Aパート
森下ハルミがおはようも言わずに六年二組の教室へ入ってくると、案の定、おそれていた反応が返ってきた。
「ハルミちゃん、どうしたのその髪!」
ハルミはきれいだった髪をばっさり切った。昨日まではそれが腰まで伸びていたのだ。
「イメチェンにしたってねぇ……」
「ちょっともったいないよね。ハルミちゃんの長い髪、うらやましいくらいだったのに」
「まさか、失恋でもした?」
クラスメイトの女子たちがハルミの髪を批評する。もちろんハルミは失恋などしていない。自分は、ただ母親がそうさせるから髪を伸ばしてきただけだ。でも最近ちょっと、反抗心みたいなものが芽生えてきた。
「女だからってさ」ハルミはすっかり短くなった襟足をかきあげて得意そうに、「髪を伸ばさなきゃいけないなんてことないと思うの」
そう言って腰に手をあて、隣の席の小松ユウトに視線を流した。
「背だって高い方だもの。ユウトと並んだって、見劣りしないわ」
「なんで俺を引き合いに出すんだよ。いくら俺だって、女相手に負けやしねーよ」
「女だからとかって、そんな言い方やめろ!」
怒ってハルミは、ユウトとの背くらべを申し出た。周りが注目する中、ユウトは西の方を向き、ハルミは東の方を向いて、背中をぴったり合わせる。
「やだ。ユウトの髪の毛、チクチクする。私の首すじを刺してるよ」
「そういう反応が女だっての。おい羽角、早く判定してくれよ」
そばに居た羽角真里音が審判をつとめ、二人の頭に手の平を乗せる。
「んー……微妙だけど。ほんのちょっぴり、ハルミちゃんが勝ってるみたい」
それを聞いてユウトは「なんでだよ!」と崩れ落ち、ハルミはやったやったと喜んで跳躍した。
実はハルミにとってこれはユウトへのリベンジのつもりだった。昨日の昼休み、ハルミは男子の腕ずもうにまじって参加し、ユウトにあっさり負けた。今まで何度も負かした相手のはずだった。ユウトは「お前、よそ見してたろ。もう一回やるか?」と言ったが、ハルミは「いいよ。負けは負けだから」と辞退した。
――もう一回やっても、勝てる気がしなかったから。
「ほらね。体の大きさなら、私の方がまだ勝ってるでしょ」
背くらべにどうにか勝って、ハルミは胸を張る。その微妙なふくらみは、まだ微妙なので気にならない。
「ちぇっ。髪も短くしやがって、このオトコンナ!」
ユウトが悔しがるのを見て、ハルミは満足気だった。女らしいとか、女の子だとかいわれるのが嫌で髪を切ったのだから。ハルミはまた短い襟足を手でかきあげる。髪が長い時の癖がなおらないのだ。
「あれ? でもハルミちゃんってやっぱ、こうしてユウト君と並べて見てみると……」
真里音がハルミのうしろにまわって、下から上へと、なでるように見てくる。
「髪は同じくらい短くても、男の子と女の子って、分かっちゃうもんだね。ほら、首すじとか、肩のラインとかさ」
それを聞いて何人かが寄ってきては、ハルミの首すじを見る。細い首、ピチピチした肌、それから、なだらかな肩。
か弱い女の子の後ろ姿だった。
「男の子だったらもっとがっちりしてるものねぇ。見れば見るほど、ハルミちゃんってきれいな首すじしてる」
今まで自分の首すじなんて意識したことがない。こうまじまじ見られると、なんだか恥ずかしくなってくる。慣れないミニスカートを穿いた時みたいに、今度は首すじがスースーする。
「やだ……そんなに見ないで……」
ハルミは首すじを手で隠して、正面を向き、自分の背中を見られないようにした。恥ずかしさで頬が紅潮してきた。
そこをすかさず、一人の女の子がうしろから、
「ふっ」
と息を吹きかけてくる。息はハルミの耳たぶと首すじを直撃し、ハルミは思わず肩をすくめ、
「きゃふんっ」
かわいらしい声がもれてしまった。
そんなことがあってから、六年二組では「首すじブーム」が起きてしまった。女子たちはスカートのすそから見え隠れする太ももより、自分の首すじに男の視線がそそがれるのを嫌がった。
髪を結んでいた子は下ろして、首すじが見えないようにした。それでも時々、いじわるな男子が、うしろから髪をめくってくる。スカートめくりはこの歳になるともはや犯罪だが、今度は「うしろ髪めくり」が流行ってしまった。
男子は女子のうしろを歩かないこと! そういうふうに決めて、女子は首すじを手でおおって階段を下りる。誰かが上にいれば、やっぱり首すじを見られてしまうから。
物をひろう時にスカートを押さえてしゃがむのは、幼い頃から癖になっているが、首すじを隠すのは慣れていない。うっかり忘れてしゃがみ込むと、すかさず男子がうしろにまわり込んで、
「やった! 森下ハルミの首すじ、見てやった!」
と小さくガッツポーズをする。ふいに屈辱感と殺意がわいてくる。
ハルミは髪を切ったことを後悔した。女だ女だって言われるのが嫌で髪を切ったのに、今度は首すじがエロティックだなんて……。どうしてみんな、男子も女子も、先生も、おじさんもおばさんも、自分のことを女として見るんだろう。女であることから解放されたい……。
翌朝、ユウトは通学路で見慣れたうしろ姿を見かけた。フードの付いた衣服で、かんじんの首すじは隠れているが、なだらかな肩と、ズボンの上からでも分かるきれいな細い脚。
ハルミに違いない。しかしそれがなぜか、黒いランドセルを背負っている。
ユウトは横に並ぶと声をかけた。
「どうしたんだよ。そのランドセル」
「近所の男の子が、もう中学生だから、もらったんだよ」
「そういうことじゃねえよ。なんで黒いランドセルなんか使ってんだ」
ユウトは少し怒ったように言った。
「そ、そんなの、わたしの勝手だろ」
「そうだけどさ。お前が黒のランドセルを背負って、珍しくズボンを穿いてくるなんて、ただの気まぐれでも、オシャレ感覚でもない、何かわけがあるって思うだろ」
「うるせえよ。お前にゃ関係ねえよ」
ハルミが男言葉で返した。無理をして、自分を否定するような、不慣れな言葉使いだった。ユウトは心配そうに「なんだよその喋り方……」と言うが、それには答えず、
「なんで、女子とか、男子とかいう区別があるんだろう……。首すじは首すじなのに、女の子だからってじろじろ見られるなんて……」
ハルミは頬を赤くさせて、自分が着ている服のフードを引っぱった。それでも隠し切れず、デリケートな首すじを、冬の冷たい空気がなでる。
「そりゃ、きれいなのは確かだ。みんなだってそれに気づいたからクラスで首すじが流行っちゃったんだよ」
「お前があの時、誉めたりしなければ……お前にだって責任はあるん……だぞ」
ハルミは語尾の「だぞ」のところで、恥ずかしそうにユウトから視線をそらした。
「わるかったよ。でも女は女なんだから仕方ない。お前のそんなかっこうも、男みたいな喋り方も似合ってないし、第一さ、声ですぐ女だって分かっちゃうもの」
ユウトのこの言葉に、ハルミはショックを受けた。そうだった。女の先生も、お母さんも、男の人とは違った、なんていうか、か弱そうな声をしている。男の人みたいに低くない。女は声がわりもしないんだ。自分はこの先ずっと、この声で生きていかなきゃいけないんだ。
ユウトが「おい」と声をかけるのも無視して、ハルミは先を歩いていった。ハルミは沈黙を選んだ。