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奴隷令嬢を拾ったら  作者: 魂々
奴隷令嬢を拾ったら①
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第二章 卑劣なる取引

 遺跡都市の探索者クランのほとんどと縁の無いヴァルナルも、全てのクランの名前と代表者くらいは知っている。探索者を相手にする商売をしているのだから、そのくらいは知っておく必要があったからだ。


 何代も前から続く誰もが知る大手クランから一代で興された知る人ぞ知る新興のクランまで、合計二十一の探索者クランが遺跡都市エルサスにはあった。


 彼ら探索者クランが探索するのは、遺跡深層だ。


 遺跡深層と一般に呼ばれるのは、第十一界層「荘園」の一階――地上から数えて累計四十二階――以降だ。そこから先は単独パーティでの探索が奨励されない危険な領域となる。そこで複数の探索者パーティが集って探索者クランとなり、深層へ挑むのだ。


 それ故、探索者クランに入れるのはパーティの限界と言われる四十一階まで到達した実力者ばかりとなり。いつしか、彼らクランに属する者たちこそが真の探索者だとまで呼ばれるようになっていた。


 そんな彼ら探索者クランだが、一回の探索に掛かる費用も膨大だ。遠征と呼ばれる彼らの探索は、長期間の探索中に物資の不足が無いよう、大量の物資を持ち込んで出立する。遠征は新興クランならば一度の失敗で路頭に迷う、大手でも二回の失敗には耐えらないと言われる程の投資を必要とする大事業で、当然計画的な実施が望まれる。


 だと言うのに、これはどう言う訳か。


 ヴァルナルは昨日に続いて商品がほとんど無くなってしまった陳列棚に、現実とは魔訶不可思議なものだという気持ちを抑え切れなかった。


 どうも、とある新興クランの団長と昨日商品を買い込んで行った大手クランの団長との間に確執があったらしい。その新興クランの団長は(くだん)の大手クランに対抗して即座に遠征を決定したというのだ。


 遠征は決して思い付きで進める類いの話ではないのに、それを強引に推し進めるとは、一体どれ程の確執なのやら。


 だが、お蔭でまたもや強化(ブースト)薬は大売れ、ヴァルナルの魔導具屋は大繁盛だ。連日これ程の売上を出すのは初めてのことで、昨日頑張って用意した甲斐もあったと言うものだとヴァルナルはついにんまりとしてしまう。


 今日は奮発して少し良い夕食を食べに行こう。今日くらいは、この(ささ)やかな幸せを噛み締めてもいいだろう。


 そう決めて、採集鞄と外套を引っ掴み、護身用の長剣と鉄槍を帯びる。そうして普段より早く閉店すると、ヴァルナルは意気揚々と遺跡へ向かった。


 ――だがしかし。その喜びはすぐに消え失せることになる。




 足取り軽く歩を進めるヴァルナルは、すぐに「森」の二階から三階への階段へと辿り着いた。昨日出会ったこともあり、ふと脳裏に思い浮かぶのはあの青髪の童女のことだ。


(今日は会わなかったな)


 ヴァルナルがアイナと出会うのはいつも二階で、三階には近付くなと昨日忠告したばかり。第一界層は鬱蒼と茂った木々に覆われているので視界が悪く、気付かず()れ違うことも間々あることだった。同じ階で採取してるならともかく、素通りしていれば会う機会も少ないはずだ。


(……流石に、昨日の今日で三階へ向かったということもないだろう)


 そんなことを考えたのは、意識しないくらいの小さな違和感に気付いたからか。


 三階への階段に足を踏み出すと、顔の、手の、首の――剥き出しになった皮膚にぞわっとした不快感が突き刺し、全身が鳥肌立つ。


 ヴァルナルは警戒し、耳をそばだてる。こつ、こつと、石作りの階段に足音が反響し、やけに(やかま)しい。


 一歩、一歩と足を進める(ごと)に悪寒は増していく。


 流れて来る風から、(かす)かな死の(にお)いが混じり出し。


 そして、静寂(せいじゃく)に小さく、(むさぼ)るような、(すす)るような音が入って来た。


(……ああ、誰かがまた死んでいる)


 最後の一段を降り、踏み固められた地面に立つ。


 撒き散らされたような血の(にお)いが鼻を突いた。


 風上の、血臭の源を見やる。そこでは、ヴァルナルの足音を聞いてか、魔物が警戒するように鎌首を上げた。


 多くの見習いを屠った三階の狩人。人間程もある体躯の、黄色い猫のような魔物が、その口元を赤く濡らしそこに居た。


 その下にある死体は、草木に隠れ見えない。


 魔物は悠然とこちらに顔を向けた。その獲物を誇るように、遅きに失したヴァルナルを(あざけ)るように。


 ――激情がヴァルナルを貫いた。


 熱湯のような血潮に任せるまま、踏み込む。


 (うな)る魔力は靴を通して変換され、ヴァルナルの身体は一気に最高速に達する。


 この程度の距離など、無いようなもの。背を向ける時間も与えない。


 深層の魔物をすら一撃で殺す膂力(りょりょく)(もっ)て、突き出す。


「遅い!」


 気付いた魔物が飛び跳ねようとするのが見て取れた。


 だが、遅い。そんなもので逃がす訳が無い。


 槍は振り抜かれ、その血に染まった頭を()ぜさせた。


 頭を無くした魔物の肉体は、痙攣して跳ねるように暴れた。


 ヴァルナルは草木を掻き分け、魔物だった物を蹴り飛ばす。


 魔物の下から現れたその死体は、小柄だった。


 背丈はヴァルナルの胸までも無いだろう。痩せぎすで、肉付きが良くなかった。


 腹から(はらわた)がはみ出し、流れ出した命の雫が地面を真っ赤に染め。


 血色(けっしょく)の無い死相に添えた青い髪が、真っ赤な血と対比を成していた。



 ――その少女の名を、アイナと言う。



(死んだか…………いや、これは……)


