5月28日 月曜日 黒板消しとブラックマンデー7
ぱんぱん、と黒板消しを叩く。舞い上がるチョークの粉は、湿気た空気のせいか遠くまでは飛ばない。
ああ、そうこうしているうちに雨がさらに弱くなってきた、と空を見上げる。雲が薄くなってきているのがわかる。そういえば雷ももう鳴ってはいない。
私は特に雷がこわいというわけではないが、背後の教室から漏れ聞こえてくるふたりの会話はこわい。いや、「まんじゅうこわい」のこわいじゃなくて。
空を見上げたまま、なるべく背後から気を逸らすことにする。
そろそろ雨がやみそうだな、これなら学校に残っていてよかったかもな、とあえて明るい面を見つめようとする。
というかどうせ降るなら、大縄ができないように昼休みに降ってほしかったけれど。いやいや、明るい面を見つめなければ。
現実逃避も楽じゃない。
初対面の私をしてものすごく挙動不審の逃げ腰にさせたふたり。理由はわからないが、私の隠れ人見知りはこのふたりに強力に発動したのだ。直子とは麩菓子の話題で失敗して、芳賀さんとは黒板消しの話題で失敗した。
まあそのことはさっさと忘れるとして。
ふたりのやり取りは、切り結ぶ、という表現がぴったりくる。黒板消しをぱんぱんしながら、傍らで聞いているのがいたたまれない。
ああ、そうこうしているうちに黒板消しを4つ叩き終わってしまった。もう教室に戻らないといけない じゃないか。
直子は教卓のベランダ側に、彼は廊下側に立っている。できれば近くに来たくなかったのだが、教壇に上がり、黒板をふくことにする。意識を懸命に逸らす。
「理保のことからかってんの、実習生?」
ま、からかうと面白いんだけど、と直子は聞き捨てならないことを付け足す。全然意識逸らせていない。
まあいいか。というか、もういいか。
諦めて聞き流すことにする。
「いや、まあ本気だ」
「じゃ、マジで口説いてんの?」
「そういうことになる」
「それもダメじゃん」
「結局何が言いたい」
直球勝負だ。私だったらデッドボールだらけになりそうな会話のキャッチボール。いや、キャッチボールに死球はないのだけれど。こんなに殺伐としていていいのだろうか。
正直に言おう。この雰囲気はいたたまれない。なんで本人の目の前(正確には真後ろ)でこんな話をするんだ。
まず、直子、敬語使おうよ。
私は先生には敬語じゃないと落ち着かない。目上とか尊敬とかはともかく、慣習としての敬語だ。ということで先生に準じる存在である教育実習生にも敬語で通している。
「あんたさ、告るなら最後に告りなよ。そうすれば後腐れないじゃん」
おお直子、もっともな指摘だ。黒板消しを動かしつつ、かすかな感動を覚える。なんで私もそこに気付かなかったんだろう。
まあ実際には告白されたわけじゃなく、予告だけれど。
「論語にあるだろう」
彼は一節をそらんじる。
「『七十にして、己の欲するところに従えども、範を踰えず』。逆にいえば、七十になるまでは目的のために手段を選ばず規則を破っても仕方ない、ということだ」
今日の彼のお気に入りは論語か。
「何その屁理屈」
意味わかんない、と直子は吐き捨てる。
「冗談もわからないのか」
彼は長く息を吐く。横目で見ると、困ったものだと言いたげに首を振っている彼が映る。直子の神経を逆なでするジェスチャーだ。
「ここは論語読みの論語知らずか、と突っ込むところだぞ。修行が足りないな」
彼はうそぶく。なんだそれ。そんな突っ込みできる人いるのか。というかなんの修行なんだ。
「それはないっしょ」
直子はさらりと否定する。
「これも冗談だからな」
彼もさらりと述べる。
また出た。笑えない冗談。しかも二段重ね。やっぱりこの人よくわからない。
「……あんた、冗談の意味わかってる?」
だよね。そう思うよね、直子。笑えないのは私だけじゃないよね。心の中で背後にエールを送る。
「そこに辞書あるだろう。勝手に調べろ」
彼は黒板の横の棚を指したらしい。
「うーわ、むかつく。さっさと帰ろ、理保」
だんっと足音も荒く教壇に上がってきた直子が、私の腕を引く。
「鎮まりたまえ、止動方角」
突然、彼は言った。




