6月1日 金曜日 黒板消しと銀の靴3
ああ理保、と彼は呼ぶ。
いつも通りの時間、放課後の教室。体をまっすぐ教室の前の入口に向け、教卓に肘をついた姿勢、彼は私を迎えた。
教卓を挟んで、彼と反対側に立つ。私が窓の方を、彼が廊下の方を向いて正面から向き合う格好になる。正面といっても、彼は背が高いので肘をついた状態でも私の視線は上向きになるのだけれど。
黒板消しは手に取らない。
彼に会うのが、やってきた一番の目的だから。
彼がゆっくりと口を開く。少し緊張してそれを見つめる。
「お前、集会で校歌の音程間違っていただろう」
開口一番とんでもないことを言われた。
「そんなことありません! あれは公式認定された校歌の二部合唱の下のパートなんです!」
合唱部員としてのプライドをかけて、間髪をいれずに反論する。いきなりそれとは、ほんとに失礼な人だ。
「今まで聞いたことないぞ」
俺もいちおうこの高校の卒業生なんだが、と彼が首をかしげる。
「合唱部員しか知りませんからね」
いささか胸を張って教える。彼が知らないのも無理はない。
「合唱部か。……全校生徒450人ちょっとのうち何人だ?」
苦しいところを尋ねられた。
「……20人。どうせ弱小部ですよ」
少ないな、まあ俺のときも少なかったが、と彼は感想を述べる。万年弱小部だって言いたいのか。
しかしな、と彼は難しい顔をする。なんなんだ。
「合唱部員がそんなに少ないなら、ほかの生徒には間違いだと思われている可能性もある」
世の中多数派が幅を利かせるからな、やたらと重々しい態度で彼は告げる。
ということは。
え、もしかして校歌歌うたびにそう思われてたってこと? なんかこいつ音程違うんですけど、みたいな。うわ。どうしよう。クラスのみんなが口にしないのは、もしかして私に気を遣っているからだろうか。うわ、ほんとにどうしよう。合唱部員の沽券にかかわる。早めに訂正しておかなくては。
そんなはずは、とだけ言って口ごもっている私の慌てぶりをしばらく観察したあと、彼がさらりと言う。
「まあそれは冗談だが」
またきた、笑えない冗談。いったい何がしたいんだ、この人。
みんなに合唱部なのに堂々と音程を間違えている哀れな存在だと思われていたのか、と考えて怯えてしまったではないか。この人の冗談は、相変わらず上手い下手の域を超えてこわい。
そもそも、といまさらながらに思い当たったことを指摘する。
「よく考えると、舞台の上にいた芳賀さんに私の声が聞き分けられるわけないじゃないですか」
教育実習生はみんな舞台に上がっていたから、私の歌なんて聞こえるはずはない。
「お前の声はよく通る。舞台の上からでもよくわかった」
聞こえなかったら音程が違うなんてわかるはずないだろう、と呆れたように付け加えられてしまった。
呆れたいのは私の方だ。どんな耳してるんだ、この人。
「それはどうも」
さっきの笑えない冗談のあとでは、素直にありがとうございますと言えるはずがない。
もしかして、褒められた、のか。まさかね。




