第三章 束の間の平穏
ヴァルナルが遺跡から戻って来たとき、青々とした木々が目に入った。少し前の記憶よりも大きくなった葉が、少しずつ夏へと近付いていることを感じさせる。
遺跡からの帰り道であれこれと食材や雑貨を買い込んだヴァルナルは、足取り軽く魔導具屋の扉を開けた。
そのとき、とたたた、と二階から降りて来る足音とともに、「おかえりなさい」という幼い声が耳に届く。少し前に同居人となった金髪の童女の声だった。
「ああ、ただいま」
挨拶を返すと、買い物が入った紙袋を持ちたそうに両手を伸ばしてきたテレ―シアにそっと手渡す。
二人で生活するようになって十日が経つ。その間、彼女はこの家から一歩も足を踏み出さずにいた。
帰って来ると誰かが居るという状況に、ヴァルナルは未だに不思議な感覚を覚える。この魔導具屋では常に一人で生活していたので、今まで帰って来て家に誰かがいたということが無かった。そんな状況が変わるとも思っておらず、これからもずっと一人だろうと何とはなしに考えていたのだ。
「良い子にしてたか」
「ん、いい子」
誇らしげに紙袋を抱き締めるテレ―シアの頭を軽く撫でると、嬉しそうに身体を弾ませた。テレ―シアの感情の見方はアイナのときと同じでその口元に一番良く表れるが、最近はヴァルナルに慣れたからか、その身体全体を使った仕草が喜悦を表すようになった。
「じゃあさっさと夕食にするか」
「ん。夕方の開店時間まであんまり時間がない。いそがないと」
「そうだな」
そのまま二人で台所へ行き、夕食の準備をする。今日の献立は帰りに買って来たパンと焼いた肉、それに二人で作ったスープだ。一人のときは偶に作るくらいだったスープだが、二人になってからは夕食では欠かさず用意するようになっていた。
机に料理を並べると向き合って食事を口に運ぶ。そうして見えるテレ―シアの姿を見ていると、凝視し過ぎたのかテレ―シアが不審気にヴァルナルを見返していた。
「なにか、顔についてる?」
「いや、少し肉が付いたなと思っただけだ」
それはヴァルナルの思ったままの言葉だった。
「太った?」
「むしろ痩せすぎていた。まだまだ細いからもうちょっと肉を付けろ」
自身の腹や二の腕を見やるテレ―シアに、ヴァルナルはそう指摘する。この家に来た当初より健康的な肉付きに近付いていたが、まだ細い。もう少し食べさせないと駄目だろう。
「じゃないと、北部に行かせられない」
「ん、わかった。いっぱい食べる」
テレ―シアは金髪を上下に揺らしながらいつもより元気良く返事をした。
食事の時間は和やかに過ぎて行く。そしてテレ―シアが食べ終わったのを見計らい、ヴァルナルは話を切り出した。
「前々から話していた魔導具を渡す」
「できたの?」
「ああ」
その魔導具というのは、ヴァルナルがテレ―シアのために作った魔導具だ。
テレ―シアはその本来の姿で出歩くことが出来ない。どこかの貴族に彼女がここに居ると知られれば無用な介入を招くだろうことは簡単に想像が付く。公爵家に取り入ろうとする者は脅迫や誘拐を画策するだろうし、公爵家に恨みを持つ者なら暗殺者を送り込んで来てもおかしくなかった。
それに加えて、彼女は実の兄という敵がいるのが明らかだ。そんな状況なので舌の魔導具に組み込まれていた<幻術>と<認識阻害>だけでは頼りなく、それを流用するという考えは最初から無かった。テレ―シアを外に出すにあたっては、<幻術>で姿を変えさせるだけでなく、身を守る魔術を刻み込んだ魔導具を保険として持たせたかった。
そう考えてここ暫くの間作っていた魔導具が、ようやく完成したのだ。
<解錠>とヴァルナルが唱えると、収納の魔導具が仄かに光り開かれる。出て来たのは小さな木箱。その中に入っているのは右耳飾りの魔導具だ。
女性の右耳飾りは特別だ。この場所に付けられる魔導具は、一人の女性につき生涯に一つのみ。そして、耳飾りを外したとしてもそれを渡した相手の命令には逆らえないと言うとんでもない物だ。
だが、その不利益を補って余りあるほどに女性の右耳は魔導具を付ける上で最良の場所だった。手足のような長所短所が無く、癖が無く使いやすい。そして、魔力の伝達効率は他の場所とは比べ物にならないほど良いのだ。ここに魔導具を付けられるのなら、欲しい魔術を余すことなく組み込んで尚余裕があるくらいだ。
