終わらない放課後
やりたいことはたくさんあった。
だけど、俺たちにできたことは少なくて。
高校三年間という短い時間。
舞坂美登里と亀屋健吾の二人と過ごしたあの季節。
しかし、それは何よりも、人生で一番楽しい思い出に違いなかった。
三年生になると、俺たちは廃部になった文芸部の部室を占領して放課後、よく集まるようになっていた。占領といっても、そんなに物騒な意味ではなく、単に空き教室を勝手に根城にしていたといった方が正しいだろう。
一つ年下の美登里がカチューシャを着けておでこを丸出しにすると、俺と健吾はわざと崩して着ていた学生服をきちんと直して、足を肩幅に開き、おもむろに腕を後ろで組んで、「ちょうれぇーい!」と腹から声を出す。
「今日の事案かくにーん!」
「「うす!」」
後輩に主導権を握られている部活というのは大概、情けないものだが、俺たちは部活として活動しているのでそれには当てはまらない。
美登里が「ひとーつ!」ガンガン! 太鼓のバチで机を叩いて、スカートの中が見えることも厭わずに机の上に足を乗せて、ビシッと天井を指差した。
「何かある人、手ぇあげ!」
「やっぱりこうなるんだな」
「自分からキャップを名乗り出たのにこの体たらくか」
「う、うるさいな! 思ったより世の中が平和なのがいけないんだよっ!」
はあ、と三人で溜息をついて今日の朝礼が終わる。時間的には夕方なので、朝礼というのもふさわしくないのだが。
健吾が手ごろな席に腰掛けて、気怠そうに呟いた。
「なあ、やっぱりオレたちもっと有意義なことをするべきだって。こんなんじゃ、家でごろごろしてるのと全然変わらんし。事案確認なんて風紀委員に任せときゃいいだろ」
「ええーっ、そんなのつまんないじゃん。せっかくだし、先生と生徒の禁断の関係をぶち壊すぐらいの活躍はしたいよ。ね、智治?」
「いや、俺は人様の恋愛に横やりを入れる気はさらさらないけど」
「ええーっ、そんなのつまんないじゃん。せっかくだし、先生と生徒の禁断の関係をぶち壊すぐらいの活躍はしたいよ。ね? 智治」
「同じことを言っても俺は頷かないぞ! なんだそのとりあえずごり押ししとけばいいみたいな風潮! 説得したいなら別の切り口で攻めなきゃダメだ!」
「……わたしといいこと……しよ?」
「色仕掛けとか古典的な手をまたこのバカ女は」
「きぃーっ! 馬鹿って何よ! ほら健吾! 暇ならわたしに手本を見せなさい!」
「……オレといいこと……しよ?」
「「気持ち悪いぞ」」
「ならやらせるなよ……」
大切な青春が消費されていく。とてもくだらない、だけど、友情を深める確かな方法で。
「あ、風が……」
開け放たれた窓から入ってくる風が、バサバサと積み上げられた正体不明の書類束をまき散らしていく。差し込む夕陽に下校を知らせるチャイム。
スピーカから聞こえる校内アナウンスが俺たちを次の遊び場へと導いていく。
「今日もバーガーベイカーでいいわよね?」
「なんだ、今日も食いに行くのかよ?」
「ん? 健吾は用事でもあるのか?」
「まあな。オレ、ちょっと今日は弟を迎えに行かなきゃいけねえんだ。親が遅くなるって言ってたから」
「じゃあしょうがないな。バーベー(バーガーベイカー)には俺と美登里の二人で行くよ。それでいいよな?」
「え? ええ? う、うん……まあ、悪くないとは思うけど」
少し狼狽えながらも美登里は頷く。二人きりになるのが珍しかったからかもしれない。
「んじゃ、また明日」
「おお、またな」
「気をつけて帰って」
