ここって? 012
――ん? これは……?――
蓮華は妙な感覚を体に感じていた。それは自分の身の内で、機械的な女性の声とのやり取りを終えて、しばらくしてからの事だった。
僅かに顔をしかめ、おへそ辺りに手をそっと添える。『神宿』の制御結晶体が埋め込まれている辺りだ。
何かがその部分でゆったりと波間に漂うように膨張と収縮を繰り返し脈動している、そんな感覚だった。だが不快な感覚ではない。むしろ優しく愛おしく慈しみたくなるような感覚だった。
そんな安心にも似た感覚に包まれた蓮華は、しかめた表情を柔かく、優しくする。
しかし、いま自分で感じている腹部の感覚に疑問がよぎり、機械的な女性とのやり取りを反芻する。
……………………せいてきれんけつ??
とたん眉を寄せ、怪訝の表情を作ると、
……………………性的連結!!!
声にならない驚嘆と同時、一瞬で顔色を青くして、
――ま、ままままさか、じゅじゅじゅじゅじゅ受胎!?――
想像すらしていなかった出来事に、思わず口から出そうになった叫びを、なんとか胸中に留めた。もちろんそれは女性である蓮華一人では、決して成し遂げる事が出来ない生命の営みである。
だから、この場で唯一その可能性を実現させる男性に目を向ける。
――おおおおお夫は、しししし四季めめめ巡か?――
異種族間でも生命の営みが可能かどうかは、今の蓮華にさしたる問題はない。自分の体から、その可能性を示唆する感覚が伝わってくるのだ。
――い、いやいやいやいや……ああああたしには覚えがないぞ。そ、そりゃまあ、『せいてきれんけつ』を承認とかしたわけだが………そうじゃなくて、そういう意味の承認じゃなくてだな……そそそそもそも、いたした覚え……いやいやいやいや、ままままだまだ聖乙女のはずだ。だだだ大体だな、ははは初体験というのはだな……こう……お互いのだな……記念になるようなとか心に残るようなとか……だだだだからこれは認められないとか……やり直し? を要求する……いやいやいや、そうじゃなくて……待て待て待て、おおおおお落ち着けあたし。そそそうだ落ち着くんだ――
そして微妙に荒れた息を小さく深呼吸して落ち着かせると、
――例えだな、昨日今日四季巡にだな、おかしなクスリを飲まされてだな、意識を失っているうちにだな、大人への階段を一段……いや二段飛ばしで昇ってしまったとしてもだな、異種族間で作ったといってもだな、いきなりは動かんと思うぞ。そうだぞ、動き出すまでは数ヶ月はかかるはずだ。大体こういうことはだな、育む時間というのが大切だと思うぞ。
そ、そう夫や家族や友人達とだな、十月十日という時間をかけてだな、大切に育む事が大事なんだと思う。違う違う、そうじゃないだろう。大体あたしは夫となる者と、その前段階すら終えていないわけだし、いやいやだからそうじゃなくて、あたしはまだ高校生で、そういう事には早過ぎるわけだぞ。
そうそう、落ち着いて思い出すんだ。そうだ、そんな事は無かった……無かったはずだ。とにかく落ち着け、そうだ、あたしよ落ち着くんだ――
蓮華は、考えれば考えるほど支離滅裂になっていく思考を止めるために、二、三度小さく首を振り、自分に暗示をかけるように胸中で言葉を繰り返す。
――そうそう、そうだ、よし、落ち着いて、そうだ落ち着いてきた――
ようやく落ち着きを取り戻した蓮華は、
――そう、ここには制御結晶体があるはずだ。そうだ、ある――
確認するかのように思う。そして、自分に埋め込まれている制御結晶体が、神宿男となった巡に反応しているのだろう、と推測し、
――よくある事なんだろう……多分だが……後で先生達に訊いてみるか――
自身に安心を作った蓮華は、安堵の表情へと緩めた。
…………??