 童女の身体はまだ暖かく、血が流れ続けていた。(はらわた)を食われ、これだけ血を流していれば一見すると死んでいるようにしか見えない。だが、まだ血が流れているなら。もしかすると。もしかすると、まだ生きている可能性がある。


 その確率は、五分五分も無いはずだ。アイナは辛うじてすら生きていない。ほぼ死んでいると言っていい。


 だが、ここにヴァルナルが居合わせてしまった。


「<解錠>」


 ズボンから取り出した銀色のペンダント――収納の魔導具を地に置き、解く。現れたのは一つの小さな薬瓶だった。


 探索者の義務は、拾える命を見捨てることを許さない。ほんの一握りの可能性であっても、それは同じ。


 ヴァルナルはその薬瓶を手に取り、封を開け――


「とっておきの上級回復薬だ。死んでたら、末期の酒ってことでくれてやる」


 ――薬瓶の中身を童女の傷口にぶち撒けた。


 上級回復薬。それは四肢の欠損をも癒す、回復薬の王様。それ一つと引き換えに帝都に豪邸を建てた逸話すらある値打ち物。それ自体の代金より入手する伝手を用意する方が金が掛かると言われる希少品。ほとんどの回復薬職人がその作成を夢見る、回復薬職人の到達点。


 死んでいたら、返礼の義務もない。末期の酒には少しばかり勿体無いが。


(……これは感傷だな)


 上級回復薬なんて普通は持っていない。使わなかった所で疑われることも無いだろうが、見ぬ振りをするには少しばかり関わり過ぎた。


 小瓶の回復薬を最後の雫まで掛け終えて、一つ、二つと時間が過ぎる。しかし、反応は無い。駄目だったのだろうか。


(……いや、これは)


 傷口から、うっすらと蒸気が見え、続いてじくじくと奥の方が動く。少しして、ゆっくりと(はらわた)が腹に引きずり込まれ仕舞われた。


 死体に回復薬を掛けても何も起こらない。傷が治ったということはつまり、アイナは生きているということだ。


「悪運の強い奴だよ、お前さん」


 無謀にも三階へ足を踏み入れ、死んでいると見間違える程の傷を負いながらも生還するとは。これまでもそうだ。何度も死にそうになりながらも、その度にヴァルナルに救われアイナは命を長らえている。


 本当に、何と悪運の強い奴だろう。おかしくて不思議でヴァルナルは(わら)った。




   ◆




 息を吹き返したアイナを担ぎ、ヴァルナルは遺跡を出た。その足で向かう先は、遺跡前の衛兵詰所だ。


「審議官殿に一筆頼みたい」


「ああ、こちらへ」


 すれ違う人と言う人が、血塗れのアイナにギョッとしては通り過ぎて行く。そんな視線を見ない振りをしつつ、ヴァルナルは案内の衛兵に付いて行った。


 通された一室には審議官始め三名が控えており、同じように吃驚(びっくり)した顔を浮かべるが、すぐに対面の椅子へと促された。


 審議官の側の者に催促され、銀貨数枚を差し出す。そして、ヴァルナルは証明して欲しい文言を繰り出した。


「私ヴァルナルは、奴隷アイナが命の危機にあったため、探索者の義務に則り上級回復薬を使用した」


 審議官達が息を飲む。まず手に入らない高価な希少品をただの奴隷に使ったのだ。その驚きも筆舌に尽くし難いと言った所だろう。


「ほう、何と剛毅な。……失礼。この者、ヴァルナルは、探索者の義務に則り、命の危機にあった奴隷アイナへ上級回復薬を使用した。その事実に相違無いことを審議官イェルク・ブフナーがここに証明する」


 審議官の証明は賠償請求や身の潔癖を証明する際に効力を発揮する。審議官は魔導具を使って嘘か真かを判断するので、審議官の証明する内容は全て事実だ。


 その言葉に、はっとしたように審議官の横の二人が紙へと筆を走らせる。


 そして各々(おのおの)が書き終えた文書を審議官に渡すと、審議官は内容を改め自ら印章を押し、その片方をヴァルナルに差し出した。


「では、こちらを」


「感謝する、審議官殿」


 受け取り礼を言うと、ヴァルナルはすぐに身を(ひるがえ)し衛兵詰所を辞した。次に向かうのは、アイナの主人の元だ。


 フレオヴォルフに聞いた言葉を頼りに、レンナルツ通りで回復薬屋を探す。レンナルツ通り自体が小さな通りということもあって、その店はすぐに見付かった。


「いらっしゃ……」


 店の敷居を(また)いですぐ、担いだアイナに目を向けた店主の男が(しか)(つら)をする。その顔は血塗れのアイナを気遣(きづか)う顔では無い。来たのが客でなかったからか、(ある)いはアイナ自体に良い思いを抱いていなかったからか。