健吾の背中を見送った後、俺と美登里は手早く部室の戸締りを終えて、駐輪場まで来ていた。自転車はママチャリが比較的多かったが、その中でもひときわ異彩を放つ高そうなマウンテンバイクは美登里のものだ。春休みのバイト代を全部つぎ込んだらしい。
「よいしょっと」
俺が自分のママチャリに跨ると、美登里は何故か眉をしかめて「うぅん」皺の少ない脳みそを一生懸命働かして何事か考えていた。
「皺の少ないってなんだコラ」
「おっと、これは失敬」
ついつい相手の欠点を呟いてしまうのは俺のヘンな癖だ。
「別に悪いとは思ってないんだけどな。謝るよ」
「器用に謝罪と暴言を一緒に行う先輩がここにいる……」
「それよりもさっさと行こうぜ。日が暮れちゃう」
「日が暮れてもどっちみち遊ぶことには変わりないでしょって、まあいいか。バイクの鍵、部室に忘れてきちゃった。面倒だけど取りに戻らないと」
「はあ、じゃあさっさと行って来いよ。十分ぐらいなら待ってやるから」
しかし美登里は首を振って「それよりも」と俺の自転車を見つめた。
「それ、二人乗りできそうじゃない?」
「できるけど、ケツが痛くなるぞ」
「智治がね」
「は?」
「いいじゃない。今日は貸しにしてよ」
「なるほど。お前の言いたいことがわかった」
つまり、美登里が自転車を漕いで、俺は後部座席で大人しくしていると。
「たかが部室に戻ることでさえ煩わしいのかお前は……」
「たまにはね。そういう気分になるの。ね、いいでしょ?」
「……今日だけだかんな」
美登里は頑固なので、これ以上何を言っても恐らく通じないだろう。
仕方なく自転車から降りて、学生鞄をクッション代わりにして、俺は指定の席につく。
「よーし、しゅっぱーつ!」
「うおっ!?」
彼女が勢いよくペダルを漕ぎだすと、思ったよりバランスが取りにくいのか自転車が左右に大きく揺れた。その拍子に俺は不可抗力で美登里に抱き付く形になる。女の子らしい柔らかくていい匂いのする身体はこの恐怖心を支えるには明らかに頼りなかった。
「お、お前は道路に俺を投げ出す気か! 言い出しっぺなんだから少しは自分の発言に責任を持て!」
「せ、責任ってなによう! あ、あわわ! あぶなっ! この弱小陸上部! どこ見て練習してんのよ! ちゃんと前見て走りなさい!」
「ゆ、許さん……! 美登里、お前バーバーに着いたら絶対に何か奢ってもらうからな! それと悪いのは陸上部じゃなくてお前の運転だああああああああ!!!」
ロマンの欠片もない画に、道路交通法違反。
世間様に懺悔したい気持ちを必死に抑えながら、俺たちは何とか目的地――バーガーベイカー――に辿り着く。
「「ぜえはあぜえはあ」」
二人して息を整えながら、オレンジ色の照明が明るい店内に入ろうとすると、ピコーン。ふいに携帯電話にメールが入る音がした。
気になって開いてみると、
「弱小陸上部より。お前を殺す」
と殺害予告が入っていた。
「……」
「美登里ぃ……」
「こ、これで貸しはなかったことにしようよ」
申し訳ないと言わんばかりに、知り合いだろうか、若い女の店員に「いつもの、お願いします」と俺には聞こえないように(聞こえている)そっと耳打ちしてから、「さあさあ」と開いている四人席に座るよう促してくる。
「わたしが奢るから好きなの頼んでいいよ。店員さんがオーダーミスしたらどうしようもないけどっ」
「自分の被害を最小限に抑える手際の良さ……戦国武将かお前は」
まあ、どっちにしろ奢ってもらえるならそれでいいか。
あいにく、今月はお金がなくて困っていたところだ。
バーガーベイカーに頻繁に通っていたせいでな!