つかの間の安堵だった。
むしろ安堵して、気を緩めたことが原因だったのかもしれない。
蓮華は、違和感を感じた。つい先程感じた感覚とははっきりと違う。どちらかというと、物理的な種類のものであった。
問題は場所だ。
なんというのか、『花』という文字を含んだ熟語で表現されるような、所謂デリケートな部分から違和感を知らせる信号が伝わってきた。もちろん『お花摘み』に行きたくなったわけではない。当たり前の話だが、それを違和感とは言わない。今、蓮華が感じているのは、今までに経験したことがないような感覚であり、だから違和感である。
――こ、これは、もしかするともしかして――
思う蓮華は、
――聖乙女から大人へと変化した事を示す感覚なのか? やはりあたしは……受け入れてしまったのか?――
無理矢理搾り出し擦れるような言葉を胸中に作る。同時に、澄んだ蒼穹のような瞳からは光が消えて、厚い雲に覆われた曇天のようにくすみ、生気を失っていた。影を落とした表情は、全てのものが奪われたような、大切な何かを失ったような、虚ろで締まりのない半笑い。丸めた背筋にガックリと落とした肩に羽。今までの気高さはすっかり消え去り、完璧に打ち拉がれた姿を晒していた。
それでも自暴自棄となって狂ったように笑い出さない程度の理性は残っていたようだ。
だが、
「………何だか凄いお顔で……」
と巡の声が飛び込んできた。
蓮華の中で何かが、パチン、と弾けた。
今の蓮華には、巡が何を思ってそういったのかはわからない。だが巡が言う『凄いお顔』をあたしに作らせたのはお前じゃないか、思う蓮華の理性が飛んで、心に怒りの火が点火した音だったのかもしれない。
蓮華は虚ろに落ちた顔を、体を、引き締め、くすんだ瞳には烈火の如く怒りに震える紅蓮の炎を宿し、咎人を見るような視線を巡に向けた。
更に悪い事にその火種を煽り大火へと導く言葉が蓮華の耳に届いた。
「まあまあ……『名変わり』したってことは、四季君と蓮華ちゃんは……しちゃったのね」
「そっか……『名変わり』したんだから巡君、蓮ちゃん、しちゃったんだ」
「ふむ、『名変わり』したのは四季君と文月さんはしてしまった証なのだ」
お姉さんトリオの意味深な煽りに、
「四季巡ぅぅぅ……お、お前はあたしに何をした!!」
巡が思案している間、もの凄い形相で何かを溜め込んでいた蓮華の口が、いよいよその圧力に耐えられなくなったのだろう、口から火を吹いたように怒声が飛び出した。
「ちょ、って、待った待った、文月さん、文月蓮華さん、待った待った」
巡はじりじりとにじり寄る蓮華に焦る。自由を完全に奪っていた拘束は既に解かれている。だからといって、このベットの上から逃げようにも体を動かすと激痛の残滓が未だに暴れ回り、巡は動く事が出来ない。
それでも何とか痛みをこらえて、それなりの音量で声は出せたが、激昂する蓮華を制止する事は出来なかった。
——な、なんだ!? どうしたんだ?——
そもそも巡には、何故蓮華が怒りの矛先を自分に向けているのか、その理由がわからない。
とはいえ詰め寄る蓮華に、泣き付かれ、腹や顔を何度か殴られる程度なら、例え不本意であっても、激痛の残滓によるダメージを覚悟の上で、巡は耐える事が出来ただろう。
だが現状はそんな甘いものではない。何をどう間違ったのか、十二月の言っていたもっとも警戒する事態、実行フェーズに突入している。
つまり、あなたを殺してあたしも死ぬわ、状態である。
蓮華の体が、間違いなく怒りに震えている。もちろん腕も、そして手も震えている。それに同調するかのように蓮華の手に握られているものが震え、蛍光灯の白の光を、ギラリギラリ、と鈍い銀の光に変換して巡の目に届けている。
所謂光り物である。
ベット脇のサイドテーブルに置いてあったペティーナイフだ。
まだ親交も深めていない巡に、果物を持って見舞いにくる女子は……悲しい事だがいないだろう。だのに何故、そんなものが置いてあるの? 必要ないじゃん、と巡は今、保健室の先生を恨んでいるだろう。
とはいえ、現状は逼迫している。そんな恨み節を口から出すのは生き残ってからでも遅くない。だから巡は、助けを求めるような目を、自分達を監督する立場にあるお姉さんトリオに向ける。
………………あれ?