だからこそヴァルナルは悩み、右耳飾りの長短を詳らかにした上でテレ―シアに相談していた。そのときのテレ―シアの答えは是だ。特に怖がりも拒絶もせず、話を持ち掛けたヴァルナルがあっけなく思う程簡単に承諾した。
「開けてみろ。それがお前の右耳を生涯に渡って飾る物だ」
ヴァルナルは木箱をテレ―シアへと差し出す。おずおずと両手で受け取ったテレ―シアは、ゆっくりと小箱を開けた。
木箱の中に鎮座しているのは、黒と金の耳飾りだ。十二角に整えられた漆黒の大きな核を、この素材の元となった漆黒の竜を意匠した魔蝕金の地金が取り囲んでいる。成長することを考えて少し大きめ作ってあるので、今のテレ―シアの小さな耳には少しばかり大きかった。
「……きれい」
小箱から耳飾りを取り出し、テレ―シアは感嘆する。見た目は魔導具の神髄では無いが、それでも見た者を感動させて悪い思いはしない。ヴァルナルはその様子に製作者としての喜びがじわじわと湧き上がるのを感じた。
「見た目もかなり凝りはしたが、それより中身の方が断然手間が掛かっている」
「そうなの?」
「ああ」
女性の右耳飾りは一生物だから、ヴァルナルは一切妥協しなかった。
「刻み込んだ術式は何と十。まず当初の予定通り<幻術>。これは分かるな。次に身を守るものとして三つ。受ける衝撃を減らし物理攻撃の威力を軽減する<衝撃緩衝>、そして障壁を張ることで物理・魔力両方の攻撃を防ぐ<魔術障壁>の二つで不意の襲撃に備え、毒物をほぼ無効化する<状態異常耐性>で毒殺への備えをしている。また、右耳にしたことで出来た余裕に、あればいいなと思った二つ、自然回復力を強化する<自己治癒>と触覚を騙す<認識阻害>を加えた。そして、魔力を使わないときに魔力を取り置き貯めておく<貯蔵>と、使用する魔力を減らす<魔力消費量減少>の二つでテレ―シアの負担軽減と魔導具への安定した魔力供給を実現している。それに、これだけ複数の術式を緻密に刻み込むと術式が壊れやすくなるので、術式自体が壊れないよう<術式保護>で守り、後から調整出来るように<管理>を入れそれぞれの術式の詳細な設定ができるようにしている」
「……そうなんだ、すごいね」
テレ―シアは呆然としており、どうもこの魔導具の凄さが分かっていないようだ。正しい知識を与えるのもこの道の先人としての務めだろうと思い、ヴァルナルは続ける。
「ああ、凄いんだ。帝国広しと言えど、これより術式が刻み込まれた魔導具は存在しないだろう。帝国で最大の術式数を誇る魔導具で六つと言われている。それを四つも越える術式が刻み込まれていると言えば、その凄さが分かるだろう」
それだけ多くの術式を刻み込められたのは、素材による所が大きい。刻み込める術式の限界数は素材の質で決まるが、そもそもそれだけ良質な素材を持つ魔物は出会うことがほとんどない。ヴァルナルもかつて自棄になっていた頃に遺跡深層で討ち滅ぼした魔物数体しか会ったことがないのだ。
耳飾りの核に使った魔物素材の大部分は別の魔導具の作成に使ったが、耳飾りに出来る程度の素材はまだ残っており、それを流用した形だ。
「それに、地味で見え難い所も手を抜いていない。地金と核との相性を少しでも良くするために、加工しやすい素材を使うのではなくわざわざ核と同じ素材で魔蝕加工を行っている」
その辺は素人には見ても分からない箇所なので、適当に作る魔導具職人は実の所結構いる。だが、地金を核とは別の素材で魔蝕加工すると、地金と核の同調率が僅かだが確実に下がり、魔力の伝導効率が悪くなってしまう。手間を惜しみ不出来な魔導具を生み出すというのはヴァルナルには受け入れ難いもので、そこには一人の魔導具職人として決して譲れない拘りがあった。
「だからな、それはかなり凄い。他人にはおいそれと見せるな。術式は知り合いでも決して見せるな。もしばれたら大事件になる」
気圧されたようにテレ―シアは少し引き攣る。
「うん、わかった。……ヴァルナルって、ふだんはあんまり話さないのに魔導具のことになるとよく話すね」
「ぐっ」
ヴァルナルは言葉が詰まり呻いた。そのことはヴァルナルも気付いている。気付いてはいるが、これは性分というもので簡単に代えられるものではない。
「それで、いっしょに入ってる紙はなに?」
「……誓言だ。それを読み上げて初めて登録が完了する。……まあ、古式ゆかしい儀式だとでも思っておけ」
小さく折り畳まれた紙を手に取り質問して来たテレ―シアに、ヴァルナルは気を取り直して答えてやる。それを聞いたテレ―シアは耳飾りを自ら耳朶に挟むと、誓言の紙を手に広げ、口を開いた。
