5月25日 金曜日 黒板消しと金魚掬い6
俺に悟りを開かせたい奴なんかいないだろうが、と彼は少し皮肉げに、淡く微笑む。
「お前を失うのはこわいと思う」
どんな反応を返していいのかわからない。
「なんで、そんな話をするんですか」
「俺がこの話を読んだのは高校生の時だ。思春期にこの話はトラウマものだぞ。妙に印象に残っている」
本気かどうか、やけに真剣な顔の彼は語る。
まったくもう。どうしようもなくおかしくて切なくて、自分がどんな表情を浮かべているのかわからなくなる。
「だから、試すことにした」
試すって、何を?
彼を見つめて、なぜだかぞわりと肌が粟立つ。
「正体を見破る方法はふたつある。ひとつは名を暴くこと」
彼は教卓から身を起こす。
「そしてもうひとつは、殺すこと」
「な……なに、を」
彼がなんでいきなりそんなことを言いだしたのかわからず、困惑する。
彼は、微笑んだままこちらを見ている。
目が怖い。笑みが怖い。声が怖い。
なんで、そんな話を、するの。
「死んでまで正体を隠し続けるのは並大抵のことじゃないらしい」
あっただろう、普賢菩薩に化けて僧侶をだまし、結局猟師に矢を射かけられて本性を現した狸の話が、と彼は続ける。
「正体を見破られれば留まってはいられない。狸でも菩薩でも。名を暴けば本性を現す。そのあとは、消えるか開き直るかだろう。早めに知っておいた方が、傷が浅くて済む」
この場に不似合いな古典の話をもちだされて、そんなところはいつもの彼と同じのはずなのに緊張が解けない。
「だが、信心深い方じゃないからな。俺はその名を知らない」
普賢菩薩だか何だか忘れてしまった、と思い出せないらしい彼は首を傾げる仕草をする。
教室の前にいる彼と、後ろにいる私と、その間に並べられた机に椅子。
頭の芯がさめるように、自分の状況をどこか客観的に見ている気がする。
だからいっそ、信心をもたない猟師のように、と彼は私を見据えたまま告げる。
「この手で、殺してみようか」
彼と机と椅子、そして私。
世界が、崩れた。