 ヴァルナルは単刀直入に切り出した。


「探索者の義務に則り、命の危機にあった奴隷アイナに上級回復薬を使用した。その主人に返礼義務の履行を求める。……これが審議官の証明書だ」


「なんだと!」


 審議官の証明書を手渡すヴァルナル。回復薬屋の店主はその文書を引っ手繰(たく)るようにして奪い取り目を通した。


 探索者の義務に付随して、救われた側にも返礼の義務が生じる。命を救う際に要した物品があれば、同じ物を用意して渡すか、()しくは同等相当額を(もっ)て返礼しなければならないというのは、遺跡に関わる者にとっての常識だった。


 とは言え、上級回復薬なんて高価な品を返せと言われるとは思うまい。


 ヴァルナルは店に並ぶ商品に目を向けた。低級回復薬から、毒消し薬、麻痺回復薬、とありきたりだ。奥の飾り棚に飾ってある中級回復薬がこの店の一番の品なのだろう。


「そんなもん返せるか!」


「……返礼の義務を拒否するのか」


 審議官の文書をカウンターに叩き付けた回復薬屋の店主に、「そんなことをすればどうなるか分かっているだろうな」とヴァルナルは言葉の裏に含ませる。


 探索者ギルドは、義務を破った者には容赦しない。商売ギルドは商売人同士を仲介はするが、矢面に立って守ってくれることは無い。商売を続けることが出来なくなる所か、命すら(おびや)かされることになるのだ。


 並ぶ商品を見る限りこの店主が上級回復薬を作れるとは思えないが、回復薬屋同士の横の繋がりはあるだろう。探索者ギルドを敵に回すよりは少しの無理をしてでも手に入れるべきだとヴァルナルは思っていた。


 だが、そんなヴァルナルの思惑とは裏腹に、回復薬屋の店主はおもむろに近付くとアイナの首輪に手を掛ける。


「それは、こいつが俺の奴隷だったらの話だろ? <使役者契約解除>」


「なっ」


「これで、こいつは俺の奴隷じゃない。探索者の義務はこいつが返せばいい」


 回復薬屋店主は得意気に嘲笑を浮かべた。返礼義務があくまで助けられた者のみに発生する事を逆手にとり、奴隷契約を解いたのだ。


 命を救われたが、その返礼義務によって大きな負債を背負ってしまう探索者と言うのも中にはいる。しかしながら探索者の理念は相互扶助。困難へと共に立ち向かう探索者パーティは運命共同体として堅い結束を必要とされる。その内の一人が負債を抱えたとしても、パーティの全員が協力し合いながらその負債を返済し、遺跡探索を続けていくのだ。そうした経験が互いへの信頼を育むため、むしろそうした経験は大成するために絶対に必要だと語るベテラン探索者すらいるくらいだ。


 だが、それでも中には負債を背負った者を見捨てる悪辣な探索者パーティもある。そんなパーティは互いを信頼し切れないので結束が(もろ)く、ちょっとした障害にぶつかっただけ簡単に瓦解してしまう。そして何より、仲間を裏切った者を探索者は信頼しない。信頼出来ない者に背を預けられるはずもないので、まともな探索者はそんな者達と誰も組まない。見捨てた所で良いことなど何もないのだ。


 そんなことは簡単に分かりそうなものなのに、それでもそういう悪辣なパーティは無くならない。そして、この店主もそれと同じ類いの人間なのだろう。


「……ギルドには報告させて貰う」


「好きにすればいい。奴隷なんかのために取り合うとも思えねえがな」


 ギルドが取り合うかどうかが問題ではない。噂が広まればそれで詰むと何故分からないのか。


 仲間を裏切る悪辣な探索者パーティと同じことをしたと知られれば、探索者の信頼を失うのは自明だと言うのに。探索者を相手に商売をしているのに、その探索者の信頼を失えばどうなるか分からないのだろうか。信頼出来ない相手が作った回復薬に、一体誰が命を預けると言うのか。


 だが、それをこの場で指摘はしない。それ程ヴァルナルは親切ではないし、意趣返しの意味合いもある。


「そうか。邪魔したな」


 上級回復薬は返って来なかったが、まあいい。元々捨てるつもりで使ったものだ。代わりに手に入ったアイナを抱え、ヴァルナルは足早に回復薬屋を後にした。




 店に帰り着いたときには、もう昼飯時になっていた。


 担いでいたアイナを下ろすが、アイナは眠ったままだ。そのまま眠らせておきたい所だが、そのまま寝かせるには血で汚れ過ぎている。


 取り敢えず、その血塗れの服を(めく)り上げ、腹の傷があった所の様子を見る。傷は綺麗に治っており、血の跡さえなければ(はらわた)を食われていたことなど分からない。


 どうせもう着られないだろうと血が乾いてしまったせいで脱がし辛い服をナイフで切り裂き()ぎ取ると、血糊を布で水拭(みずぶ)きしてやる。綺麗な肌の上にある血の塊を取るのはそう大変なことではなく、ぽろぽろと簡単に落ちて行った。


 そうして腹を拭き、背中を拭き、最後に赤黒くなった青髪を拭いてやることにした。こちらは肌とは違い落とし辛そうだったので多めに水を含ませ(ぬぐ)ってやる。頭の天辺の方から下に向かって、生え際から少しずつ解きほぐしてやる。