「わたくし、テレ―シア・ヴァレンクヴィストは、今日この日、ヴァルナル・ブロムステットより、誓いの証を受け取りました。我が信頼と忠誠は我が主のために。我が命は我が主とともに。いついかなるときもその命令に従い、死に至るまでの服従を誓います。なにとぞ我が願いを受け取り給うよう、謹んでお願い奉ります」
テレ―シアは堂々と誓言を口にする。もはや形骸のような古い儀式だが、その効力は本物だ。読み終えると同時に、その右耳の漆黒が煌々と輝く。これでテレ―シアの右耳飾りにはこれ以外の魔導具は付けられなくなった。
「少しは躊躇すると思ったが、随分と余裕じゃないか」
「とりひき、したから。奴隷だろうと貴族だろうと、どっちにしろヴァルナルの言うことは聞かないといけないでしょ?」
動じることなく誓言を読み終えたテレ―シアは、そうあっけらかんとしていた。
そして、少しもじもじしながら続ける。
「だから、へいき。……ヴァルナルは、わたしがこれを付けてどう思った?」
「ん? 度胸が据わってるなと思ったぞ」
「……そう」
ヴァルナルの答えが期待外れだったのか、テレ―シアはあからさまに落胆した。
「あー、怖がらず良く付けた」
「むぅ。そうやって、子供あつかいして」
「大人でも嫌な人は絶対付けない。だから、お前の度胸は本物だと認めてやる」
「……ぜんぜん、うれしくないんだけど」
不満を隠そうともしないテレ―シア。だが、時間は限られており、いつまでも相手をしていられない。ヴァルナルは持っていたもう一つの魔導具をテレ―シアに差し出した。
「ほら、次だ。これに魔力を通して<幻術>と唱えろ」
「うえっ」
その魔導具を見てテレ―シアがあからさまな顰めっ面をする。そうなるのも仕方無いだろう。それはこの間までテレ―シアの舌に付けられていた魔導具の一部だった。
「<幻術>は実際にある姿を登録して使うもんなんだよ。一から作るなんて手間が掛かり過ぎてとてもじゃないが不可能だ」
嫌そうな顔をしながらも、テレ―シアは手に持った魔導具に意識を集中させた。まだ魔力の流し方がよく分からないのか、「んー」だとか「むぅー」だとか少しばかり唸る。
やがて納得が行ったのだろう、<幻術>とテレ―シアが唱えると、裏表を切り替えるようにその顔と髪が全く別のものになる。その姿はかつて遺跡でよく出会った童女、アイナのものだった。
「それじゃ、右耳に魔力を流して<幻術登録>と言え。それで登録は完了する」
要領を掴んだのか、こちらはすぐに<幻術登録>と声に出し、テレ―シアは魔術を起動した。
「うん、問題無さそうだな。そっちを返してみろ」
その催促に、テレ―シアはすぐに舌の魔導具をヴァルナルの掌の上に置いた。舌の魔導具を手放したがその姿はアイナのまま変わらず。右耳飾りの魔導具は問題無く作動しているようだ。
「成功だな。まあ発動しないような酷い術式を書いたりはしないが」
魔導具は術式が上手く作動しないと、魔術を表さない所か酷いときは暴発する。なので当然、術式の確認は念を入れて行っている。完成だと受け渡した時点で魔術が発動しないような出来ではないが、こうして問題無く動作している様子を見ると安心するのも確かだった。
テレ―シアは自分の髪の色を見ていたかと思うとヴァルナルの元に近付き、どことなく不安そうにヴァルナルの服の裾を握る。
「どうやったら、もどれるの?」
「……そう言えば教えていなかったか。<幻術>を消したいときは<解除>と言えばいい。<幻術>を使いたいときはそのまま<幻術>だ。その言葉を会話の端にでも入れてしまえば反応するから、気を付けるようにな」
ヴァルナルがそう教えると、テレ―シアは<解除>と<幻術>を繰り返し、その都度自らの髪の色を確認する。その姿を見て、自分では使うことが無い手鏡を仕舞い込んでいたことヴァルナルは思い出した。
「ちょっと待て……確かこれだったはずだ。<解錠>」
収納の魔導具を開くと、大量の雑貨が現れる。それは全てヴァルナルが普段使わない代物だ。その中から見開きの小さな手鏡を取り出すと、きょとんと見ていたテレ―シア姿のテレ―シアに渡してやる。
見開きを開いたテレ―シアは、ぱあっと口角を上げた。そのまま手鏡の向こうを覗きながら、<幻術>と<解除>を繰り返した。そしてその顔を確かめたり、右耳についた耳飾りを触りながら見ていたり、その右耳飾りがアイナ姿に変身すると消える様子に不思議そうにしていたりした。
