プロローグ 転落人生
また一本の槍がヴァルナルの手から離れ、名も知らぬ黒竜を地面へと縫い付ける。
竜の口から上がるのは、甲高い悲鳴。
それはまるで悪夢だとでも言うかのよう。
(……ああ、これはあのときの夢だ)
ヴァルナルはその光景を覚えていた。
これは遥か地の底での戦い、その終わり間際のことだ。
(懐かしい。東部戦役の前だから、三年前か)
身体は思うように動かないが、不思議なことに感覚は伝わって来ていた。鋭敏になった肌のせいだろう、空気の動きが手に取るように分かるのだ。
背後の死角の様子までもが察知出来るようになるその状態は、ヴァルナルが極限まで集中したときに感じるもの。
温い戦いしかしていない今では感じなくなって久しいものだった。
(凄い敵だった。触ったらやばそうな黒い力を一面に溢れさせたり、口から打ち出した黒い玉一つで街の一区画くらい消し飛ばしたり。あんな化け物と戦おうとするなんて、本当にあの頃の俺は無茶したもんだ)
能天気な今のヴァルナルに構わず、夢のヴァルナルはその視線を黒竜から外さない。
使った槍はこれで十数本。
背、首、右目、手足と間断なく打ち付けた結果、黒竜は地面で磔になっている。
最早これまでのように飛び回ることなど出来ないのは明らかだった。
(……いや、あの頃は気付かなかったが、今思うと死にたがってたのかも知れないな)
今のヴァルナルがそう考えた、そのとき。
――憤怒。
瞬間、空気が揺らめくほどの猛烈な激情が黒竜から発せられた。
当てられると言うのだろう。ヴァルナルの意識は一瞬で過去に遡り、その戦場に立っていた。
猛る黒竜。
その名は知らないが、帝国の建国伝説で聞く王竜のようなものなのだろう。
遺跡の最奥。四竜に封じられていたそれは、好戦的な暴竜だった。
恐らくはこの遺跡の絶対王者だったのだろう。一目見ただけで四竜を遥かに上回ると確信出来る、威風堂々とした巨竜だった。
その鱗はこれまでこの遺跡で出会ったどの敵よりも堅牢で、迸る力だけで地形を壊すほど破壊の力に満ち満ちており。
その赤い瞳には恐れなど欠片も無く、まるで獲物を見付けたかのようにヴァルナルを嘲笑っていた。
だと言うのに、今や地に臥し、残る一つの目で見上げるばかり。
ヴァルナルは大きく息を吐く。全身の筋肉には心地良い熱が残っていた。
だが、たったそれだけの動きに黒竜は鋼鉄ですら噛み砕けそうな銀歯を剥き出しに唸った。
「……そうか、恐怖を覚えたか」
威嚇。
それは怯えの表れで、その感情はこれまでの黒竜には感じなかったものだ。
もしかしたら、黒竜にとってはでこれだけ一方的に負けるのは初めての経験なのかも知れない。
自分は有効打を与えられず、相手の攻撃は己が鱗を抜き肉に突き刺さるのだ。その恐怖が怒りをすら凌駕したとしてもおかしくはない。
――ヴァルナルは振り返る。黒竜との闘いは楽しかった。
一撃でもまともに受ければ重症は免れない猛撃。それを掻い潜りながら接近し、堅い鱗にどう攻撃を通せばいいかの試行錯誤を続け、鱗を打ち抜く術を見出すとそれを繰り返した。
だが、そのやり方はこれまでの四竜と同じこと。楽しいと言っても謎を解くような楽しさであって、解さえ出れば後はただの作業と変わらない。
本気での闘争を楽しめるほどの敵では無かったと言うことだ。
「……この程度、か」
怒りと恐怖で震える黒竜を見詰める。
享楽の残火から冷め、その心には失望と落胆が浮かび上がっていた。
「グルルルルル……!」
言葉は分からずともその意図は伝わったのだろう。黒竜は一気に怒気を強めた。
そんな黒竜と睨み合いながらヴァルナルは新たな槍を取り出す。そして、握りの確認に軽く振るった。
ひゅんと風切り音が鳴る。四竜討伐に向け気合を入れて量産しただけあって、悪くない感触だった。
ヴァルナルは矛先を死に体の黒竜に向け、構える。
足の魔導具に意識を向けると、その姿勢のまま踏み出す機を図り。
そして――
(今!)