甘かった。先生達なら状況を何とかしてくれるだろう、という巡の期待は一瞬で崩れさった。
巡が目を向けた先では、
「あらあら、若いって良いわね」
と寮監の六月。
「そうね、若いから勢いが違うわね」
と養護教諭の三月。
「うむ、若いうちに色々と経験しておく事が重要なのだ」
とクラス担任の十二月。
好き勝手な事を口にするお姉さんトリオは、昼ドラの愛憎劇を緑茶をすすりながら見ているかのように、穏やかな笑みを浮かべているだけだった。
考えてみれば、当たり前だったかもしれない。
蓮華の手には光り物が握られている。しかもそれは巡に向けられている。
生徒の行動に対して監督責任がある立場の者なら、眼前で繰り広げられている事態に、とっくに何らかの手だてを講じているはずだ。
そこに気付いた巡は、大きな嘆息を吐くと同時に落胆する。
もちろん事態は改善されていない。刻一刻と悪い方向へ進んで行く。
今、巡の体は拘束を解かれているとはいえ、この事態から這って逃げ出す事も出来ない状態である。
身の安全を確保するため最初に思いつく対策として、凶行に走る蓮華を先生達に止めてもらう、という第一手段は、はい消えた、である。
つまり残された対策として、誰かに逃亡を助けてもらうか、蓮華を言葉で説得するか、の二択ということになるだろう。
のだが、前者は……まあ、と見回す巡には、自分を抱えて走れる存在が見当たらない。
一応候補として三月と六月。巡の言うキャラ通りの能力を持っていたとしたら、ドワーフ的な十二月も候補に入れても良いだろう。しかし、彼女達にその気があれば、既に蓮華を止めていただろう。部屋の片隅で呆気に取られたように、遠巻きに事態を静観している身長五十センチほどの熱血精霊の四月は……魔法が使えないとわかっている今、はなから候補に入っていない。
というわけで第二手段も、はい消えた。
結果第三手段の、巡一人で言葉でもって解決しないといけない状態となっていた。
巡は、他力本願は駄目だ、自分の身は自分で守れ、という教訓を学ぶ良い機会だと諦めて、頭をリフレッシュする。
巡はここにきて、ふと思う。
――何で文月さんは怒っているんだ?――
根本的な事がわかってない。当たり前の話だが、ここがわかっていないと、蓮華を説得することは無理である。
巡は解決策を見いだそうと続いて、あたしに何をした、と言った蓮華の言葉を思い出した。
――そもそも俺って文月さんに何をしちゃったんだ?――
巡は行動を思い出しても、怪しい事をした覚えはない。ベットに拘束されていた時はもちろん、拘束を解かれている今でさえ、体を自由に動かすことが出来ないでいる。何かしたくても、自分の事すらまともに出来ない状態である。
それに蓮華の行動もおかしい。つい先程まで巡の手を蓮華は握っていた。しかも嫌々という雰囲気ではなかった。その姿は愛おしさを感じているようにも思えた。その上、目覚めた巡がお礼を言うと、逆にお礼を返された。少なくともこの時点の蓮華は、巡に対して怒りの感情は持っていなかったはずだ。
それが突然、我を忘れたように怒りの感情を剥き出し、それこそ巡を亡き者にしようと光り物を手に持って迫ってきている。
それをふまえて考えると、蓮華に何かをしたのは目を覚ましてから、ということになる。
――けどさ、全く動けないわけだし、何かした覚えはないんだよな――
いくら考えても思い当たる事はない。
だから巡は、
「と、とにかく、ちょっと待って、俺って文月さんに何をしちゃったんです? 先ずはそこを教えて欲しいのですが」
と、怒りの感情一色に染まる蓮華を刺激しないように窺いながら、恐る恐る言葉を作った。
巡の問いかけに蓮華は、信じられない言葉を聞いた、というように怒りに細めた双眸をひと回り大きく開き、
――こ、こいつは……四季巡には、あたしにした事、あたしから奪った事の記憶がないというのか――
胸中で思うと同時に驚愕する。
とはいえ蓮華も辻褄の合わない違和感を感じていた。自身の記憶と、体から伝わってくる感覚と、そして時間の感覚をどう組み合わせても矛盾が生じる。
――何があったのか知りたいのは、あたしの方だ――
だから上げた拳を今すぐにでも振り下ろしたくなる気持ちを堪えて言葉を作った。
「お、お前は……四季巡は、あたしと……その……も、もにょもにょ……したはずだ! あ、あたしから奪っておいて覚えていないのか!」
巡は蓮華の答えに言葉を失った。もちろん意味が通じなかったからではない。充分すぎるほど意味が通じた言葉に、今度は巡が驚愕したからだった。止まった呼吸が復帰すると、