その楽しそうな姿に、ヴァルナルはつい頬を綻ばせる。
「その鏡が欲しいならやるぞ」
ヴァルナルのその一言に、テレ―シアは「ほんとうにいいの?」と疑わしそうに確認してきた。小さいながらも煌びやかな意匠を凝らしたその品は、貴族が使っていてもおかしくない出来栄えだ。それもそうだろう。それはかつてのヴァルナルが婚約者に贈ろうと用意した物で、その婚約が流れたことで行く当てが無くなったがため手元にあったに過ぎない。
振られた婚約者への贈り物という妙な曰くが付いて残ってしまっていたが、欲しがられてヴァルナルの手元を去るのなら、鏡にとってもその方がいいだろう。
「ああ、構わん。俺が持っていてもずっと仕舞っているだけだ。女なら使いたいときもあるだろうし、お前が持っているといい、テレ―シア」
ヴァルナルがそう許可を出すとテレ―シアは頬を緩める。
「はい。ありがとうございます、耳飾りも鏡も、大事にします」
そう言ってテレ―シアはその鏡を大事そうに胸に抱き締めた。そのとき、テレ―シアの右耳がきらりと黒く光ったようにヴァルナルには見えた。
◆
その日の夜。
ヴァルナルは一人、届いたばかりの手紙の束を取り出していた。
「そちらで何か大きな出来事は無かったか。もしあれば情報が欲しい」――テレ―シアと取引してすぐ、ヴァルナルは北部の知り合いたちにそのような旨の手紙を送っていた。
その返事が今日、返って来ていたのだ。
手紙を括っていた紐を解き、宛名を見る。実家に幼馴染の友人、探索者時代の取引相手。全て返って来ていた。
(はてさて、欲しい情報は手に入るか。期待の薄い順に見て行くか)
まず実家の分から開封する。その宛名の筆跡と同じく、見覚えのあるしなやかな筆跡は義姉のものだ。
その内容はいつもやり取りしているときのものとさして変わらず、家族全員が元気に過ごしていることや、義姉の息子――ヴァルナルにとっての甥が大きくなるにつれやんちゃになって大変だと言う愚痴だとか、たまには帰って来いと言った事柄が綴られていた。ヴァルナルの問いに対しては、「特に変わったことはありません」と簡潔に答えられていた。
次に幼馴染の手紙を手に取る。その家の長男の彼は、当主を継ぐことが決まっている。「やあ、久しぶりだね。元気だったかい? 僕はもう、それはもう大変だったよ」と貴族らしい修辞すら省いた書き出しに、マイペースでふくよかな彼の姿が自然と思い浮かんだ。
家を継ぐために彼の父に付いて挨拶回りをしているらしく、初めて会う人の顔と名前を覚える日々に苦労しているらしい。その文のほとんどが彼の自分語りで埋まってしまっていたが、こちらが聞いた内容への返事も忘れずに答えてくれており、誰それの家で当主が交代したとか、美人で有名だった娘が婚約したと言ったことを教えてくれた。
ふむ、とヴァルナルは顎を触る。そのどちらにもテレ―シアの話題が無い。北部貴族の盟主ヴァレンクヴィスト公爵家の娘が居なくなる。それがどれだけの大事件かは言うまでもないことだ。
それなのに全く話題に出ていないと言うことは、貴族の間でその話題が流れていないか、或いは箝口令が敷かれているか。そのどちらかなのだろう。
軽く分析しつつ、最後に残った手紙に手を伸ばす。探索者時代の知り合いで、探索者を引退して自分の店を持った人物だ。その店があるのがヴァレンクヴィスト公爵のお膝下となる北部最大の都市ミルヴェーデンなので、現地に居る人物ならではの情報があるかと思い、聞いてみたのだ。
中を開いてみる。さっと読んでみるが当たり障りの無い日常的なことばかりだった。「まあ、表はそうだよな」とヴァルナルは独り言ち、魔力を見るレンズを取り出す。そのレンズ越しに、手紙には全く違う文章が浮かび上がった。
『現在箝口令が敷かれているが、ヴァレンクヴィスト公爵の一人娘が伏せっているだとか何者かに連れ去られたという噂が市井で流れている』『真偽は不明。されども、事実として屋敷の警備が物々しくなっており、全くの出鱈目とも言えない』『また、外から街に入る分にはいつもと変わらないが、中から外に出る際の検問が厳しくなった』
流石だな、とヴァルナルは感じ入る。書かれている文章は簡潔だが、それはヴァルナルが求めていた情報に他ならない。それ自体はとても有り難いのだが。
(……もしかして、こっちの状況が分かってるんじゃないか?)