右足の五指が力強く地を掴み、瞬時。ヴァルナルは最高速で黒竜に突っ込んだ。
迎え撃つ黒竜は、ヴァルナルを見失うことなく最期の悪足掻きとばかりに大口を広げる。
素早い反応だった。完全に攻撃を見切っている動きだ。だが、それでもヴァルナルは焦らない。むしろ好機と勢いのままその口の中へと槍を突き出した。
人一人を丸飲みに出来そうな大きな口はしかし、ヴァルナルには届かず。
その下顎は髪を掠め、ヴァルナルの頭の上で閉じられた。
ヴァルナルの槍が先に届き、黒竜の上顎を逸らしたのだ。
内側から脳天を貫かれた黒竜は一瞬びくりと震え。
そして、その大きな頭を地に落とすと動かなくなった。
「……ふぅ」
倒れ込んだ巨竜を脇に、ヴァルナルは一息吐く。瞬間の攻防だった。一瞬遅ければ死んでいたのは己の方だった。
だが、それはこれまでの黒竜との戦いでは常のこと。それを繰り返して来たヴァルナルには失敗する不安など無かった。
残心しつつヴァルナルは辺りを見回す。
これ以上襲い来る敵はおらず、そして、これより先への道は無かった。
「……ここで終わりか」
それまでの激闘が嘘のように、静けさが場を包んだ。
地の遥か底の底。ヴァルナルは遺跡最後の敵を打ち滅ぼした。
だが達成感は無い。終わってしまったことが残念だと物寂しさを感じてすらいる。
勝利。だから何だと言うのだ。
ヴァルナルが本当に欲しかったものは、ここには何も無い。
(むしろ、本当に欲しかった彼女を失ったからこそ、ここに来ることになったんだよな……)
苦い記憶を思い出し、口の中に込み上げて来るものがあり。
その気持ち悪さから、ヴァルナルの意識は一気に夢から浮上した。
◆
遺跡に向かう探索者が全員出発したであろう朝と昼の境目の時間。いつも飛び切り朝の遅い馴染みの客を送り出し、小さな魔導具屋には店主たる一人の男――ヴァルナルただ一人となった。
一つの探索者パーティが入ってくればそれだけで店一杯になるカウンターの向こう側。人が来れば狭いというのがよく分かるのだが、客のいないガランとした店内は実際の空間以上に広々としているような錯覚を感じさせる。
ヴァルナルはカウンターの外に出ると、使い捨ての魔導具が所狭しと並んだ陳列棚を見やる。
商品の残数を数え、減った分だけ用意しなければならないからだ。
(ふむ。概ねいつも通りだな)
客寄せ替わりに作っている、本職でなくても作れる簡単な低級回復薬が二十本完売。
厄介な魔物から逃走する際に投げつける煙幕弾が三本。戦闘中に飲むことで一時的に能力を底上げする強化薬は棚の商品の中では値が張る方だが、今日は偶々一本売れた。
その他は昨日の夕方から売れておらず、変化なし。
総評すると、商品の売れ行きは良くもなく悪くもなく。普段の売り上げと大きな違いは無かった。
在庫確認が終わり、次にヴァルナルは壁に掛けてある筆記版に目を向ける。そこに載っているのは依頼の予定だ。確認の意味も含め、ヴァルナルはそれを声に出して読み上げた。
「えーっと、装身具関係の飛び込みの依頼は無し。新規作成は無しだけど、修理依頼がエーミールさんとライオネルさんとユリアーナさんの三件入ってて、一番早いのがライオネルさんの腕輪で三日後。定期の仕事は、ザッツさんの鍛冶屋への加工素材五十が明日納品。素材の加工は仕上げを後少しだから夜の店番時間の暇な時間で問題無く終わる程度、と。……明日の納品時間を考えると修理の時間が結構ギリギリだな」
ヴァルナルは顎に手を当てて少しばかり予定を考える。
他の探索者を相手にしている店と同じく、ヴァルナルの魔導具屋は探索者の活動時間に合わせて朝と夜に店を開け、昼間は店を閉じている。
昼間は素材採取から魔導具の製造、加工等を行う時間だが、今日は予定が詰まっておりその全てを昼間に終わらせるのは難しい。明日は納品に時間が掛かることを考えると、今日は出来るだけ急いで帰ってきて、夕方の開店前に作業時間を確保したい所だ。
「これは急がないとな」
ヴァルナルは腰に護身用の長剣を、肩に革の採取鞄を掛け、冬用の外套を着込む。向かう先は遺跡の第一界層。遺跡の奥にある転移門を通り抜けた先にある界層で、俗に「森」などと呼ばれている場所だ。