「えっと文月さん……そのですね『もにょもにょ』って……口に出せないような……てか、『奪っておいて』とか……一切覚えがないんですけど」
なんとか返す。
「な、なんだと、お前とあたしは間違いなく……そ、その……も、もにょもにょをしているはずだ」
蓮華の言葉に巡は、
――また『もにょもにょ』って……一体なんだよ。あれか十八禁的言葉を翻訳システムが勝手にぼかしているのか?――
僅かに苛つきを覚え、つい短絡的に、そして、ものは試しに、と直接的に言い放つ。
「俺と文月さんが『エッチしちゃった』って言いたいのか」
外野から『わぉ』と、お姉さんトリオが冷やかす声が聞こえた。どうやらぼかしは無いらしい。それはさておきツッコミ待ちのお姉さん達を、今はかまっていられない。
「あ、ああ、そ、そうだ…………せ、性的連結…………四季巡から要請があって、あたしは、つい……承認した」
俯き、消えるような声で蓮華が返してきた。
そんな蓮華の言葉を聞いた巡は、そういえば、と出所が不明の声とのやり取りを思い出した。 あの時、出所が不明の声は確かに、『静的連結』とか『要請』とか『承認』などと言っていた。だけどそれは神宿男と神宿女の契約のようなものだろう、と巡は解釈していた。
蓮華の話を聞く限り、彼女の方でも同じようなやり取りがあったのだろう。
そして契約なのだから、双方の合意をもって成立したはずだ。だのに何故、それで蓮華が怒っているのかわからない。
巡は、自分の解釈に間違いがあるのか、と疑問符を浮かべた頭を傾げようとして、
「いっ!」
痛みが走り、小さく声を上げた後、つい口を閉じてしまった。巡は自分のターンに僅かな隙を作ってしまった。そして割り込まれた。
「あたしの体に残っている感覚が……それは多分、性的な連結をしたという証なのだろう。
……まだ、好きとか……そんな感情がない四季巡と……要請を承認してしまったあたしにも否はあるが…………初めてだったのに……あたしは何も……何も覚えていない……」
突然呟き出した蓮華の言葉に巡は、とてつもなく大きな誤解が含まれている事に気が付いた。
「ちょ、ちょっと待って、誤解してるって、文月さん、勘違いしてるって」
巡は慌てて言葉を作った。だが蓮華は聞く耳を持たない。
「誤解だの、勘違いだの、それはお前の言い訳だ。あたしは……あたしの体に残る感覚がお前の言い訳を全て否定する」
「い、いや、そういう意味の誤解とか、勘違いとかじゃなくて――」
「もう、いいんだ、言い訳はもう沢山だ……どのみち四季巡が必要なら、くれてやるつもりだったんだ……本当なら綺麗な思い出として残したかったのだがな……あたしは……天井のシミを数える事も出来なかった……。
ふっ……情けないな……体に刻み込まれた感覚以外、何にも残っていないな……やり直すか……ふふ……そうだな……ゼロからやり直すのも良いだろう……ふふふ……ははは……」
なんと言っていいのか、もう滅茶苦茶であった。
巡の言葉を遮った蓮華は、手に持つ光り物を一切の生気を失った瞳で見つめながら、非常に穏やかな、しかし、闇に落ちた笑みを作っていた。
外野のお姉さん達が、再び『わぉ』と声を上げている。目の前で繰り広げられていた愛憎劇が、クライマックスに差し掛かった事で、口が動いたのだろう。もちろんかまってはいられない。というより、今の巡にそんな余裕はなかった。
巡に向けて怒りの炎を吹き出していた時なら、蓮華に言葉は届いたかもしれない。
――怒りに我を忘れて突進する王様のような蟲の大群だって、止まってくれたんだし……でも犠牲となって……まあ一命は取り留めていたから……あっ、青い服を着ていないから駄目なのか――
現実逃避の妄想に走る巡はさておく。
怒りに我を忘れて熱くなっているだけなら、時間を稼げば多少は冷めて怒りの度合いも下がっただろう。巡もそうなるように頑張ったつもりだった。
ところが、何をどう間違ったのだろうか、蓮華の怒りの度合いは一気にオーバーレブ。熱い怒りは、闇に包まれた静かな怒りになってしまった。こうなると他人の声は耳に入らないだろう。自分で自分に問いかけ、自分で答えを出すだけだ。そんな精神状態で、はじき出される答えは非常に短絡的なものだ。
そんな言葉が届かない蓮華の暴走を止めるためには、取り押さえるしか方法が思い浮かばない。だがその手段は既に、はい消えた、となっている。
――と、とにかく文月さんを落ち着かせなきゃ――
巡は何か対策はないかと考えを巡らせる。だが焦るあまり考えが纏まらない。何より有効な手段が思い浮かばない。それは、蓮華が変に落ち着いているから、ということが最大の理由だろう。限りなくゼロに近いものを、更にゼロに近づけるのは非常に困難である。
