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5月28日 月曜日  黒板消しとブラックマンデー8

 しずまりたまえ、しどうほうがく。


 妙に静謐で自信ありげな口調で、彼はそう言った。

 

「何それ?」

 歩みを止めて、直子が尋ねる。

「暴れ馬を鎮める呪文だ。狂言に出てくる」

「今度は狂言ですか」

 黒板をふきつつも、気になってつい反応を返してしまう。

 論語といい狂言といい、先日の落語といい、この人の引用はどこから出てくるかわからない。

「ていうか暴れ馬ってあたしのこと?」

 尋ねる直子に取り合わず、彼は説明しだす。

「見栄っ張りな主人がいてな。従者がその主人に命じられ、茶比べのために茶道具を借り太刀を借り、馬まで借りてくる。この馬が、背後で咳をすると暴れるというクセモノでな。鎮めるための呪文が『止動方角』なんだ」


 ここは掃除まだだよな、と彼は黒板にその呪文を書く。

『止動方角』

 なるほど、そう書くのか。いかにも動きを止めそうな呪文だ。


 暴れ馬はともかくさ、と直子も感想を述べる。

「クセモノってあんたじゃん」

 直子はぶつぶつ言う。

 いや、彼も直子も十分すぎるほどクセモノだ。だから私は困っているのに。


 クセモノではなく、暴れ馬を話題に据えることにする。

「暴れ馬といえば、どっちかっていうと『じゃじゃ馬馴らし』を思いだしますけどね」

 かなり昔に読んだと思われる、記憶の隅に引っ掛かっていたシェイクスピアの喜劇を挙げる。

 あれは最後の「じゃじゃ馬」の矯正されっぷりが印象的だった。

 じゃじゃ馬とは、跳ねっ返りの女性。「言うことを聞くまで眠らせてあげません」なんていうささやかな拷問を受けるだけでも、案外人間って従順になるものだ、という印象を抱いた。つまりは睡眠は大事だよ、というお話だと小学生の読書経験の記憶はおぼろげに主張する。

 いや、違うな。あとで読みなおさなくては。

 私がストーリー性のないあらすじを思い出していると、まあそうかもしれないが、と彼は意見を述べる。


「俺は別に暴れ馬を乗りこなしたいわけじゃない。暴れると邪魔だからおとなしくしていてほしいだけだ」

 だから止動方角で十分なんだ、と彼はかつかつとチョークで黒板を叩く。

「うっわ。嫌味きっつー」

 文句をこぼしつつもどこか楽しげな直子は、しかしあんたさ、とは嬉しそうに彼に向って言う。


「やっぱ変な人だ」


 教育実習終わる前に発見できてよかった、と直子は何度も満足そうに頷きつつ、教室を出ていく。

「もう帰るのか?」

 不意を突かれて戸惑ったように彼は尋ねる。

「思いっきり追い払おうとしてたくせに何さ。伊東直子のサービス期間は終了しました」

 立ち止まりもせずに直子は告げる。

「何か、ないのか? 俺や、理保に言いたいことは」

「は? 勝手にすれば?」

 直子はめんどくさそうにこちらを振り向き、私と目が合った瞬間のみ目だけで笑った。

「あんたの恋はあんたのもの。理保の恋は理保のもの」

 それがスジってもんでしょ、あ、ちなみに変な人は見てて楽しいけど惚れないから、と直子は肩越しに手を振ると、出て行った。


 

 ふたりだけ残された、教室で。ぽつりぽつりと、彼は語る。


「この狂言の最後には、馬は逃げてしまうんだ」

 従者がわざと咳をして主人を落馬させるのを繰り返しているうちに、従者が馬に乗るようになる。まあいろいろあって、馬は呪文が唱えられる前に逃げだしてしまう。


 

 去って行った、直子のことを気にしているのだろうか。

「こんな呪文じゃ、直子は止められませんよ」

 黒板消しをかけて、その呪文「止動方角」を消す。さほど力を入れなくても、その呪文はさっと消えた。

「まあ無理だろうな」

 彼も苦笑を漏らす。


 

 昼休みといい放課後といい直子に振り回された一日だったな、と黒板消しを手に再びベランダに出る。

 すると、雨がやんでいた。雷も。

 教室には彼がいて、ベランダには私がいて、さっきまでは直子がいて。

 夕焼けも出ない空をぼうっと見つめ、ああ懐かしいな、と思う。なぜなのかはわからないけれど。


教育実習11日目のお話です。

今週はほぼゲスト週間になります。



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