手早く店仕舞いを済ませ外へ出ると、朝昼の混雑する時間を丁度外したのだろう、普段は活気が溢れる大通りさえも人通りは疎らだった。
遺跡までの道すがらいつも通りに昼の昼食用にサンドイッチを買い込むと、採取鞄の中へと包みを放り込んでまた足早に歩いて行く。
道すがら、奴隷商の店が目の片隅に映った。犬のように首輪をさせられた人間が幾人も檻の中に入れられている様子は、見ていて心地良いものでは無い。
奴隷。金で売り買いされる、人の中の最底辺。
自ら何をすることも決められず、その命すら主に使い道を決められ、消費される「物」としての人。
汚らしく、鬱屈としている者達。
とは言え、彼らとてそうなりたくてなった訳ではないだろう。
借金の形か、あるいは食う物に困り売られたか。何れにせよ、已むに已まれぬ事情があったはずだ。
(……だが、俺もそう変わらない)
ヴァルナルは自然と俯き、その目は己の掌へと向かう。奴隷でこそ無いが、魔導具屋になりたくてなった訳ではない。本当に欲しかった人は手に入らず、流れ流され生きてきた。
――ヴァルナルのような人生を転落人生と人は言うのだろう。
生まれは悪くなかった。貴族の次男として生まれ、頼もしい兄と快活な婚約者に囲まれた少年時代は、決して裕福ではないが幸せだった。
彼女と結婚して子爵家に婿入りし。結婚後もそう変わらない日常がずっと続いて行くのだと信じていた。
それが儚い夢に過ぎないと知ったのは、丁度十年前。十五の冬のことだった。
『――あなたとの婚約が破談になったの。シルフヴァルバリ伯爵家の三男レンナルト様との縁談が急に出てきて――』
そう婚約者だった彼女の口から伝えられ。彼女はそのまま伯爵家の三男と結婚した。
ヴァルナルは一人、取り残された。
余りにも唐突に失われた未来に、ヴァルナルは心の内から掻き乱された。理不尽なこの出来事に絶望し、割り込んできた伯爵家と我が家との婚約よりそれを優先した子爵家に憤懣し、何も出来ない自分自身の非力さに自嘲し、誰より大切な人が隣に居ないことを嘆き悲しんだ。
あれから、何もかもが上手く行かなくなった。
とにかく家を離れたくて魔術学院に入り、卒業後もそのまま魔術の道を進もうと思った。
だが、師匠はヴァルナルが助手になってすぐ倒れてしまい。流派自体も学院内の政争に敗れ、無くなってしまった。
その後は学徒時代によく来ていた遺跡都市に流れて来て、探索者になった。
そこでも高位貴族が当たり前のような顔でしゃしゃり出てはヴァルナルの功績を奪っていき。それ以来は探索者としての成り上がりにも見切りを付け、ただ八つ当たりのように戦いに明け暮れる日々を過ごした。
しかし、時間が経つにつれ、ヴァルナルも少しずつ冷静さを取り戻していく。決定的な変化があったのは、遺跡最奥に辿り着き黒竜を倒してしまったことだ。向かう先も倒す敵も無くなってしまったヴァルナルは、嫌でも過去を振り返らざるを得なくなっていた。
そんな時に、兄がヴァルナルに声を掛けてくる。
東方の隣国が侵略する予兆を見せているそうで、共に従軍しないかと持ち掛けてきたのだ。「何も目指すものが無いなら立身出世でも目指してみろ」そう兄は言った。
ヴァルナルはその手を取った。在り来たりな栄光でも、それを掴めば何かが変わるかも知れないと期待したからだ。
だが、軍からの扱いは悪かった。兄と一緒の部隊を希望したと言うのに別の部隊に配属されることとなり、剣を持ったことも無い民兵中隊の指揮を任された。最初は貧弱で使い物にならなかった彼らを鍛え、実戦では少しばかりの戦果を上げた。
しかし、どこぞの高位貴族が功績を手にするためにと、ヴァルナルは従軍記録を抹消され、存在すらなかったことにされた。たかが男爵家の次男程度では、言い分を主張することすら許されなかった。
そうして何も得られず帰って来たとき、兄は戦死していた。逃げる軍高官を守るため、部隊ごと捨て駒にされ全滅していたのだ。
婚約者を奪われ、功績を奪われ、そして兄の命まで奪われ。何も出来ずに奪われ続け、ヴァルナルはようやく気付いた。
きっとこの世は権力者の都合の良いように出来ているのだ、と。
あのとき、権力があれば。ヴァルナルはそう思わずにはいられなかった。