「ん?」


 そうやってじっくりと触らなければその違和感には気付かなかっただろう。


 アイナの髪は肩までぎりぎり届くか届かないか、それくらいの長さだ。それなのに、肩より先の部分に布が通った。


「あり得ない」


 触ってる感触は無い。そんな長さの髪の毛はどこにも無い。それなのに、実際に髪はある。


 ヴァルナルには思い浮かぶ答えがある。だが、そんなはずは無い。それは、全く彼女に似つかわしくない。


「馬鹿な、何故。何だこれは。幻術……それに加えて認識阻害だと」


 それは、奇跡の現出たる魔術の一種。


 姿を書き換える<幻術>の魔術と触れた者を騙す<認識阻害>の魔術が掛かっているとしか思えなかった。


 だが、それは奴隷の童女に出来るような簡単なモノじゃない。だとすれば、その魔術を作り上げる魔導具をどこかに持っている筈だ。


 しかし、そんな物を彼女はどうやって手に入れたのか。そして、何故姿を偽っているのか。


「一体どうなっている」


 (いぶか)しむヴァルナルに、童女は答えない。


 疑問は尽きないが、その元凶は眠り姫。今は起きるのを待つ他ない。


 ヴァルナルは乱暴に頭を掻き(むし)る。


「クソッ、訳が分からん」


 適当なシャツをアイナに被せてベッドに放り込むと、ヴァルナルはもう一度遺跡へと向かうことにした。


 既に予定より大分時間を使っている。ムシャクシャした感情を発散させる意味でも遺跡へ行くのは悪くない。そうしてヴァルナルは大急ぎで遺跡へと繰り出した。




   ◆




 その日、ヴァルナルが帰って来ても眠り続けていたアイナは、そのままヴァルナルの魔導具屋兼家で唯一のベッドを占拠し続けた。仕方無く居間の椅子を並べて寝たヴァルナルは、まだ日が昇る前に小さな物音に気付き目覚めた。


「ようやく起きたか」


 そこに居たのはアイナだ。男物の大きなシャツ一枚を被り、呆然と突っ立っていた。その目はまだあの世を見ているようで、焦点が覚束(おぼつか)ない。


「ここはどこ、ですか?」


 状況が分からないからか、普段ヴァルナルとの会話で使わない敬語を使うアイナ。


「俺の家だ」


 ヴァルナルの答えに、童女は身体を震わせ自らの身体を()(すく)めた。


 その顔に浮かぶのは、絶望だ。


「……わたしは、死んだとおもったのに。ぜんぶ終わったって、そう思ったのに」


 涙がアイナの瞳から流れ出し、ぽた、ぽたと頬を伝って床に落ちる。


 今まで必死に押し留めてきた感情が、(こら)え切れなくなったのか。その涙を始まりに、アイナは感情を決壊させ、(むせ)び泣いた。


 その悄然(しょうぜん)とした姿は、見るに()えない。


 苦しい生が続く辛さを、この小さな女の子は身に染みる程感じているのだ。生きていることを悲しまなければならないなんて、これまで彼女はどれだけ残酷な生を歩んで来たのか。一体これまでこの世界はどれだけ彼女を苦しめて来たのか。


 (たま)らず、ヴァルナルはアイナを抱きしめていた。湧き出すように嗚咽(おえつ)を漏らすアイナの背を、何も言わず、何も言えず。大丈夫、大丈夫、と念を込めて、童女が落ち着くまで只々(ただただ)、泣く彼女の背を優しく撫で続けた。




 抱き締め続け、どれだけ時間が経っただろうか。真っ暗だった部屋に朝日が差し込んでいることにヴァルナルは気付いた。アイナは(しばら)く前に泣き止んでいたが、何も言わずされるがままになっていた。


 身体を引き離してアイナの様子を見る。涙の跡が目元や頬に残っていたので、ヴァルナルはその顔をハンカチで軽く(ぬぐ)ってやった。


「落ち着いたか」


 アイナはこくりと頷いた。真っ直ぐにヴァルナルへ向けられた瞳には、先程とは違いはっきりとした理知の色が宿っている。


 取り敢えずは落ち着いたと見て取ったヴァルナルは、アイナを椅子に掛けさせ話を切り出した。


「じゃあ、現状の確認からしておくぞ。お前さんは遺跡の三階で魔物に襲われて死に掛けていた。そこまでは覚えているか?」


「……はい」


 少し思案した後、アイナは小さな声で答えた。まあ思い出したくはないよな、と思いながらヴァルナルは続ける。


「で、何で三階にいた? 三階に行っても死ぬだけだって教えただろう」


「……三階にしかはえてない毒消し草をとってこいって言われたから。まえの日は持っていかなかったから、夕ごはんぬきだったの。だから」


「……なるほどな。分かった、もういい」


 アイナの答えにヴァルナルは納得する。あの回復薬屋の店主ならそれくらいやってもおかしく無い。そう簡単に信じられた。


「で、だ。その後のお前が寝てる間の話だが、俺が偶々(たまたま)通り掛かってお前を助けた。それからレンナルツ通りの回復薬屋へ行って返礼を要求したが、お前の使役者契約を解除して断られた。だから、お前の今の主人は俺だ」


