5月28日 月曜日 黒板消しとブラックマンデー5
逃げられなかった。本当は、逃げたくなかった、のかもしれない。
直子に追い出されるようにして荷物を手に廊下に出る。
彼は先に立って歩き始める。私もついていく。
無言のまま、しばらく歩くと、階段に行き着いた。電気もついていなくて少し薄暗い。しかい、私が背伸びして手を伸ばしてやっと鍵に届くか届かないかという位置にある窓は大きく、明かり取りの役目を十分に果たしている。
第二音楽室は、3階にある。2階へ続く階段を降りようとして、思いなおしたらしく彼はこちらを向いた。その様子は、私がちゃんとついてきているか確かめるようで。
ああ、だから私は逃げたくなかったんだ、とやっとわかった。
「金曜は、逃げてすみませんでした」
彼がこちらを向いたのをきっかけに、気になっていたことを謝る。
「それはいい」
いいのか。
そうじゃなくて、俺が訊きたいのは、と彼はいらついたように切り出す。
「今日のことだ。来ないつもりだっただろう」
「いや、それは」
まだ決まってなくて、と言おうとしたが、彼は私に取り合わず続けている。
「ロッカーに荷物がないからばればれだったぞ」
私が持つ鞄を示して、彼は指摘する。そういえばロッカーは一つの面があいた箱を積み上げたような形で、そのあいた面が横を向き、そこから荷物を入れられるような構造になっている。
ということは、扉がない。つまりは中が丸見えで、荷物が入っていないのもしっかり見えるということで。
うわ。ばればれだ。
「えーと、実は行くか行かないか迷っていて、まあどっちでもいいように荷物持ってきたんですけど」
正直に告げる。
「優柔不断なうえに問題先送りだな」
呆れたように彼は溜息をつく。まあそうだけれど。
「臨機応変なんです」
言い訳のような反論をする。
そうか、と頷いて、彼は階段の手すりに身を預けた。
「来ないかと思った」
ひとりごとのように吐息に混ぜて漏らし、彼は一瞬瞳を伏せる。また謝るべきだろうか、とちょっと悩む。未遂だしな。
だがまあ、それはそうだとして、とやけにきっぱりと彼は顔を上げる。
「古典に学ぶことにした」
「……こ、てん?」
またか、とは言えずに鸚鵡返しにする。
「ああ。論語にな、こんな話が出てくる」
「論語、ですか」
彼の言葉に耳を傾ける。階段にある窓は高く、雨の音はほとんど聞こえない。
「橋の下で待ち合わせをしていて、大雨の中ずっと来ない相手を待ち続けて、溺れ死んだ男の話だ。孔子曰く、『馬鹿正直なのも考えものだな』と」
うーん、なんともコメントのしようがない。こんな適当な匂いのする要約でいいのか。
というか孔子なかなかひどいな。ばっさり切り捨ててるよ。死者に鞭打ってるよ。
俺は、と彼は続ける。
「来ない相手を待ち続けるほどお人よしじゃないし、そんな相手のために死ぬ気もさらさらない。でも、諦める気はもっとない。だから、迎えに来た」
何が「だから」なのかよくわからない。でもこの「わからない」はわくわくする「わからない」だ。
思わず口元が緩む。
ああ、こんな人なんだ、と。
いまさら気付くことではなく、私は知っていたのだ。
彼の考えていることはわからないし、そもそも人が考えていることなどわからなくて当然だけれど。
それでも、彼と過ごした時間は私に何かを残したのだ。こうして彼の話を聞くたびに、どこか懐かしいと感じられるだけの何かを。
「別に教室にいたところで死にはしませんよ」
雨もまあまあ降ってますし雷はひどいですけど、と仰ぐように窓を示す。薄い灰色の雲が空を覆っているが、さほど暗くはない。
「死にはしないが時間の無駄だ」
教育実習生は忙しいんだからな、と彼は釘を刺す。
「それ、結局古典に学ぶのと関係ないんじゃ……」
そこはかとなく感じていた疑問を口に出してみる。
「いいだろう、古典から何を学ぶかは解釈の問題だ。待つしか能がない犬じゃあるまいし、迎えに来て何が悪い。ずっと待っていたところでほだされてくれるわけでもないくせに、文句つけるな」
半ば開き直ったように彼は言う。
解釈と呼ぶにはあまりにも飛躍しているとか、能がないなんて犬に失礼だとか、言い返したいことはたくさんあったけれど。
我慢できずに噴き出した。
そう、私は知っている。
だから、こわくない。




