5月29日 火曜日 黒板消しと青二才4
声を聞くだけで誰かわかってしまったので、教室の方を振り向くことなく構えた黒板消しを叩き続けた。
遠慮もなく教室に入ってくるらしい足音がして、彼が再び言い放つのが聞こえる。
「邪魔だ、青二才」
倉橋くんは驚いているためか何も答えない。
風に乗ったチョークの粉を追って、空を見上げる。
なにやら雲行きが怪しくなってきた。いや、比喩的な表現じゃなくて、実際雲が厚くなってきている。
そういえば天気予報では今日は雨だったかな、と思い起こす。最近の天気は崩れやすい。
ああ早く帰りたいな、雨の降らないうちに。早く帰るには早く終わらせなければ。
覚悟を決めて、叩き終えた黒板消しを抱える。
教室に入ることにしよう。
教室の方に体を向ける。ベランダに続く開け放したままの窓のすぐ近くに、彼がいた。
私の左前方には、掃除用具入れの前で作業の手を止めたままの倉橋くん。
右前方には、胸の前に腕を組んだスーツの教育実習生。
狛犬よろしく開いた窓の両脇に立っている。
教室に入るには、必然的にふたりの間を通らなければならない。
なんとなく入りにくいじゃないか。
ベランダに出たまま、あの、とどちらにともなく話しかける。
私の声でやっと我に返ったらしく、倉橋くんは口を開いた。
「大学生に青二才呼ばわりされるとかどんだけ……」
そこか。そこなのか。
直子みたいに昼間と態度が違う、とでも言うのかと思った。
「あ、大丈夫。えーっと、芳賀さんは精神的に老けてるから」
とりあえずフォローらしきものをしてみる。やたらめったら古典の引用をするくらいだし、彼はなんとなく老けている気がする。
……あれ、なんかフォローと違うかもしれない。
「そのフォローはまずいだろう」
そもそもフォローにすらなっていない、と彼に冷静に指摘されてしまう。
うーん。日頃フォローなんてものとは縁がないのが露呈したか。
これは直子が悪い。もうここまで言っちゃったらフォローしようとしまいとどうでもいいよな、という投げやりにして親密な空気をつくることにかけては天下一品。そんな直子と付き合いの長い私にフォロー能力を期待されても困る。……わかってます、開き直りました。ただのフォロー下手です。
しかしまあ、とやけに楽しそうに彼は語る。
「基本的に身内を貶めるのが日本語の謙譲表現だからな。理保にとっては俺の方が身内という扱いになる」
なんですか、その解釈は。アカデミックっぽく恰好つけて適当なことを語る似非国語教師(志望)め。
そしてさりげなく話題を入れ替えるあたり私よりもフォロー慣れしているとみた。だったらフォローしなきゃいけない事態をあえて引き起こさないでほしい。
身内じゃありません、と反論しようとして倉橋くんに先を越された。
「なにげに名前呼び!? しかも呼び捨て?」
ああ、まずい、そこを気にするの忘れてた。直子もさほど気にしなかったし。
いまさらすぎてうっかり流してしまった。慣れすぎたのだろうか。
「まあな」
ふっと笑いつつ答える彼はどこか自慢げである。いやいや、何でもいいからごまかすくらいしてみましょうよ。
いや、えっと、うん、ほら、と意味のない言葉をつなぎつつ、どうにかしようとしてみる。
……無理だな。言うべきことが浮かばない。
決めた、これからはフォローの修行しよう、うん決めた。これが泥棒を捕らえて縄を結うという状況か。後悔先に立たずの方が合ってるかな。
事態の収拾を諦めて、気まずさを押し殺し、ふたりの間を通って教室に入る。
まあ、とりあえず。
黒板をふくことにしようか。