 首輪を触って名前を言うだけの簡単なものなので、アイナが寝ている間に使役者契約の登録は済ませている。だから、アイナの主人はヴァルナルになっていた。


「わかりました。……ご主人さま」


 少し言い(よど)みつつ、頭を下げるアイナ。これまでの気安い彼女はそこに居なかった。主にはそうせよとでも言い付けられていたのだろうが、どうも調子が狂う。


「あー、そんな畏まった態度は要らん。敬語は……まあ、人前だけ気を付けていればそれでいい。堅っ苦しいのは嫌いだ」


「えっ……でも、ご主人さまはえらいから、こうしなきゃ駄目って」


「これまではそうだったかも知れんが、ここでは必要無い。そう思え」


「わかり……わかった、ご主人さま」


「ああ、それでいい」


 言うことを聞いた彼女の頭をがしがしと撫でてやる。アイナは呆然とされるがままにヴァルナルの手を受け入れていた。


「それじゃあ次は身体の様子だな。死に掛けた訳だが、身体でおかしい所は無いか」


 そうヴァルナルが言うと、アイナはまず首を触り、次に腹、顔、二の腕、脹脛(ふくらはぎ)と全身を(くま)なく確認していった。


「うん、だいじょうぶ」


「そうか、ならいい」


 これは想定通りだ。上級回復薬が効果を表した時点で傷は全て()えているはずだ。だが、彼女は一つだけヴァルナルの想定外の物――<幻術>と<認識阻害>を発現している魔導具を持っている。上級回復薬の効果に影響を及ぼすとも思えないが、魔導具には回復を阻害する類いの物も存在する。あくまで念のためだが、確認は必要だった。


「それで本題だが。どこかに魔導具を付けていないか?」


 びくり、とアイナは震えた。その顔には(おび)えがある。


「どこにある?」


「え……あっ……」


 胸の前で手を握り締め、言葉にならない声を漏らすアイナ。


「ごめん、なさい。言えません」


「言いたくないか。強制命令を使われたいか?」


 強制命令を出されると、奴隷はその命令を拒否出来ない。どれだけ渋ろうと、強制命令の前では奴隷の抵抗など無力だ。


 しかし、アイナは首を横に振った。


「言いたくない、わけじゃない。言えない。そう、なってる」


「……よりにもよって<禁止>まで付けるか」


 魔導具に刻み込む術式の一つ、<禁止>は文字通り行動を縛る。その効果によって、アイナは魔導具の場所を他者に教えることを禁じられているのだろう。


 そして、<禁止>の魔導具を自ら身に着ける者はいない。<禁止>が使われるのは聞き分けの無い子供の教育用か、或いは誰かを貶めるために用いられるかくらいで、アイナの場合は明らかに後者。つまり、誰かに貶められたのだとしか考えられない。


「<幻術><認識阻害>に<禁止>と最低三つか。()せないな、人を貶めるには手が込み過ぎている」


 それだけでどれだけの費用が必要か。装身具として身に着ける魔導具は使い捨てる物ではないと言うのに。


「まあいい。方法はあるからな」


 仕事道具の中から、魔力を見るレンズを取り出す。魔力の流れさえ見れば、どこに魔導具が付けているかなんて簡単に見付けられる。


「動くなよ、じっとしてろ」


 レンズを目に当て、手、足、首、耳順番に他の場所を見て行く。一般的に魔導具を身に着ける箇所は限られているので、その場所さえ見ればいい。――そのはずだった。


「……無い、だと。いや、馬鹿な。そんなはずはない!」


 だが、そのいずれの箇所にも魔導具が見付けられなかったのは事実だ。


 首には隷属の首輪があるのでまず候補から外していい。残る場所は手、足、耳だが、手足はその指先から四肢の付け根までを、そして両耳は裏表までをじっくりと調べるが、どこにも無い。


「手、足、耳のどこかにあるはずだ。それ以外の場所では魔導具を使えな……くはない。……そうだ、例外はある」


 有名な義眼の魔導具。その理屈はどうだったか。眼窩(がんか)は本来、魔導具を使う場所ではない。あの有名な例だと、潰れた瞳を取り除き、残った神経に魔導具を繋げ――。


「……そうか、繋げたのか。どこかの神経に直接、繋げたのか」


 ああ、そうだ。それしかない。通りで見つからないはずだ。身体を傷付け、神経を穿(ほじく)り出して魔導具と繋ぐ。尋常な手段ではないが、それなら全身どこでも魔導具を取り付けられる。


 ヴァルナルは改めてアイナの身体を探った。今度は普通魔導具を付けない箇所を重点的に。両目を開き、口を開けさせ――そして、それは見付かった。


「舌か。それも、貫通させているとはな」


 アイナの舌の中程に魔力が集まっていた。<幻術>の効果だろう、レンズを外せば舌以外には何も見えない。


 随分手古摺(てこず)らせてくれたが、場所さえ分かればこっちのものだ。


「これを飲め」


 魔力を消す薬を取り出し、水と一緒にアイナへ手渡す。


 この魔導具の場所を言えないように、アイナは自ら魔導具への魔力供給を止めることが出来ないはずだ。しかし、アイナ自身の魔力が無くなれば、魔導具はその奇跡を発現出来なくなる。


 だが、その説明はしない。アイナの<禁止>に抵触すれば、手間取るのが目に見えていたからだ。


 アイナは恐る恐るヴァルナルに差し出された薬を取り、飲み込んだ。


 変化はすぐに訪れた。


 特徴的だった青髪が実る稲穂のような金色になり、肩にまで届か無かった後ろ髪の先端がアイナの身体の後ろに隠れてしまい。没個性的だった顔は目鼻口の位置が少しずつ変わってバランス良く整えられ。真横へと伸びていた目元が少し垂れ下がり、黒く(つぶ)らな瞳の下からは一回り大きい翡翠のような濃緑(こみどり)の瞳が現れる。