まるでヴァルナルが求めている情報が分かっているかのよう。こちらが欲しい情報のみに焦点を当てられた答えに、底知れない恐ろしさを感じ背中の辺りがぞくりとしてしまう。
(いや、もしそうでも構わない。あいつは裏切るような奴じゃない)
付き合い自体は短いながらも、ヴァルナルは彼が信頼に値する人物だと確信していた。もし彼が裏切るなら、今までに何度もその機会はあった。命の危機に晒されて尚、ヴァルナルを信じていたこともあったくらいだ。
そして、この手紙がこちらに返って来たと言うことは、検閲でばれなかったと言うことだ。こちらがどう言う状況なのか、その手掛かりを持つのが彼だけなら現時点では何も問題は無い。
(これで今欲しい情報は十分集まった。残りはミルヴェーデンに入ってから、だな。……さて、どうするか)
ヴァルナルは黙考する。入る方の検問が強化されてないのなら、公爵家の本拠地ミルヴェーデンの街に入るのは簡単だ。だが、公爵家がこの件を公表していないので、その考えが全く見えてこない。
「向こうの考え次第で採れる方法も変わるのだがな」
つい独り言が口を衝いてしまう。あちらの考えさえ分かればそれに合わせて最善の手を考えられるのだが、分からないことにはどうすることも出来ない。
「何か反応を見る手段でもあれば……文でも送ってみるか? いや、それだと誘拐犯の要求だと思われてしまうか。とは言え、直接接触するのは危険だ。何の発表もしていないのは接触を待ち構えているためと言う可能性もある。うーむ……」
ヴァルナルは悩むが、袋小路に出会ったように先は見えない。ここで考えていても答えは出ないかと諦めようとしたとき、コンコン、と扉を叩く軽い音がした。
扉の向こうに居るのが誰かなんて、一人しかいない。「入れ」と入室を促すと、寝間着姿のテレ―シアが扉の陰から覗き見るようにゆっくりと入って来た。
「どうした、また寝れないのか」
ヴァルナルの言葉にテレ―シアはこくりと頷く。そして、そのままヴァルナルの元まで近付き、ぎゅっとヴァルナルの服の裾を握り締めた。
「ひとりはこわくて、さみしい」
テレ―シアがその手に持った魔力灯の光が小さく揺れる。先に寝支度を整えベッドに入っていたものの、その言葉の通り怖さと寂しさに耐えられなかったのだろう。
この童女はヴァルナルより眠くなるのが早く、先にベッドに入り込むのだが、いつも一人では寝付けないのだ。
彼女がこの家で生活するようになってからというもの、こうして夜に作業しているヴァルナルを呼びに来るのが恒例のこととなっていた。
「分かった」
丁度考えも行き詰っていた所だ、とヴァルナルはしゃがむと同時にその手をテレ―シアの膝裏と背に回し、抱きかかえる。
そのままこの家唯一のベッドに連れて行くと、テレ―シアを奥に下ろしてやり、次いでヴァルナルも入り込んだ。
枕元に置いた魔力灯を消す。
部屋は一気に暗闇に包まれた。
「おやすみなさい」
「……ああ、おやすみ」
その顔は暗く見えないが、声色からは安堵した様子を感じさせた。二人で寝るには少しばかり窮屈だが、まだ底冷えする春の夜にはテレ―シアの体温が心地良い。
ベッドに入ってすぐ眠りについたテレ―シアの寝息を感じながら、ヴァルナルは静かに眠りに落ちて行った。
◆
陽が明けて、翌朝。
探索者を見送って朝の閉店時間を迎えると、ヴァルナルは二階にいるテレ―シアの元へ向かった。階段を上る音を聞いたのだろう、時間潰しにと貸した本を脇に抱えたテレ―シアが階段前まで駆け寄って来ていた。
「遺跡へいくの?」
「いや、今日は遺跡には行かない」
テレ―シアは首を傾げる。
「今日は一緒に買い物に行く。替えの服やら下着やら、あるだろう? ようやく外に出れるようになったんだ、足りない物を買いに行くぞ」
テレ―シアは得心が行ったのだろう、ぽんと手を付いた。
彼女に足りていない物は多い。家で着る服や雑貨類は幾つかヴァルナルが見繕って来ていたが、それでも生活する上での必要最低限の物しか無かった。
