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5月31日 木曜日  黒板消しと白うさぎ1

 もしも私がうさぎなら。
















 わがクラスの教育実習生である芳賀さんは、かたりと音をさせてチョークを黒板の桟に置いた。

「ここに、こんなに埃が」

 黒板の桟に指を滑らせて、白く染まった指を教壇の上から示してくる。 

 白地に細い黒のストライプが入ったYシャツに、ダークグレーのスーツを身につけた彼は黒板を背に立っている。

 スーツ姿で立てた人差し指を胸の前に突きだしている様子は、不似合いなようで意外と違和感がない。

 ごめんなさい、お義母さま、とつい口の中で言う。

 でも。

 これ、研究授業だよね?


 教科書に載っている和歌について、あれこれ説明するという授業内容だったはずだ。実際、さっきまではそうだった。

 あっけにとられたのが私だけでないのは、おとなしく授業に耳を傾けていたクラスがざわりと揺れたのが証拠だ。

「こう言われたら、このクラスの人ならなんのことなのか察しがつくでしょう」

 クラスのみんなは少し笑いつつ頷く。毎度おなじみ嫁姑ジョークだ。

 え、そうなの、と言っているのは担任だけだ。ちょっとかわいそうな感じがする。

 彼は人差し指にふっと息を吹きかけてチョークの粉を飛ばし、さっさっと手のひらでこすって両手を教卓につく。表情も変えずに一同を見渡す。

「逆に、わからない人にはまったくわからない」

 僕わかんないんだけど、ときょときょとと教室を見回す担任は、彼に完全に無視されている。授業開始前に、僕はいるけど空気だと思ってね、頼ろうとしちゃだめだよ、と担任自ら彼に言っておいたからだろう。


「同じことを言ったとしても、ある人にはわかるし、別の人にはわからない。この違いはなんでしょう?」

 彼は少し言葉を切る。

「いろいろ答えはあるだろうが、一番の違いは、話し手と聞き手の間に共通の認識があるかないかだと思う。さっき俺が言ったことについて、『この台詞は姑のものだ』という認識を俺と共有している。『ああ言われたらこう返すべきだ』というパターンを知っている。そんな人にだけ通じる類のものだ」

 まあ確かに、「ここにこんなに埃が」という台詞には「ごめんなさいお義母さま」と返すものだというのは、このクラスではお約束になっている。


「これと同じように、和歌も共通認識の上に成り立っています」

 やっと和歌に話が戻った、とクラスは少しほっとする。

 そして、彼は語る。

 掛詞、本歌取り、隠喩。

 自分と同じことを、相手も知っている。相手がその意味に気付いて、こちらの意を汲んでくれるのを信じて、言葉を託す。認識を共有することで、実際の言葉より多くの情報を伝える。

 共有されるのは、知識であったり、経験であったり、はたまた秘密であったりとさまざまだ。


「理解するには、書き手が『読み手と共通の認識』だ、と思っていることを学ばなければならない。知識は解釈を助ける。そして、解釈は理解に不可欠だ」

 これは和歌だけ限らず、例えば枕草子は才気煥発を自任する清少納言が書いただけあって知識がないと理解できないものも多い、と彼は挙げた。


『話し手がどういう意味で選んだ言葉だろうと、解釈は受け手に委ねられる』

『自分の手を離れた言葉はすでに自分の意図から離れ始めている』

 話を聞きつつ、彼との会話をふっと思い出した。

 言葉にすると失われてしまうことがある、とよく耳にする。

 言葉ではうまく伝えられない、といわれることもある。

 けれども。


 ああ、そうか。

 それでも、彼は信じたいのだ。

 言葉を足場にして、その言葉以上のものを伝えられるのだということを。

 それはすとんと胸に落ちた。

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