけ)なく消し飛んだ。


 ヴァルナルは傲岸不遜に嗤う。――それは珍しい魔導具の発現を見た好事家として。そして、どんな敵をも弱者と見下す戦場の支配者として。


 その攻撃に驚いて浮足立った敵に、ヴァルナルの手は次々と地面に突き刺さった剣を掴み、放つ。


 あるものは轟雷に姿を変え敵を飲み込み、あるものは数十の氷柱に変化し敵を貫く。一人、また一人とヴァルナルが魔導具を投げるごとに敵が減っていく。


 十数振りの魔導具を全て投げ終えたとき、残ったのは幻術で懸命に逃げ隠れしていたマグヌスと三人の男だけだった。


「……どうした、幻術で逃げ隠れするのは終わりか?」


 ヴァルナルは左手を前に出し、くいっと二度ほど曲げる。「さっさとかかって来い、臆病者」と、そう見下しながら。


 マグヌスはそんなヴァルナルの挑発に一気に顔を沸騰させた。


「……よ、よくも……よくもよくも、よくも! この私を虚仮(こけ)にしてくれたなぁ!!」


 その顔にあるのは激昂だ。


 奥歯を音が鳴るほど噛み締めたマグヌスはその腰の剣を抜いた。


「最早、許しはしない。……この私自ら、切り、刻んでやる!」


 そう言い放ち、マグヌスは地を蹴った。


 残りの男たちもそれに合わせ、ヴァルナルの元に迫る。


「<幻術>! 決して見切れまいぃ!」


 自慢気なその言葉でマグヌスたちが数十人になり、ヴァルナルの周囲から同時に襲い掛かった。目だけでなく耳も騙す高度な幻術。まるで数十人が走るような大音量の幻聴。


 目で見ても惑わされる。ヴァルナルは本能的に目を(つむ)った。


 ヴァルナルの神経が一気に冴え渡る。それは全力を出すときの感覚。久しく感じていなかった懐かしい感覚だ。


 そして、敵が間近に迫ったその瞬間。


 ヴァルナルはその双眸を見開いた。


 漆黒の手甲が迷うことなく黒槍を振るう。最初に幻影全てを殺すかのように横薙ぎに、そして続いて背後、虚空へ向けて突き出した。


 ヴァルナルは黒槍を突いた姿勢のまま立ち尽くす。


 少しの静寂の後、幻が虚空へと消えていった。


 そのとき、ヴァルナルの前方には三人の男が血溜りに倒れ伏しており。虚空にあった黒槍は、剣を上段に構えたマグヌスの胸の中心を貫いていた。


「……バ…くぁナ」


 ヴァルナルは槍を引き戻し、軽く振るい矛先の血を祓う。


「向かってくるんだ、気配くらい見切れるさ」


 信じられないとでも言いたげな、絶望を顔に張り付けたマグヌスがゆっくりと崩れ落ちる。


 ふう、とヴァルナルはおもむろに一息吐いた。


 近くにはこれ以上敵の気配はないが、離れた場所にいないとも限らない。そうして感覚の鋭敏さを残しつつ残敵を警戒していると、腕の中が静かなことに気が付いた。


「どうした、どこか痛むのか?」


「すごい……」


「うん?」


「すごいんだね、ヴァルナルは」


「凄い、か。いや、まだまだだと痛感した」


 今回の戦いで出来た課題は多い。ヴァルナルが(つちか)った戦い方が通用しないと、こうして襲われ始めて気付いた。守りながらでは、動きが封じられると手が出せなくなる。そんな簡単なことにすら気付いていなかったのだ。


 ヴァルナルは辺りを見回す。焼け焦げたり凍り付いたりした戦闘跡が生々しかった。高価な魔導具を使い捨てにして敵の数を減らしたが、これが無ければ厳しい戦いだっただろう。飛び道具を使い果たしてから、最後にああして白兵戦を挑んできてくれたのは僥倖だったと言うしかない。


「<脱着>」


 その言葉でヴァルナルを覆っていた黒鎧が首に掛けた魔導具の中に戻っていく。そうして現れた生身のヴァルナルに、テレ―シアは「おおう」と驚いた。


 ヴァルナルは軽く辺りを見回し、動くものが無いことを目で確認する。


「敵は……もういないようだな。となると、これ以上の長居は無用だ。行くぞ」


「うん。あ、ちょっと待って」


「どうした?」


「ヴァルナル、しゃがんで」


「何故だ?」


「いいから!」


 奇怪な要求をするテレ―シア。その顔には先程までの恐怖は無い。


 不思議に思うが、断って拗ねられても面倒だなと思ったヴァルナルは、テレ―シアの言う通りに膝を曲げて腰を落とす。


 いつもとは逆に、テレ―シアの顔がヴァルナルの少し上にあった。


「<解除>」


「……おい、外では幻術を解くな」


「いまだけ。誰もいないんでしょ?」


「まあ、そうだが……」


 そう渋るヴァルナルにテレ―シアはおもむろに近付くと、つい、とヴァルナルの頬にその小さな唇を差し出した。その接触は一瞬だけ。だが、思った以上に熱く長く、ヴァルナルの肌にはその感触が続いた。


 驚いたヴァルナルを見て、テレ―シアはえへへ、と恥ずかしそうに笑った。


「……何のつもりだ」


「たすけてくれた、おれい。ゆうしゃへのおれいと言えば、おひめさまのキスって物語では相場がきまってるから」


「……変な物を真に受けるな、このマセガキが」


「……ヴァルナルは嫌だった?」


 少し寂しそうな、悲しそうな顔をするテレ―シア。ヴァルナルは困り果て、頭を掻き毟る。


「そういうのはあと五年経ってからするんだな」


 そう言って、誤魔化すようにポンポンとテレ―シアの頭を軽く撫でる。テレ―シアはむぅと膨れ面になるが、すぐに思い直したように頭を一振りした。


「五年だね。わかった。五年後、かくごしておいて」


「何の覚悟だよ……」


 ヴァルナルの呟きに答えることなく、テレ―シアは<幻術>と唱えアイナの姿に戻る。その頬は少しばかり赤らんでいた。


 ヴァルナルはテレ―シアの言った覚悟の意味について考える。だが、それがどんな意味なのかがよく分からず、結局は子供特有の何かなのだろうと思ってヴァルナルは理解することを諦めた。


「……まあ、いい。行くぞ」


「うん」


 ヴァルナルはテレ―シアに手を伸ばす。


 マグヌスたちの襲撃で大分時間を食ってしまった。


 ここへ来た当初の目的を果たすべく、ヴァルナルはテレ―シアの手を引いてこの戦場を後にした。

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