日の出前に
万地学園光彩中学校から合格通知をいただきました。
第一志望です。
夏に受験を決めてから丸六か月。目の前の目標に向けて勉強したのは初めてのことでした。四年生のころから塾に通って対策をしてきた子たちに比べるとずいぶん短いですが、それでも一生忘れられない半年間になりました。
合格通知を受け取ったところで突然校長先生と面談をするよう言われ、驚きました。入試自体は筆記試験と調査書で済んでしまったので、面接対策はしていなかったのです。それでも、熱意は十分に伝えることができたと思います。
昨日降った雪は、まだ白い状態であちこちに残っています。「サクラサク」には程遠い冬の昼下がり、私だけがほわんとした空気に包まれて、駅までの道を歩いているようです。
私の一番の親友で、魁人くんという人がいます。私は「カイ」と呼んでいるのですが、彼は四歳年上、高校一年生です。
去年の七月、カイに進路の相談をしました。何かと理由をつけて一歩踏み出せなかった私の背中を押してくれたのはカイでした。そうして私は今、合格通知を持って歩いているのです。
やはり親友とはいえ、歳が離れている上にお互い一人っ子なので、兄妹のようでもあります。
私たちは、私が小学一年生、カイが小学五年生のときに地域の子どもボランティアクラブで出会いました。私は当時から変に大人びた性格をしていたらしく、同級生よりも高学年のメンバーと一緒にいることのほうが多かったのです。いろいろな出来事を重ね、カイが特に仲の良い友達になりました。
私たちのこんな不思議な関係は、その時から続いています。
そういうわけで、カイには真っ先に報告しないといけません。両親からは、「あくまで自分のやりたいように」という教育を受けてきたので、今回の中学受験も自分の意思で決めました。一刻も早く家に電話をかけたいという気持ちはありません。ゆっくり家に帰って報告することにします。きっと大して驚きも喜びもせず、淡々と手続きの準備をしてくれるでしょう。そういう家庭です。私はそれに不満を持ったこともないし、不安を感じているわけでもないのです。
六両編成の各駅停車がホームに入ってきました。車内は空いています。ただ、ちらほらと『同業者』らしき親子の姿があり、なんとなく落ち着かない雰囲気です。第一志望に合格した人、不合格で併願校に挑む人、不思議なことに見分けがついてしまいます。塾に行かなかったとはいえ、自分もすっかり『受験生』になっていたのでしょうか?
* * *
寒いのは苦じゃない。でも、綾香は違う。暑さに強いかわり、めっぽう寒がりだ。
ここは、綾香の受験校から俺たちの街にかけての中間駅であり、県都から来る私鉄の終着駅でもある。大きな商業施設が隣接していて、俺はその一角にあるドーナッツ屋で綾香と待ち合わせている。
今日は綾香の合格発表。県都の高校に通う俺は、放課後、地下鉄と私鉄を乗り継ぎ大急ぎでここまでやってきた。こういった寄り道に慣れていない俺は、少しそわそわしながら窓の外を眺める。
綾香が受験に挑んだのは確かだ。夏に相談を持ちかけられた時、「実は気になっている学校が一つある」と言っていた。しかしどういうわけか、志望校を教えてくれないのだ。
「中学受験、か」
四年前、俺が拒絶した中学受験。それでだいぶ後悔した。でも、充実した高校生活を送っている自分がこうしてあるのは、そういう選択があったからだ。だから、何が正しい選択で、何が間違っているのかなんて、本当にわからない。綾香は、そうした葛藤を乗り越えて、半年間過ごしてきた。今日、どんな顔をしてここへやってくるのだろう。
* * *
窓の外をもこもこの塊が通り過ぎた。魁人が店の入り口に目を移すと、その塊が店内へ入ってきた。
「綾香」
小さく声をかけると、完全防備の綾香は軽く手を振って近づいてきた。格好がすごい。ボリュームのある毛糸の帽子と耳あて。マフラーは口の上までぐるぐる巻きにしている。それらを一つずつ外して窓枠に置くと、今度はもこもこの山ができた。そして、紺色のダウンジャケットは、裾の長いタイプだ。綾香は背が低いにもかかわらず大人ものを着ているので、ひざ下までジャケットに覆われている。そのジャケットの下にもまた、もこもこの世界が広がっている。暖かそうなセーターの下に、タートルネックのシャツという組み合わせだ。
「注文しておいてくれたんだね」
「これでいいんだろ?」
「うん。これが一番好き」
魁人が綾香のために注文しておいたのは最もシンプルなオールドファッションのドーナッツだ
「……それで、カイは相変わらずだね」
「イチゴが好きなんだよ!」
魁人の前に置かれているのは、イチゴがふんだんに使われた、凝ったデザインのドーナッツだ(おそらく女性客をターゲットにしている)。それにアップルパイもつけた。