本の代わりに置いてあった手鏡を取ると、テレ―シアは<幻術>と唱えアイナの姿に変わる。その右耳には耳飾りは見えない。色々と角度を変え自らの顔を難しそうに真剣に確認していたかと思うと、満足したのだろう、テレ―シアは一つ大きく頷いた。
「外ではアイナと呼ぶ。分かったな?」
家の扉の前でそう告げるヴァルナルに、青髪の童女は緊張した面持ちで頭を縦に振った。
「手、にぎってもいい?」
続けてそう心細そうに言う彼女の前に手を差し出してやる。テレ―シアはヴァルナルの手をぎゅっと握り締めた。
「最初は外で着る用の服と靴、次にそれを着てお嬢様用の服だ。他に買いたい物があるなら、その後に買いに行ってやるから考えておけ」
「ん、わかった」
テレ―シアの返事に相槌を返すと、ヴァルナルは扉を開けた。
彼女にとっては実に十一日振りの外出だ。幾分か堅い様子の青い頭をぽんぽんと軽く撫でてやると、ヴァルナルはその手を引いて街へと繰り出した。
びくびくと周りを伺うテレ―シアを連れ、幾つもの店を梯子する。最初は警戒心を露わにヴァルナルの陰に隠れていたテレ―シアだが、商品選びに夢中になり出すとすぐにそんな様子は見えなくなった。
テレ―シアも女の子だからだろう、その買い物は長かった。
無数に並んでいる衣服から自分に合う大きさの物を一つずつ順番に見て行くと、その中で気に入った幾つかを取り出し見比べる。「どっちが良い?」とヴァルナルに意見を求めたりしながら選び抜いては次の商品へと取り掛かる。その繰り返しだった。
平民用の衣類や靴を扱う店で幾つか買い込むと、次はその服装で大店の豪商や下級貴族が着るような衣装を取り扱う高級店へと向かう。テレ―シアが実家に帰るときに粗末な衣装を着せて行く訳には行かないからだ。
しかしながら、これがヴァルナルにとって痛い出費だった。質の良い衣服がヴァルナルの予想以上に高かったのだ。そのせいで少し前の遠征騒動で儲けた分がほとんど飛んで行ってしまった。
テレ―シアに分からないように内心で消沈しつつ、お嬢様用の服や靴などを収納の魔導具に仕舞い、ヴァルナルはテレ―シアの手を引いて店を出た。
「おみせのひと、おどろいてたね」
テレ―シアはそう言って首輪を手で触る。
「奴隷に貴族の服を着せようなんて、普通はしないからな」
ヴァルナルは溜息を吐いた。店に入ってすぐ、奴隷の首輪に気付いた店員が「この店にはご令嬢向けの服しかありませんよ」なんて言って来たくらいだ。こうして客として取り成してくれはしたが、大層な物好きに思われただろう。
「まあ済んだことだ。それはそうとして、他に必要な物はあるか?」
テレ―シアは顎に人差し指を当て視線を彷徨わせる。あちらこちらと向けていた目が止まったのは装飾品の店の飾り棚だった。
「……そんなのより良いのやっただろう?」
その店に置いてある物は魔導具ですらないただの飾りだ。テレ―シアに贈った耳飾りは、その中身も形も、その店の品とは比べ物にならないという自負がヴァルナルにはあった。それだけに、テレ―シアがそんな物に気を取られているのが不本意で、少しばかりぶっきらぼうな物言いになってしまう。
そんなヴァルナルの様子を見て、テレ―シアは少しだけ口元を緩ませた。
「じゃあ、かみかざりがほしい。あれよりいいの、つくれるんでしょ?」
「ほう。それは俺への挑戦か。いいだろう、受けて立つ」
テレ―シアは挑発するように蝶を模った髪飾りを指さす。その物怖じしない要求に大人気なくヴァルナルは乗ってやることにした。
髪は魔導具を意図的に使用出来る箇所では無いが、魔力を込めていつでも発動できる形にしておけば使えないことも無い。右耳飾りの<衝撃緩衝>辺りの魔術に連動するようにすれば、一度限りだが強力な効果を発揮するだろう。
ヴァルナルは髪飾りの設計を練りながらくつくつと笑う。そんなヴァルナルに呆れたような目を向けたテレ―シアだったが、同時にその腹がくぅと小さく鳴った。
「ああ、そう言えば正午の鐘は鳴っていたか。他に買う物も無いようだし昼飯にするか、アイナ」
