#8 壊れた人生 壊れる未来
幽霊なんていない。
大好きだった母が死んだ年、小学1年生にして俺は悟った。
あんなにも俺を愛してくれた母が死んでも、彼女が俺の前に現れることはなかったからだ。
昔から病弱だった母の身体は、幼かった俺が見てもわかるほどにひどく痩せていて、肌も雪のように白かった。
異様なまでに細く長い指で俺を撫でる母の顔を、俺は今でもはっきりと覚えている。
母は、いつもどこか遠くを見つめていた。
まだ不安も死も何も知らなかった俺にとって、それはものすごく不思議なことだった。
そして、それは同時に拭うことの出来ない恐怖でもあった。
お母さんはいつも、何を見ているんだろう。
僕には見えない何かを見ているのかな。
俺が何度尋ねても、母は決まって空を見つめていると微笑むばかりで。
バカな俺は、お母さんは鳥になりたいのかな、なんてくだらないことを考えていたのだ。
そして俺の人生は、あの日を境に壊れ始める。
9年前。神無月を迎えたばかりの、蒸し暑かったある夜のことだ。
前日まで雨が降っていて、湿気の多い日だった。
いつもは遠くから聞こえているはずの救急車のサイレンがやけに近くで聞こえることに違和感を感じ、俺は目を覚ます。
外がざわざわと騒がしい。
そしてその音はどうやら、家の中からも聞こえてくるようだ。
2階の寝室から下を窺うように階段を降りると、そこには真っ白な服に身を包んだ大人たちがいて、大きな声で何やら話し合っていた。
玄関のドアは開けっ放しになっており、外からこちらを覗きこむ野次馬達の目には好奇心の色が浮かんでいる。
白い服を着た人達は、どうやら病院の人達らしかった。
赤い十字の掲げられたヘルメットを被り、家と外を出入りしている。
そして、階段を降りたすぐの床。
ワックスで輝いているはずの廊下には、なぜか赤い液体が広がっていて。
その真ん中に、まるで海に浮かんでいるかのようにして倒れている女性がいた。
医者の人達に囲まれている中で、寝ている女性。
それが、大好きだった母の姿だと気が付くのには、しばらく時間が必要だった。
「夏斗」
肩にぽん、と手が置かれた。
声のする方を見ると、そこには涙を流した父の姿があった。
「お父さん、お母さんはどうしたの?」
状況が掴めない俺は、ただ聞くことしか出来なかった。
頭では理解出来ていても、心がそれを認めようとはしなかったのだ。
ひたすらに俺は父に尋ねた。
お母さんはなんで寝てるの?
どうしてみんな怖い顔でお母さんを見てるの?
俺の隣で、父が崩れ落ちる。
ぼろぼろと涙を流しながら、母の名前を呼び続けていた。
それでも、母が助かることはなかった。
神はこの世にいない。そう気付いた瞬間だった。
母は俺の部屋を出て階段を降りていた時、軽い貧血に襲われたらしかった。
もともと身体の弱い母は貧血を起こすことも多く、それがこのような災いを生んだのだと後から父に聞かされる。
俺はその日、涙が枯れるまで泣いた。
息が出来ないほどに何度も何度も慟哭した。
お母さんの明るい笑顔。お母さんの白い肌。お母さんの痩せた指先。
お母さんの俺を呼ぶ声。お母さんの優しい匂い。
俺の愛した母のすべてが、枯れた叫び声と共に闇夜の空に消えた。
この時、すべてが黒で塗り潰されるように俺の人生は壊れてしまった。
何にも興味がわかず、ただ腐った毎日を生きるだけの空っぽな人間になってしまったのだ。
もしも母にもう一度会えるなら、俺はなんだってするつもり
でいた。
幽霊になってでも構わないから会いに来てほしい。
本気でそう思っていた時期もあった。
それでも結局、母が俺の前に現れることはなかった。
わかっていたんだ、俺は。
完膚なきまでに、俺の人生は狂っていたのだ。
幽霊なんていない。
俺は今まで、そう信じて生きてきた。
そんなもの存在するはずがない。
15年間、そう思い続けてきた。
これから先もこの気持ちが変わることはない。
そう、思っていたのに。
俺はついに見てしまった。
見てはいけないモノを。
決して触れてはならなかったパンドラの箱を開けてしまった。
これから、俺の人生は再び破滅へと向かっていくのだろう。
隣で震える港川と、入り口でへたりこむ神寺先輩。
俺はそんなふたりを見つめながら、柚原の消えた紫陽花通りをただぼんやりと眺めていた。