 大人物の大き過ぎるシャツを被ってるだけだというのに、その佇まいにはとても奴隷と思えない高貴さがあった。


 切り替わったその姿に、どこかで見たような、会ったような既視感をヴァルナルは覚えた。


(魔導具屋を構えてからじゃあない。もっと昔……兄さんが生きていた頃、探索者をしつつも貴族としての生き方を諦め切れなかった頃に連れて行かれたパーティで。……あれは何の会だったか。場所は、あの大きな会場は北部公の屋敷のはず、そこでお披露目として出て来てた幼い少女の姿に似ている。確か、名は――)


「テレ―シア、様?」


 先程までアイナと呼んでいたその童女は、その名を聞いてびくっと飛び上がるように大きく驚いた。


「ああ、そうだ。テレ―シア。テレーシア・ヴァレンクヴィスト。ヴァレンクヴィスト公爵の一人娘。北部貴族の盟主の姫君」


「なぜ。わたしの名前を知ってるの……?」


「当たりか。……ああ、いや、大した理由は無い。ただの貴族崩れだというだけだ。君のお披露目に辛うじて呼ばれた程度のな。それよりむしろ、こちらが聞きたい。何故北部公の姫ともあろう君がここにいる」


 ヴァレンクヴィスト公爵家はこの帝国に三つしかない公爵位を持つ大貴族だ。その歴史は初代皇帝の子として公爵位を授けられたことに始まり、古くより幾度と無く王家の姫の降嫁を許され、その高貴な血を取り込み続けている名家中の名家だ。


 現在は北部の盟主として北部貴族を取り(まと)めているが、その強大な影響力は国政さえも大きく左右する。


 彼女はそのヴァレンクヴィスト公爵家の一人娘、テレーシア・ヴァレンクヴィスト。こんな掃き溜めに居て良い人物では断じてない。


 だが、実際に、あり得ないことに、彼女はこうしてヴァルナルの前に居る。栄光を(ほしいまま)にする高位貴族から奴隷へと身を(やつ)してここに居るのだ。


「――ルーカス兄上に、してやられた」


 先程までアイナだった少女は、その一言を皮切りにとつとつと語り始めた。


「たぶん二ヵ月か三ヵ月か前だと思う。おきたら知らない部屋にいた。眠ってるあいだに兄上の臣下にさらわれて、その屋敷に連れてこられたみたい。そこで、この魔導具ですがたを変えられて、一ヵ月くらい前に奴隷として売られたの」


 無表情で、淡々と事実のみを話すテレ―シア。そこに感情は(こも)っていない。


「兄上は、わたしが嫌いだったんだって。捕まったわたしを見て、笑いながら何度もぶつの。『昔からおまえが嫌いだった、鬱陶(うっとう)しかった』とか『僕を苦しませた分、おまえを苦しませてやる』とか言いながら」


 テレ―シアは冷ややかに笑う。重い過去を話しているというのに、それはまるで当事者ではなく傍観者のよう。


「奴隷商に売られたあとは、そのままこの都市につれてこられたの。わたしは力がよわくて役立たずだからって安い値段で売られたよ。そのあとは、知ってのとおり。回復薬屋でこき使われてた」


「……そうか」


 ヴァルナルは目を(つむ)り思案する。それが事実だとすれば、彼女は実の兄に裏切られ、奴隷へと落とされたということだ。その衝撃が酷いものだったろうことは想像に(かた)くない。


「事情は分かった。とは言え、薬の効果時間も限られている。一先(ひとま)ずそれは置いておいて、薬の効果が切れる前に魔導具を外すぞ」


 知りたかったことは知れたと次の話題に切り替えながら、ヴァルナルは考える。テレ―シアはどう考えているのか。復讐したいのか、それとも諦めたのか。


「ん。わかった」


 はいっ、とテレ―シアは口を開く。魔力が通わなくなり<幻術>の効果が切れたお蔭で、ようやく魔導具が目で見えるようになった。その魔導具はその舌の中心辺りを貫通して取り付けられており、上下両方の先端部分に赤黒い核が鎮座していた。


 どうやって取り付けているのか、と観察すると軸の部分に螺子の溝が見えたので、回転させてやる。思った通り簡単に動いたが、テレ―シアの舌から血が滴り落ちる。肉を抉り神経に繋げていたからだろう。


「少し我慢しろ」


「ん」


 童女は涙目で喉の奥から声を出した。出来るだけ苦しめないよう急いで魔導具を取り外すと、ヴァルナルは用意していた小瓶をテレ―シアに差し出した。


「中級回復薬だ。飲め」


「……いいの?」


 中級回復薬の価値を知っているのかは知らないが、口に血が溜まり喋り辛そうにしながらもテレ―シアは躊躇した。とは言え、ヴァルナルにとっては探索者時代に買い溜めしたものの余りでしかない。中級回復薬は随分と余分に抱えているので、それが一本減った所でさして気にはならなかった。


「構わん」


「もしかして、おかねもち?」


「……いいから飲め」


 下らないことを言うテレ―シアが瓶に口を付けたのを確認すると、ヴァルナルは取り外した魔導具に意識を移した。核は上下二つずつ、地金は魔蝕(ましょく)銀で出来ていた。


 レンズを手に取り、まず上の核から術式を覗き見る。作動するかどうかを考えずその効果だけを見るならそれ程時間は掛からない。すぐに読み終えると、続いて下の核に持ち替えざっと読み解く。