テレ―シアは実際に腹が減っていたのだろう、恥ずかしそうにお腹を押さえながらもこくりと素直に頷いた。とは言え、散々散財した直後にこんな高級街で食べる気はヴァルナルには起きず、雑然とした南区画の大通りにある定食屋へとテレ―シアの手を引いて入った。
正午から少し時間を置いたからだろう、定食屋の中は少しずつ席が空いてきており、待つことなく二人掛けの席に座ることが出来た。料理の種類は少なく、二人とも同じ定食を――テレ―シアの量は少なめで――選び、注文する。
料理はすぐに届いた。黒パンに野菜のスープ、それに腸詰めが四本付いていた。向き合って食前の祈りを捧げ、食べ始める。
「今日はどうだった?」
何と答えればいいか迷うようにテレ―シアはヴァルナルを見詰める。言葉が少なかったからかとヴァルナルは気付き、言葉を続けた。
「あー、ずっと閉じ籠っていただろう。気晴らしにはなったか?」
「うん、たのしかった……」
テレ―シアは笑顔を浮かべるが、すぐに表情を一転させ俯いた。
その顔には明るさなど一欠けらも無く、まるで絶望を抱えたよう。
「……ヴァルナル。わたしはいま、幸せ。お腹いっぱいごはんを食べれて、お洋服もいっぱい買いに行けて、となりにはヴァルナルがいて。……だけどこの幸せが夢なんじゃないかっておもえて」
テレ―シアは普段崩さない目元を崩し、泣きそうな顔でヴァルナルを見上げる。
「ねえ、これは夢じゃないよね。ヴァルナルは、ずっと一緒にいてくれるよね?」
これはテレ―シアの心の叫びだ。身内に裏切られ、誰も助けてくれる人などおらず過酷な日々を一人過ごして来た彼女の慟哭だ――そうヴァルナルには思えた。
ヴァルナルは右手でテレ―シアの柔らかい頬を触り――きゅっと軽く捻り上げた。
「ええっ」
テレ―シアははっと反応してその目に涙を浮かべた。驚きと痛みが勝ったのだろう、その目からは気鬱さは吹き飛んでいた。
「どうだ、痛いか?」
「いひゃい、ヴぁるにゃる」
「なら安心しろ、痛みがあるってことは夢じゃない」
頬から手を放してやる。捻られていた場所を手で擦ると、テレ―シアは涙目でヴァルナルを睨んで来た。
「これまで酷い所に居過ぎたせいで、まともな生活に身体と心がびっくりしてるだけだ」
そう言うとまだ恨みがまそうにしていたテレ―シアの頭に手を回し、撫でてやる。
家族にすら裏切られたテレ―シアには、いずれヴァルナルも裏切るのではないかと疑ってしまうのだろう。今の彼女には確たる拠り所となる保護者も、公爵家の地位も、何も無い。他人の気分次第で自らの身がどうにでもなることを身を以て知った彼女には、こうしてあれこれと面倒を見られることが理解出来ないのかも知れない。
「取引しただろう、アイナ。お前を連れて帰らないことには、そもそも俺の目的は果たせない」
ヴァルナルの目的はテレ―シアを連れて帰った後に意味を成す。だからテレ―シアを丁重に扱うのは当然なのだが、テレ―シアはそれでは納得出来なかったようで感情の籠らない相槌を小さく打っただけだった。
ならば、とヴァルナルは続ける。
「ならアイナ。約束しよう」
「やくそく?」
訝しげに同じ言葉を返したテレ―シアに、ヴァルナルは大きく頭を振る。
「そうだ。俺はお前を裏切らない。だから、お前も俺を裏切るな。お前が約束を守っている限り、俺がお前を傷付けようとする奴らをみんな追い払ってやる。だから、困ったら俺に助けを求めろ。そうしたら必ずお前を守ってやる。……なんせ、大切な取引相手だからな」
探索者として兵士として、遺跡を戦場を駆け巡ったヴァルナルには、並の相手には武力で負けはしないという自負があった。
それに、唆したとは言え立場上は対等な取引相手だ。テレ―シアの差し出す対価は大きく、このくらいはヴァルナルとしても許容範囲だ。それに公爵家を乗っ取る前に潰れられても困る。必要なら保護者にだってなってやろう。
「……さいごで、だいなし。ヴァルナルはおとめごころがわかってない」
「ほう。別に必要が無いなら約束しなくてもいいんだが?」
むすっとして呟いたテレ―シアに、ヴァルナルは揶揄い半分に返す。ヴァルナルのそんな態度にテレ―シアは焦って身を乗り出した。
