5月29日 火曜日 黒板消しと青二才7
「くだらないこと吹き込むな、青二才が」
彼の声がだんだんクリアに聞こえるようになってくる。彼につかまれた手首が、私をつなぎとめているような感覚を覚える。
この前放課後恐怖劇場で私の世界を突き崩した張本人が、今崩壊を食い止めるのに一役買っているなんてどんな皮肉だ。
なんというか、私が暮らしてきた日常は、ちょっとした非日常とは常に隣合わせだったらしい。知らないというのはこわいな、ほんと。いや、知ることもこわいけれど。
どうしようもないことを知ってしまったという感じがする。実害はないが、やりきれない感じが残る。
ルビコン河を渡るってこういうことか。いや、私はたぶん渡ってないはずだ。
世界を立て直すためのリハビリとして、とりあえず思いついた反論をしてみる。
「私はかわいくない、と思うんだけど」
「えー、普通にかわいいよ」
倉橋くんの意見はともかく、と彼に目を向ける。視線がからむ。そのまましばらく彼は私を見つめていた。
「理保はかわいい」
かなり言いにくそうに彼は言う。いや、気持ちはありがたいが、ここは否定してほしかった。
「それって文字禍の仲間じゃないですか。じっと見ているとわけがわからなくなるっていう」
どうしても抵抗したくて妙な理屈をもち出してみる。
文字禍。文字のわざわい。
ひとつの文字をずっと見つめていると、輪郭が溶けて、形がほどけて、文字としての意味をもたなくなる。
見つめるほどに、わけがからなくなる。
それと同じようなことが、顔にも起こったのではないか、というまあ屁理屈だ。
「俺は正気のつもりなんだが」
ただまあ、と彼はちらりと薄い笑みを浮かべる。
「気が狂うまで理保を見つめるのもなかなか楽しいかもしれない」
見つめれば見つめるほど、意味が失われていく。やがて狂気に陥るほどに。
私の顔から目を逸らさずに、静かな声で彼は言う。
……こんな攻撃で崩れるほど世界は柔じゃない。柔じゃないんだから! というかさっきの倉橋くんの発言のせいでちょっとばかり感覚が麻痺している。
しかし、なんだこれは。こわい発想だ。そんなに見つめられたらこっちの気が狂うんじゃないか。というか冗談だよね。
「……その冗談まったく笑えないんですけど」
「冗談だと思うか?」
まだ私を見つめたままだった彼に、真顔で問い返されたので深く頷いて見せる。
笑えなくても、せめて冗談だと思わせてほしい。
まあ半分は冗談だが、と彼に告げられて安心する。いや、安心してる場合じゃない。半分ってなんだ。
この人、嘘や冗談が上手い下手を通り抜けてこわい。まったく笑えないじゃないか。冗談の意味を間違えて覚えたのかもしれない。
やっぱり昨日直子に辞書で確かめてもらえばよかった。
美化委員のよしみでどうにかしてくれないかな、と倉橋くんに目で助けを求めると、理保ちゃんは何しててもかわいいけど怯えてるとすごくかわいいねー、まさに妹!って感じ、と無責任に言われた。
世界がまた崩れかけた。世界の耐震補強しなくちゃな、うん。頑張ろう。
というかここは「助けてお兄ちゃん」とか言ってみるべきだろうか。
……いや、やめておく方が無難だな。
窓の外を見ると雨が降り始めていた。とうとう決壊したようだ。
ああ、掃除がまだ終わっていない。手首を彼から取り戻し、黒板に向かう。
黒板をふいても忘れられそうにない雑念が、頭に巣くっている。
まあとにかく。
フォローを身につけること、油断をしないこと。あと彼に冗談の意味を教えること。
世の中を無事に生き抜くために、頑張ろう。
まあ、すでに無事じゃない気もするけれど。
教育実習12日目のお話です。
満身創痍です。