 刻まれていた術式は上下それぞれ二つずつ。上には<幻術>と<認識阻害>、下には<禁止>と<発信>だ。<幻術>は姿形を偽るもので、<認識阻害>は触覚を騙すもの。この二つがテレ―シアをアイナへと変身させていた魔術だ。続いて<禁止>は行動の制限を掛けるもので、<発信>は位置情報を対になる<受信>の魔導具を持つ者に知らせるものだ。


(<幻術>と<認識阻害>、<禁止>は予想通りだが、<発信>か。逃亡に備えてか? いずれにせよ不穏だな)


 ヴァルナルは思考しつつ魔導具を手の先で弄ぶ。それにしても、随分と変な構造の魔導具だ。わざわざ舌に穴を開けて付けているのもそうだが、核が二つと言うのも常道から外れている。これだけ近くの場所に核を複数配置すると、使いたい核とは別の核に魔力が流れ込んで誤作動や不発などの不具合が生じることもあるはずだ。恐らく金を惜しんだのだろうが、随分と杜撰な魔導具だ。


 と、そこまで考えて、「ああ、そうか」と今まで忘れていた一つの出来事を思い出す。


 それは冬の終わり頃、()れ違った荷馬車にいた奴隷が一瞬だけ別人に見えたことだ。あれが彼女だったとしたら得心が行く。何らかの理由で下の核に魔力が流れて、一瞬だけ上の核にある<幻術>への魔力供給が途切れたのだ。あの出来事は見間違いではなかったのだとヴァルナルは今更ながらに確信した。


 なるほどなと一つ納得すると、ヴァルナルの思考は更にこの不可思議な魔導具について読み解こうと走り出す。


(……確かに欠陥はあるが、敢えてその欠陥に目を(つむ)るなら、一つの核に四つの術式を入れるよりは大幅に安価となる。もし四つの術式が入る核があるなら、使い捨てにするよりは自分で持っておいた方がいい。そう考えると費用対効果的な意味合いでは良い線を行っているのか。とすると……)


 ヴァルナルはの頭は暴走するように考察する。それを呼び戻したのは、ことり、と硝子瓶が机に置かれる音だった。


「……どうだ、治ったか」


「うん。ちゃんと穴はふさがった。ありがとう、ご主人さま」


 目を向けると、「あん」とテレ―シアは口を開いて見せる。確かに、魔導具が通っていた場所はすっかり(ふさ)がっていた。


「ならいい」


「ん」


「それで、これからお前はどうする?」


 ヴァルナルは先程気になったことを聞いてみる。その返答如何(いかん)によっては、彼女の扱いも考えなければならない。


「……とくに考えてない。わたしは奴隷だから、ご主人さまに逆らえないし」


 つまり、何かをしたいと言う強い意志は持っていないということか。


(……方向性が決まっていないと言うのは悪くない)


 ヴァルナルは忘れていた野心が疼くのを感じていた。


 貴族として生きるのを諦めかけていたヴァルナルの手元に、何の因果か北部公の姫と言う強力なカードが配られてきたのだ。


 このカードの切り方次第では、多少の栄達なんてものじゃない。上手くすればヴァルナルが北部公に成り代わり、ヴァレンクヴィスト公爵の権力を手に入れることだって可能なのだ。


 もし彼女の出がただの平民なら、きっと奴隷として使うだけだった。だが、知ってしまった。気付いてしまった。なら、どうするかなんて決まっている。


 ヴァルナルは悪党らしくにやりと笑う。


「なあ、テレ―シア。家に帰りたくはないか?」


 テレ―シアは驚きに目を見張る。何を言っているのか信じ難いとヴァルナルを見詰め返す。


「お前のあるべき居場所に帰りたくはないか。あるべき未来を取り戻したくはないか。苦難を与えた仇敵(きゅうてき)に目にもの見せてやりたくはないか」


 きっとテレ―シアは家に戻りたいはずだ。戻れる方法があるなら、それがどんなものであれ(すが)り付きたいはずだ。


 なら、その背を押してやればいい。


「取引をしよう、テレ―シア。俺がお前を家に帰してやる。その代わり、お前は北部公の権力を簒奪(さんだつ)し、その全てを差し出せ」


 大仰に手を広げるヴァルナル。酷い取引だ。まともな人間は絶対に受けないだろう。


 だが、それなら(そそのか)せばいい。受けざるを得ないように追い込めばいい。丁度都合良く、彼女は過酷な環境に追いやられ、弱っている。


「……権力の簒奪(さんだつ)なんて、むり。わたしには対価をさし出せない」


 テレ―シアは静かに首を振る。その座には届かないとでも考えたのだろう。顔には諦観がある。


 だが、その程度で諦めさせる気はヴァルナルには無い。


 無理だと思う? なら、可能だと思い込ませてやればいい。


「いいや無理じゃない。手段を気にしているなら、そこはお前が考える必要は無い。お前が考えるのは頷くかどうか、それだけだ。頷けば、後は俺が万事取り計らう」


 お前が知らないだけで、俺にはその手段があるのだと。一欠片も失敗など信じていないと自信満々に、それでいて不敵に、ヴァルナルは(わら)った。


「……もし、うなづかなかったら?」


「そのときはお前は奴隷のままだ。一生そこから抜け出せない。それは頷かなくても同じだ」


 こう言えば否は選べないだろう、テレ―シア? これは脅迫なんだ。もし否と言えばどれだけ無情な未来が待ち受けているか、これまで悲惨な奴隷生活を送って来たお前にはよく分かるだろう?


