5月31日 木曜日 黒板消しと白うさぎ6
放課後の教室、いつものように黒板消しを4つ持ってベランダに出る。
天気はいい。風も吹いていない。要するに暑い。
庇が作る陰に体と伸ばした手がうまく入るよう、位置を調整して黒板消しを叩く。
初めは弱く叩いてももわっとチョークの粉が出てくるが、だんだんと力を強めないと粉が吐き出されなくなり、最後にはいくら叩いても粉は出なくなる。最初から勢いよく叩くのは、大量の粉が一気に舞うことになるのでお薦めできない。
「理保」
彼が私の名を呼ぶ。彼はいつも、いつの間にかやってくる。
「なんですか」
開かれたままのガラス窓越しに、一度振り返ってから答える。
「ブドウ糖、甘かった」
「そりゃ砂糖ですから」
もうひと組の、掃除が済んでいない黒板消しに持ちかえ、構える。黒板消し同士がぶつかるたびに、宙に粉が舞う。
「帝釈天だ」
「え」
いきなりの発言に戸惑う。
彼といるとこんなことばかりだな、と振り返り、振り返るという行為は過去に向けられるのだと気付いてさらに戸惑う。
「天使じゃない、帝釈天だ。うさぎを月に送ったのは」
そうですか、とだけ答えておく。宮口くん、間違っていたじゃないか。
叩き終えた黒板消しを抱えて、教室に足を踏み入れる。
「もしもお前がうさぎなら、俺は月には行かせない」
彼は私を見つめてそう告げた。彼の口調は静かなのにどこか激しさを秘めていて、いつもとは異なる様子に困惑してしまう。
教室の前の入り口、あと一歩後ずされば廊下という場所に彼は立っている。私がいるのはベランダから入ってすぐのところなので、ふたりの間には教壇と教卓がある。
その場にとどまったまま彼は語る。
「かぐや姫が月へ帰って行くのを止められなかった帝とは違う。俺はお前を手に入れたい」
月に棲むのは、うさぎか、それともかぐや姫か。きっとどちらも正しくて、どちらも少し違っている。
月が抱くのは、人々の月に対する憧れなのだ。
憧れとは、あるべきところから離れること。近付きたいと願うこと。
近付きたいのが憧れならば、手に入れたいと思うのはいったい何だろう。
答えは、手を伸ばせばすぐ触れられるところにあるけれど。
私はその答えに手を伸ばすだろうか。
理保、と彼はまた呼ぶ。
今度は答えない。ただ、彼から瞳を逸らさないでいる。
「今日は忙しいからもう行く」
邪魔して悪かった、と彼は微笑む。
「忙しいなら、わざわざ来てくれなくてもよかったんですよ。昨日みたいな伝言だけでも」
黒板消しを4つ持ったまま言う。会えて嬉しいとは思うけれど。
「お前に会いに来た、とでも答えればいいのか」
以前聞いたような台詞を口にして、彼は苦笑を漏らす。
その苦笑も消えないうちに、まあいい、また明日な、とだけ言葉を残して彼は去っていく。
窓辺に佇んだまま、彼の姿が開いたままの教室の後ろの入り口に一瞬だけ映り込み、すぐに見えなくなるのをぼんやりと眺める。
しばらくしてから、前の黒板をふくのに取りかかることにした。
黒板消しを縦方向ににかけながら、考える。というよりも、考えながら黒板消しをかけている。
ああ、来週からは彼は来ないのか。
黒板消しを上から下へ、ゆっくり動かしていると、なぜか昨日握られた彼の手の感触がよみがえる。
彼がいないとさみしくなるな、という思いが不意に湧き起こる。
『覚悟しておけ』
彼の言葉が頭の中で響く。
「覚悟、か」
何の覚悟だろうか。受け入れる覚悟、拒む覚悟、向き合う覚悟。何にだって覚悟は必要だ。
私は何を伝えればいいのだろう。
私は何を答えればいいのだろう。
その答えは、手を伸ばせばすぐの場所に。
教育実習14日目のお話です。
教育実習生の本分は教育実習です。
ということで授業の様子をちらり。




