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6月1日  金曜日  黒板消しと銀の靴5

「ああ」

 彼は一瞬目を見張り、次の瞬間にその目はふわりと細められた。

 そして、一度ゆっくり瞬きしてから私に視線の焦点を合わせる。


「靴の踵を鳴らしても、俺はお前を非日常から帰さない」


「……なんで、それ……!」

 びっくりして、息を呑み込む。

 知ってるんですか、と最後まで言葉を続け。ことはできなかった。

 銀の靴の踵を3回鳴らすと、どこでも好きな場所に行ける。「オズの魔法使い」に願いを叶えてもらうことができなかったドロシーは、その靴のおかげで無事に彼女の日常に帰ったのだ。

 非日常と日常の境目すらやすやすと飛び越える、魔法の銀の靴。


 でも。

 彼はそのことを知らないはずなのに。

「覚悟しろと言っただろう」

 私の驚く様子を満足そうに眺めつつ彼は言う。

「いつの間に」

 ようやく出した声は、かすれてしまった。

 受け止められることを想定していなかった自分の言葉が、いつの間にか彼と共有されていた。そのことに対する、驚きと戸惑いと、それよりもっと幸福な感覚。

「黄色い煉瓦の道、だろう。出典くらい付けておけ」

 忙しい教育実習生に難題を押し付けるな、求婚者に無理難題を押し付けるかぐや姫じゃあるまいし、おかげで昨日はやたらと忙しかった、とおもしろくなさそうに彼は文句を言う。

「よくわかりましたね」

 よくあんな会話の切れ端だけで答えを見つけ出したものだ、と改めて感心してしまう。

「塚本に恩を売られた」

 カモられる、とものすごく嫌そうに彼は呟く。

 塚本さん、知っていたのか。彼が知っているよりもさらに意外だ。

 だから、と彼は確認するように言った。

「約束が果たされても、非日常は終わらない。それならずっと逢えるだろう」

 ああ、私は待ち望んでいたものを手に入れた、とこのとき急に実感した。

 知らなくて、知りたくて、憧れていたものに。


 このあと職員室に挨拶に行くから、と彼は黒板の前、私の横を通り過ぎて教室の前の入口から出ていく。体を回して、彼の姿を視線で追いかける。

「やっぱり芳賀さんはこわいですね」

 含み笑いをしつつ、教室から出ようとする彼にも聞こえるような大きさで、ひとりごとめかして言う。

「それは、どういう『こわい』だ?」

 振り向いて、ちらりと愉快そうな色を瞳に浮かべつつ彼が問う。

「さあ。お好きに解釈してください」

 なんといっても解釈はお手の物でしょうから。

 ああ、そうさせてもらう、と彼は言って去っていく。

 いつの間にか見慣れた彼の後ろ姿が遠ざかっていくのを、口元をゆるめながら見送る。


 さて。いつものように、掃除を始めるとするか。

 髪をきゅっとひねってピンでとめると、黒板消しを抱えてベランダに出る。


 ふと考えるのは。

 拍子木のかわりに黒板消しを両手にもって。

 ぽふぽふと、チョークの粉をまきちらしつつ鳴らせば、非日常の幕が開くだろうか。

 飛んだはずみに脱げてしまうような魔法の銀の靴よりも、ましてや、それ自体ではほとんど何の意味もないお飾りのシンデレラのガラスの靴などよりも、もっと確実に。私は、非日常に足を踏み出すのだ。

 放課後の教室で、黒板消しを叩くという私の習慣は変わらないけれど。

 私の非日常は、まだ幕を開けたばかりだ。

 


教育実習15日目のお話です。

後日番外編が出てくるかもしれませんが、ひとまず完結ということで。

読んでくださってありがとうございました。

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