だがしかし、ヴァルナルが権力を手に入れる可能性は、無い。ヴァルナルがどれほど渇望しようとも、それは手に入らないのだ。権力の座は世襲という堅牢な城壁に守られており、ヴァルナルにはそれを破る手段が無かった。
金さえあれば全てが手に入る街――そんな徒名がこの遺跡都市エルサスにはあるが、そんなのはその風潮を真に受けた愚か者を食い物にするための蜜の香りでしかない。
だから、その香りに誘き寄せられた愚かなヴァルナルは、結局何も手にすることが出来ずに死んでいくのだろう。
だが、それでもヴァルナルは死ぬまで栄光を、権力を追い求める。ヴァルナルと言う一人の男は、きっと狂ってしまっているのだろう。もう熱意の灯も消えてしまっているというのに、それを手に入れなければという義務感に動かされている。
今の情けない姿を見たら、亡き兄は一体何と言うだろうか。
「何をやっている馬鹿者」だろうか。それとも「無駄に生きているくらいなら替わってくれ」だろうか。いや、あの人は間違っても「替わって欲しい」なんて言わないな。あのよく出来た兄は、そんな後ろ向きな言葉は絶対言わなかった。
今もし会う事が出来たら、きつく叱られるだろうし、同情されるだろうし、励まされるだろう。そして最後にいつもみたいに「頑張れ、お前ならできる」と応援してくれるのだろう。
(でも兄さん、駄目なんだ。俺は頑張っても駄目だった。負け犬はどこまで行っても負け犬だった。上手く行ってると思ってもそれは勘違いで、いつも終わったときには居場所は無かった。)
いつもいつも、権力に負け続けた。だから、権力に負けないために、横暴な権力に抗い得るだけの権力が欲しくて欲しくて堪らない。
それが実現し得ないものだとしても、ヴァルナルには目指さずにはいられない。壊れてしまったヴァルナルには、もうこの生き方は変えられないのだ――
「ゲフンッ!」
背後から追い抜いて行った荷引きロバのくしゃみに、ヴァルナルはハッとして顔を上げる。
どれだけ時間が経ったか分からない。時間の感覚を無くすほどに、ヴァルナルは奴隷商の店の前で立ち尽くしてしまっていた。
急いで遺跡に行かなければと頭では分かっているが、身体が重い。
気力が抜けてしまっている。足を動かすことすら億劫だった。
街の中心にある遺跡の入り口まで後少ししかないが、その道のりがやけに遠く思えた。
そんなとき、奴隷商の元へ荷を運んで来たのだろう、幾人もの奴隷が積まれた二頭立ての大きな荷馬車が通りの先に見えた。
檻の中にいる彼らの表情は皆暗い。
そのほとんどは大人だが、成人の男女が並び立つその中に一人だけ、囲まれるように立っている小さな青髪の童女に目を引かれた。
年の頃は十に足るか足らないかと言った所か。
(……もしあのとき結婚出来ていれば、あれくらいの子がいたのだろうか)
ふと思い浮かんだそんな考えがヴァルナルの頭の中を一気に浸食する。
(馬鹿なことを。そんな「もしも」なんて、あり得ないと言うのに)
くだらないとヴァルナルは頭を振り、考えを振り払う。そして意識して荷馬車から視線を外した。
そうして、ヴァルナルは努めて荷馬車を見ないように前へと進む。荷馬車はがたり、ごとりと近付き、その車輪の音がヴァルナルのすぐ傍まで来た、そのとき。
――からり、と。一瞬だけ、青髪の童女の姿が別人へと変わった気がした。
はっとして振り返る。
童女の姿は変わり無く、そのまま何事も無く荷馬車は通り過ぎた。
呆けるヴァルナルの視線の先――荷馬車の通り過ぎた向こう側にあった店先では、笑う様に色取り取りの風車の玩具が回っている。
何も変わったことなど無い。
特に代わり映えの無い景色が通りに広がっているだけだった。
変な事を考えていたから、頭だけではなく目もおかしくなったのか。
見間違えたのだろうと結論付けると、ヴァルナルは身体が大分火照っているのに気付いた。
春先に着込み過ぎたか、変な事を考えたからか、あるいはその両方か。襟首を緩めると、心地良い冷風が服の下に流れ込む。のぼせた頭と身体を冷やすのに丁度良かった。
一呼吸するとヴァルナルは向き戻り、顔を引き締める。
この日常がいつまで続くかは分からない。
だが、それでもヴァルナルは進み続ける。壊れてしまったヴァルナルにはそれしか出来ないのだから。
乱雑に伸びた黒髪を冬の風に靡かせながら、ヴァルナルは再び歩き出した。