「とは言え、これはお前が奴隷から抜け出す最後の機会じゃないかも知れない。もしかしたら。もしかしたらこの取引に乗らずとも、誰かがお前を奴隷の身分から救い出してくれるかも知れない」


 それがどれ程低い確率かは分からないが、可能性が全く無い訳では無いだろう。偶然善人と出会い、その善人が助けてくれると言う奇跡が起こる可能性はある。


 だけれども。


「だが、お前はそれまで待つのか? 人の(みにく)い面ばかり見て来たお前が、人の善意を信じて待てるのか?」


 出来るはずがない。そうだろう? 人の汚さに打ち(ひし)がれてきた少女に、耐えられる訳がない。


「想像してみるといい。信じて裏切られる自分の姿を。誰も助けてくれない日々を」


 テレ―シアはぶるっと震えた。これまでの数ヶ月が実際にそうだったのだ、想像するのは容易だろう。


「どうするテレ―シア? 是か非か。乗るか反るか、頷くか頷かないか。選べ」


 ここまで言って、それでも奴隷のままで居続けると言うのなら、ヴァルナルは野望を諦めるしかない。貴族令嬢に戻ったとき、隷属の首輪を外したときに言うことを聞かない手駒なんてヴァルナルには使い(こな)せない。


 だが、テレ―シアが頷くなら。まずは責任を持ってテレ―シアを帰宅させてやろう。


 そして、晴れてテレ―シアはヴァルナルの傀儡(かいらい)となる。隷属の首輪は外れても、籠の鳥になるだけでその在り方は奴隷と変わらない。ヴァルナルの望み通り、テレ―シアは北部公の権力を手に入れるための道具として生きて行くことになる。


 しかし、傀儡(かいらい)だろうと何だろうと、奴隷から抜け出し元の生活に戻るという誘惑に、果たしてこの小さな童女が(あらが)えるだろうか。


「頷くなら。俺は全力でお前を家に帰してやる。だが、頷かないなら。もう二度とこの話は無いと思え」


 これは最後通告だ。そう脅してやる。


 テレ―シアは目に見えて狼狽した。その瞳は涙で僅かに(うる)んでいる。


「わ……わかった。のる。あの家の全部、あなたにあげる。だから、助けて。もう、奴隷は、いやなの……」


 意を決したように、テレ―シアはヴァルナルの望んだ言葉を絞り出した。


 思い通りに進み、ヴァルナルは(わら)う。


「いいだろう。取引成立だ、テレ―シア」


 ヴァルナルが差し出した手を、テレ―シアは怯えながら握る。


 ヴァルナルの半分程も無い小さな手は僅かに震えていた。


 ――なんて卑劣で、悪辣な取引だ。


 ――これだけ小さな童女を脅して、騙して。貴族としての誇りは無いのか。


(黙れ!)


 その手を触った瞬間聞こえて来たのは子供のような声だ。ヴァルナルは己の内から聞こえる声に、心の中で一喝する。その声は幼い頃のヴァルナル自身のものか、それとも婚約者だった彼女のものか。どちらにしてもその正義感に満ちた声は今のヴァルナルには度し難かった。


(貴族の誇り? ふざけろ! そんなものが正しかったら、俺はそもそもここには居ない!)


 もうヴァルナルは貴族ですらない。この悪徳の都市に住み着いた悪党の一人なのだ。


 今更、後戻りなんてしない。


 ヴァルナルは既に壊れている。今ここに居るのは「ヴァルナルだった男」の残滓。権力を妄執している、一人の壊れた人間のような何か。


 ヴァルナルにはもう、これしか無いのだ。


「……どうしたの?」


 そんなヴァルナルの葛藤を見て取ったのか、怪訝な顔をしたテレ―シアが顔を覗き込んでいた。ヴァルナルは首を振り、考えを振り払う。


「何でも無い。……いや、そうだな。折角だ、取引成立を祝って今日の夕食くらいは好きな料理を食わせてやる」


「えっ、いいの! じゃあ、じゃあ……んー」


「ああ、言い忘れていたが買って来れる物か簡単に作れる物で頼むぞ。今の姿だと外に出せないからな」


「じゃあ、具がいっぱい入ったスープと、サンドイッチがいい」


「なんだ、そんな物でいいのか。そのくらい毎日でも食わしてやるぞ」


「……ほんとうに?」


「何故そこを疑うのか分からないが、そんなことで嘘は吐かない。……日も登ったことだし、朝食にするか」


 その言葉に答えるように、テレ―シアがくぅと腹を鳴らせた。


「はははっ、お前の腹は正直だな」


 テレ―シアは頬を赤らめ、腹を押さえる。ぷるぷると小刻みに震えているのは恥ずかしいからだろう。その目には意地悪を言うヴァルナルを非難する色が見て取れた。


「悪い悪い、居間はこっちだ、付いて来い」


 その金色の頭を軽く撫でてやり、続いて何気無く彼女の前に手を差し出した。


 テレ―シアはその手をぱちくりと少しばかり見詰めると、すぐにヴァルナルの手に己の手を重ね合わせる。


 握られた手は先程と同じく小さかったが、今度は震えてはおらず。その手は確かな暖かさをヴァルナルに伝えて来た。

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