「どうしてドーナッツの好みだけかわいいんだろうね。普通これ、逆だよね。あたしとカイのドーナッツ」
「いいだろ!」
綾香は、ドーナッツに手をつける前に、ショルダーバッグから封筒を取り出した。
「あのさ、万地学園って知ってるよね?」
「もちろん。――光彩中を受けたのか」
急かす雰囲気ではないとわかっているのに、魁人はついつい前のめりになる。
「合格したよ」
「――そうか」
魁人は、どういう言葉をかけたらいいのかわからなくて、一瞬目を伏せた。「おめでとう」なのだけれど、もっと大切なことがある気がする。
「カイはさあ」
綾香は少し沈んだ声で言った。
「この結果、どう思う?」
「どうって……合格して――よかったんじゃないか?」
「本当に、そう思ってる?」
「どういうことだ」
「光彩中は――その――あんまりレベルが高くないというか、滑り止め受験が多いというか」
魁人は、厳しい顔をして綾香と向き合った。
「だから?」
「か、カイは、がっかりしたんじゃないかと思うの」
「は?」
「あのねあたし!」
店内がにぎやかな時間でなかったら、綾香の声は他の客の注意を引いていたかもしれない。
「あたし、受験決めてから言わなきゃいけないと思ってたんだけど、ずっとカイに追いつけるようにって思いながらやって来たんだ。カイは風香高――県立最難関の高校に行ったし、あたしのこと頭がいいみたいに言ってくれたし、だから――期待とか、あるのかと思って。カイはがっかりしたの?」
「お前は――」
魁人は興奮して立ち上がりかけた。それから大きく息を吐いて腰を下ろす。
「綾香、お前は馬鹿だ」
「だって……」
「この前な、卒業生を呼んで受験体験記を聞こうっていう行事があってな」
それまでの重苦しい雰囲気から、魁人は急に軽い口調になって言った。
「その中に東大に行った卒業生が二人いて、心底がっかりすることを言ってくれたんだよ」
「がっかり?」
綾香は敏感に反応した。
「何て言ったと思う?」
「そうだね――『東大に行くなら海外の名門大学を目指したほうがいい』とか?」
「……なんだその現実的な答えは」
「最近そういうこと言われてない?」
「まあ俺も聞いたことあるし、一理あるとは思うけど、そういうことじゃない。問題は、心構えだ。志望動機を聞かれてな、
『どうせ受験するなら日本一を目指してみようと思った』
て答えたんだ」
「二人とも?」
「ああ。綾香はどう思う?」
「要するに、勉強オタクなんだよね」
「そういうことだろうな。がっかりだよ。だって大学って、自分の勉強したいことを自分で勉強しに行くところだろ。東大だろうが別の大学だろうが、それこそ海外に行くにしても。今も学歴社会が根付いてるっていうけど、自分のやりたいことをやり遂げた上で学歴が必要だと思うんだよ。『自分がこの大学を選んだのは、こういうテーマで、こういう勉強をしたかったからだ』っていうのを聞きたかったのに」
綾香はほっとしたように表情を緩めた。
「――なんか、カイの言いたいことわかった気がする」
「よかった」
「あたしが光彩を受けたのはね、もっと自分で考えて動ける人になりたいからなんだ」
「綾香は十分自主的だろ。自分でどんどん先の勉強してるし」
「ううん。先取りとはいえ、教科書から教わってるのに変わりないよ。自分で問題を見つけて、解決するっていう経験をしておきたいんだ。ほとんどの中高一貫でやってる先取りの勉強は自分で出来るから、学校は授業以外のところに力を入れてほしいな、と思って」
綾香は、幼いころから読み書きに関心を持ち、小学校入学の時点で小学三年生の勉強を始めていた。現在は、一部の教科で高校の内容に入っている。
「それから、ボランティアが盛んなところ。ボランティア活動をアピールしてる学校は多いけど、強制的になってるのが実情だとしたら、それはボランティアじゃなくて労働でしょ? 本当のボランティアを自分からできるのが光彩だと思ったんだ」
「そういや、中学でも総合の時間にボランティア『やらされた』な。周りがやる気なくて、つまらなかった」
「大きい理由はその二つだね。知ってる? 週に一回か二回、『自由研究』の時間があるって」
「ちらっと聞いたことがあるけど――綾香の言ってた、『自分で問題を見つける』ってやつか?」
「うん。これを六年間やって、高三の夏には万地大学のホールで発表するんだよ」
「楽しみだなー。何やるのか決めたのか?」
「うーん、あたしはまだ教科書から独り立ちできてないんだよね。入学してからいろんなことに関わって、最終的にやりたいことを見つけていきたいと思う」
綾香は、さっきまでの怯えた顔が嘘のように目を輝かせ、もう日が沈むという頃まで入学後の夢を語り続けた。それを実現させていく日々は、一歩先のところまで近づいている。