表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/95

5月25日 金曜日  黒板消しと金魚掬い3

 そうか、と彼は少し驚いたようにしつつも頷く。

「どうして待っていたか、訊いてもいいか」


 教室の前には彼が、後ろには私がいて、視線が一瞬交錯した。手元に目を落とす。

 さっき後ろの黒板へと移した、短いチョークの色に、私の手が染まっている。白と黄色と少しピンクが入り混じった、不自然な色の手だ。

「会えるのが当たり前だと思っていました。きっと、今日も来るだろうって」

「ああ、来た」

 遅くなったが、と少し笑って彼は言う。

「困りますね」

 ふっと、息をつく。両の手のひらをこすって、チョークの粉を払い落そうとする。

「何がだ」

 こすっても、落ちない色はピンク。

 ほかの色も完全には落ちていないだろうけれど、肌の色に近いためかさほど目立たない。ああ、帰る前に手を洗わなければ、と心に留める。


「『一期一会』って言葉があるでしょう?」

 四字熟語の中でも人気が高いもののひとつだ。よく座右の銘として挙げられる。

 ああ、と彼はいぶかしげにしながらも私の言葉に耳を傾ける。

「それって、限られた時間の中で、出会いを大切にして楽しみなさい、という意味だと思ってたんです。その出会いが終わっても、ああ楽しかったな、と振り返れるように。別れるのは当然だから、別れが来ないように努力するなんて考えたことは一度もなくて」

 電気もつけていない、曇り空の教室の中にいるからだろうか。手のひらのピンクのチョークの跡は、やけに赤く目立つ。

「縁日の金魚みたいなものです」

 手のひらに残る、赤くぼんやりとした形は、なぜか連想の果てに金魚となる。


 思い出す。安っぽいプラスチックの水槽の中を、ひらひらと泳いでいた小さな金魚の群れ。掬うことができなくて、結局はおまけだと1匹袋に入れてもらった。私はその金魚を、何と呼んだのだろう。

「自分のものにしても長くは続かない。名前をつけてもすぐに死んでしまう。だから私は、最初から金魚掬いはしないんです」

 ああ、金魚が泳いでいたな、楽しかったな、という縁日の記憶だけを振り返れるように。

 それなのに。

 うっかり、あなたには。

「情が移ってしまったようです」

 だから、困ります、と続けてから、もっとふさわしい言葉を見つけた。


「芳賀さんがいなくてさみしいと思いました」


 あなたがいないとさみしい。

 これほどぴったりな表現は見つからない。

 まだきっと、恋よりも淡いけれど。それでも、ゆるやかに育っていく、何か。

 このまま別れてしまうのは惜しい。もう他人には戻れない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