「だめ。やくそくするっていった」
「そうか。なら、約束だ。俺たちは互いに裏切らない。お前がそれを守る限り、俺はお前の剣となり盾となろう」
テレ―シアはヴァルナルの言葉に一瞬呆けると、にんまりとした笑顔を見せた。
「ふふっ、騎士のちかいみたい」
「それではお嬢様、お手を」
はにかむテレ―シアに合わせて、ヴァルナルはおどけた調子で冗談を言う。その場違いな様子がおかしかったのかテレ―シアは更に笑うが、悪目立ちして周囲の視線が集まってしまい、すぐに恥ずかしそうに縮こまった。
そのまま食事を終えるまでテレ―シアは柔らかな雰囲気を崩さなかった。先程の気鬱な雰囲気はどこにもない。会計を支払うヴァルナルの側で今か今かと落ち着きなく待ち、支払い終えるとすぐにヴァルナルの手を引いて歩き出した。
(今までテレ―シアは人見知りをするようにヴァルナルの陰に隠れていたが、本来彼女はこうして人を引っ張って行きたがる性格なのかも知れない)
手を引いて先を歩くテレ―シアの快活な姿に、ヴァルナルはそう見て取った。そのままテレ―シアは店の出口までヴァルナルを引っ張って行くと、彼女にとっては大きな扉を懸命に開いた。
――テレ―シアが扉を開けると、陰鬱な目をした男が店の前に立っていた。
その男はヴァルナルたちに向かい、足を踏み出す。懐に入れている片手がヴァルナルの警戒心を強く掻き鳴らす。
普通に考えれば店の客だが、ヴァルナルの勘はそうでは無いと大声で告げている。感覚に任せるまま、気付かず進もうとするテレ―シアを引き留め、彼女を男から離れた側へと引き寄せた。
テレ―シアは「へっ」と間抜けな声を出し、訳が分からないようにヴァルナルの顔を見る。説明を求めているのだろう、だが今は構ってる暇は無い。
男は近付く。
その目は二人を見てはいないが、剣呑な空気は隠せていない。
一歩一歩。のそりゆらりとしたその足取りが、胡散臭さを醸し出す。
そうして近寄って来た男は、ヴァルナルまで後一、二歩という所で懐から手を抜き。
案の定、その手には銀の光が瞬く刃が握られ、その刃先はヴァルナルの隣にいるテレ―シアに向けられていた。
男はそのまま無言でナイフを腰溜めに構え。
そして、テレ―シアにその殺意を突き出した。
――だが、遅い。
遺跡の魔物の方が、もっと遠くの距離からずっと早く接近する。
それだけの余裕があれば、対処は容易い。
ヴァルナルは瞬時に、刃を振るう男の腕を左手で素早く掴む。
そして、思い切り店の中へと引っ張り、更につんのめる男の足を引っ掛けて追い打ちする。
男はその勢いのまま転び、店の中へと飛び込んだ。
倒れた男を尻目に、ヴァルナルは収納の魔導具を地に置き、<解錠>と唱える。並ぶ魔導具の中から麻痺効果のある使い捨て魔導具をさっと選び取ると、立ち上がろうと足掻く男に放り投げた。
その小さな球が男に当たり。同時に、一瞬の閃光と小さな炸裂音が響く。
立ち上がろうとした男は糸が切れたように崩れ落ちた。
「えっ……なに?」
何が起こったか分からないようで、ヴァルナルの顔を見ていたかと思うと次に倒れた男を見やるテレ―シア。
動けなくなった男に注意を残しつつ、ヴァルナルは周囲に視線を巡らせた。その目から逃れるように建物の陰に隠れた怪しい姿を、ヴァルナルは確かに一瞬だけ目の端に捉えた。
(……監視されていた? ということは場当たり的な通り魔では無く計画的な襲撃……テレ―シアを狙ったってことはルーカスの手先か?)
疑念が募るが、複数犯なら他にも手出ししてくる者がいるかも知れない。考えるのは後だ、とヴァルナルは思考を捨て警戒を続ける。
「たすけてって言ってないのに……言う前にたすけられた」
変な衝撃を受けているテレ―シアは当然見なかったことにして放置した。
その日はそれ以上の襲撃は無かった。襲って来た男はやって来た衛兵に突き出され、通り魔として処理された。
しかしヴァルナルにはどうしてもただの通り魔だったとは思えず、以後はテレ―シアと常に行動を共にするようになる。