6月1日 金曜日 黒板消しと銀の靴4
そういえば、と彼は急に口調を変えて、天井を仰ぐように視線を上に向ける。
「あおい、か」
それ以上は必要ないだろう、とでもいうように、「青い」よりは「葵」に近いアクセントで彼はその言葉だけをこちらに投げる。
「逢う日、ですよ」
私もそれだけ呟くように言う。
そうか、と小さく微笑んで彼は頷く。
ああ、私の言葉を見届けた、と感じる。私と彼との共通の認識。言葉を足場にして、言葉以上のものを伝える。
あなたと交わした会話を覚えている。あなたと交わした約束を覚えている。
あおいはあふひ。逢う日は約束の日。
「約束は、守るように。逃げるなよ」
待ち合わせの日時と場所を早口で告げると、彼は念を押してきた。
「わかってますよ。前にも言いましたけど、逃げません」
逃げるなと彼に言われて、半ば勢いに任せたように逃げないと口にしたけれど。
そのときとは違い、私は今真剣に、彼から逃げたくないと思っている。
「前にも言ったが、俺は来ない相手を待ち続けるほどお人よしじゃない」
来ない相手を待ち続けて、溺れ死んだという男の話が論語にあるという彼の言葉を思い出す。
来なければ、とにやりと何か企むように笑って彼は言い放つ。
「家まで迎えに行くからな」
……いや、ちょっと待った、それはまずい。音楽室くらいならまだしも、家に迎えはまずい。だいたい彼は私の家なんて知らないはずだ。
これも笑えない冗談の一種か、と彼の表情を窺うが、彼の顔からは冗談かどうかは読みとれない。
冗談だとしたらこわいし、冗談でないとしたらさらにこわい。まあ、ここは冗談ということにしておこう、うん。
家は勘弁してください、とだけ返しておく。実際家まで来られたら洒落にならない。直子にはおもしろがられそうだけれど。
「なら来い」
彼は笑みをとどめたまま命じるように言う。
「わかってますよ」
苦笑して答える。
そう、わかっている。
私は、この人と一緒にいる未来を手に入れたいのだ。
だから約束を守る。
近付きたいのが憧れならば、手に入れたいのは憧れよりも強い感情。
今はわかっている。
だから。
芳賀さん、と呼びかけて彼の瞳を見据える。
「非日常を、私にください」
これが、私の答えで、私の覚悟。
今までずっと、まだ知らぬわくわくすることに、非日常に憧れてはいたけれど、手に入れたいとまでは思わなかった。
でも、今は違う。
彼と一緒にいる未来はきっとわくわくして、それは確かに私にとっての非日常だ。
『恋愛も、お前にとっての非日常だろう』
私は手に入れたい。
知らなくて、知りたくて、ずっと待ち望んでいたものを。