この際、美登里に直接尋ねてみることにした。
「なあ、そういえばどうして最近バーバー推しなんだ? 飯食う場所なら駅前に出れば他にもあるのに」
「ご飯が目的じゃないからだよ。ここはわたしたちが最初に出会った場所だから、一時の中断にはふさわしいかなって思っただけ」
「一時の中断、ねえ……」
随分、美登里らしい表現だ。俺と健吾は三年生で美登里は二年生。つるむのも、遊ぶのも、大学生となれば簡単にはいかないだろう。だから、中断。俺たちの間にはしばし空白が生まれ、それぞれが決めた道を歩むことになる。これに似たようなことは高校に進学するときも起こっていたから、まだ無知だった頃よりはいくらか成長しているのかもしれない。
つまり、俺たちと別れても悲しくないように予防線を張っているのだ。美登里は。
思い出の中でしばらくの間やり過ごそうとしている。
俺は誰かに固執することを悪いことだとは思わないが、それでも美登里のやり方は窮屈すぎるとは思う。
人は生きている限りたくさんの人と触れ合うものだ。
好き嫌い関係なく、半ばカミサマに無理強いさせられるように。
友達はやっぱり多い方がいい。
美登里には俺たちだけじゃなく、もっと他の、例えば湯坂さんのような優しい人と友達になってほしい。他人の不幸を笑うことなく、真摯に向き合ってくれる強さを持つ、凛としていて、屋上に寝転がって新聞ばかり読んでいる彼女のような人と。
しかし、そんな願いもきっと美登里には届かないのだろう。
いやだ、と喚き散らして、より一層、心の壁が厚くなるに違いない。
だから、俺にできることはなかった。
やってやれることも、多分もうない。
バカ騒ぎして、せめて気が晴れるなら。
それでもいい、と俺は微笑む。
「……心配なら、さっさと飛び級してみせろ。バカ!」
「な……! 今わたしを学年最下位の馬鹿って言ったな! 確かにそうだけど、事実は小説よりも奇なりってことわざがあるから!」
「だからなんだよ」
「逆にこれって一位になるよりも難しいんじゃない?」
「頼むから少しは勉強してくれ……」
自慢に聞こえるかもしれないが、こう見えても俺は学年一桁に入るほど頭が良いのだ。
それが受験で通用するスキルかと問われれば首を振るにやぶさかでないが。
「お待たせ致しました。こちらバーガーセットになります」
丁寧にお皿の上に盛り付けられたハンバーガーが笑顔の似合う耳打ちされていた例の店員によって机の上に置かれる。チーズの香ばしい匂いが鼻腔をついて俺たちのお腹をぐうとならした。今すぐにでも齧り付きたいが、それはマナーがなっていないと言えるだろう。
「手を合わせてください!」
「いただきます!」
たとえ小学生じみた作法でも、これをやらねば食べ物を口にしてはいけないのが俺たちのルールだ。近所の小学校に通っている健吾の弟に食育を施すための芝居がこうして身体に染みついているというのは、それだけで何か温かい気持ちにさせてくれる。
大きな口を開けて俺はハンバーガーにがぶりと噛みついた。
「……これは!」
噛めば噛むほど溢れ出る肉汁の洪水に仄かに香るチーズとそれらを包み込むパテの味は想像通り、
「うん! まずまずだな!」
「チーズの匂いだけがプラスポイント!」
と、二人して散々な評価だったが、
「でも、これはこれでいい気がする」
「変わらないよね、何年たっても」
味以上の愛情が、そこにはたくさん詰まっていた。
やはり料理は愛情。作る人も、食べる人もそれは共通項だ。
「今日もごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした!」
俺たちの放課後はこうしてあっという間に過ぎていく。
それでも、まだまだ一日は終わらないのであった。
大切な夏休みの一日を浪費して、ノリと勢いと若気の至りで後先考えずに書いてしまいました。まったく、もう。ボツにしてパソコンにそのままにしておくのも可哀想だったので、本当に五ページ足らずで短いですが、こうした形で発表することにしました。もしも最後まで読んでいただけたのなら、私にとって何よりの幸せです。ありがとうございました。