嫌な汗が吹き出し、巡の生存本能が最大級の半鐘を打ち鳴らす。
――マズいよ、ヤバいよ、ピンチですよ、デンジャーですよ。何っっっにも思い浮かばないですよ。もうこうなったら、オカルト信じて念を送っちゃうか? べんとらべんとら……いやいやいやいや、それはちがうだろう。えっと、そ、そう、落ち着け~落ち着け~文月蓮華さん、落ち着け~とにかく落ち着け~ホント良い子だから落ち着いて下さい……てか警戒警報鳴りっぱなし……ん?――
巡が疑問符を浮かべると共に胸中の言葉を止めたのは、何処からともなく聞こえるアラームに気付いたからだった。それは目覚ましのようにけたたましいものではない。静かな響きであったが、確実に警戒すべき状態だと伝えてくる。
巡が、これって? と思うと同時、
『…………緊急起動……神宿女文月蓮華……意識レベル低下…………15…………10……ホワイトアウト』
出所が不明の声が巡の体内に響いた。相変わらず感情を感じない機械的な女性の声だ。巡は片眉を上げた怪訝の表情を作る。何処から聞こえた? とか、何の声? とか、疑問の類からではない。この事態を引き起こした原因であろう出所が不明の声に警戒をしたからである。
だがそんな巡を気にしてないかのように出所が不明の声は、
『…………命令の入力を確認…………実行しますか』
機械的に作業をこなすように問いかけてくる。
――命令? 入力? 実行? って何それ? 文月さんの意識レベルがどうとか言っていたけど……今までの流れから関係あるんだろうな――
巡は問いかけに、怪訝の表情をそのままに、はて、と考える。が、許された時間に余裕はない。今もなお、じりじり、と蓮華はにじり寄ってくる。その様子を巡は視界に留めながら、
――まあ、俺としてはですね、現状に対するまともな対策もないわけで……今は藁にもすがりつきたいわけでですね……この声のおかげ? で大変危ない事態になっているということはですね……逆に言えば、何とかなるかもしれない、っていう淡い期待でですね、お願いする、という一択しか残されていないわけですよね――
巡は小さな嘆息を挟んで呟くように言った。
「はい、お願いします」
『……神宿男四季巡、承認…………強制介入実行』
「って、ちょ、ちょっと、強制介入!? って何それ、いっ! てててて」
きな臭い言葉に慌てて体を起こそうとして、体中に痛みを走らせ苦しむ巡に、外野のお姉さんトリオから『あら強制介入』とか『これで終わりね……』とか『発動したのだ、残念』等々と、舌打ちまじりの言葉が聞こえていた。
蓮華は、体の中から伝わる機械的な女性の声を聞いた。
『…………神宿男四季巡……強制介入………命令実行』
言葉が終わると同時、
――ちょっと待て、強制介入とはなんだ――
返す蓮華だった。しかし機械的な女性の声からの返事は無い。
直後、蓮華は体内から感じる不思議な感覚に、ピクリ、と体を小さく揺らし足を止めた。
それは、真っ暗な闇の中で一人縮こまる自分を優しく包み込み、光の当たる場所へ連れて行ってくれるような感覚だった。
安心する、安堵する、心穏やかに、そんな言葉が感覚として伝わってくる。
――あ、あたしは何故こんなに……怒っていたのだ――
激高していた感情が急激に冷却されいく。外と内を隔絶するかのように覆っていた、ドス黒い靄が晴れいく。
蓮華は、手に握りしめている狂気という感覚に、
――あたしは何故こんな物を握っているんだ? これで一体何を――
向けた目をふた回り大きく開いた。
楽天的に考えるなら、果物の皮をむいて動けない巡に食べさようとしていた、になる。しかし、ここに果物は無い。ペティーナイフの切っ先は巡に向いている。どう楽天的に考えても、その結果に結び付かない。
――あ、あたしは……なんという事を……しでかしたんだ――
体に伝わる言葉に踊らされた結果、何故他人の言葉を聞かず、何故自分の感覚だけで動いた、と自責の念にかられる。
やりきれない思いで上げた視線の先、巡は笑みを作っていた。
――何故……酷い事をしたあたしに、何故そんな顔を向けることが出来るんだ?
でも……そんな男が一人くらい居てもいいよな――
思う蓮華の体から急激に力が抜けて、握っていたペティーナイフが手から抜け落ちた。切っ先が床に刺さるが、自重を支えきれず倒れる。鈍い金属音が二度ほど静まり返った保健室内に響く。
と、同時、
「……すまなかった」
消え入るように言った蓮華の膝が崩れた。
読み進めていただき、ありがとうございます。




