5月25日 金曜日 黒板消しと金魚掬い3
そうか、と彼は少し驚いたようにしつつも頷く。
「どうして待っていたか、訊いてもいいか」
教室の前には彼が、後ろには私がいて、視線が一瞬交錯した。手元に目を落とす。
さっき後ろの黒板へと移した、短いチョークの色に、私の手が染まっている。白と黄色と少しピンクが入り混じった、不自然な色の手だ。
「会えるのが当たり前だと思っていました。きっと、今日も来るだろうって」
「ああ、来た」
遅くなったが、と少し笑って彼は言う。
「困りますね」
ふっと、息をつく。両の手のひらをこすって、チョークの粉を払い落そうとする。
「何がだ」
こすっても、落ちない色はピンク。
ほかの色も完全には落ちていないだろうけれど、肌の色に近いためかさほど目立たない。ああ、帰る前に手を洗わなければ、と心に留める。
「『一期一会』って言葉があるでしょう?」
四字熟語の中でも人気が高いもののひとつだ。よく座右の銘として挙げられる。
ああ、と彼はいぶかしげにしながらも私の言葉に耳を傾ける。
「それって、限られた時間の中で、出会いを大切にして楽しみなさい、という意味だと思ってたんです。その出会いが終わっても、ああ楽しかったな、と振り返れるように。別れるのは当然だから、別れが来ないように努力するなんて考えたことは一度もなくて」
電気もつけていない、曇り空の教室の中にいるからだろうか。手のひらのピンクのチョークの跡は、やけに赤く目立つ。
「縁日の金魚みたいなものです」
手のひらに残る、赤くぼんやりとした形は、なぜか連想の果てに金魚となる。
思い出す。安っぽいプラスチックの水槽の中を、ひらひらと泳いでいた小さな金魚の群れ。掬うことができなくて、結局はおまけだと1匹袋に入れてもらった。私はその金魚を、何と呼んだのだろう。
「自分のものにしても長くは続かない。名前をつけてもすぐに死んでしまう。だから私は、最初から金魚掬いはしないんです」
ああ、金魚が泳いでいたな、楽しかったな、という縁日の記憶だけを振り返れるように。
それなのに。
うっかり、あなたには。
「情が移ってしまったようです」
だから、困ります、と続けてから、もっとふさわしい言葉を見つけた。
「芳賀さんがいなくてさみしいと思いました」
あなたがいないとさみしい。
これほどぴったりな表現は見つからない。
まだきっと、恋よりも淡いけれど。それでも、ゆるやかに育っていく、何か。
このまま別れてしまうのは惜しい。もう他人には戻れない。




