5月24日 木曜日 黒板消しとエメラルドの都4
「とりあえず信じてみながら向き合うのが、私のやり方なんです」
だから向き合っていないわけじゃないんですよ、と説明を終えた。
「そうか」
少し考えたらしい間があって、そのあと彼は頷いてくれた。
それで、と彼は無表情に言う。
「俺が言ったことも、黒板の裏側にいるバケモノと同じくらいに信じてくれているということか」
うわ、嫌味きました。
「いや、まあそういうことなんですけど、それだけじゃなくて」
慌てて言葉を足す。
「黒板の裏側に何もいないのはなんとなくわかってるんですけど、判断は保留にしときたいなということで信じたままにしてるんです。芳賀さんが言ったことは、どうしたらいいのかわからなくて、でもとりあえず信じてるうちに実感がわいてきて」
言葉を探す。
「芳賀さんの言ったことが嘘だったら、黒板の裏側に何もいないってわかるよりも、宮口くんが天使じゃないってわかるよりも、きっとずっと寂しいです」
たぶん、これが考えていることに一番近いはず、と言葉を紡ぐ。
「そうか」
今度はちょっと満足げに、彼は頷いた。
「前にも言ったが、俺は本気だから安心して信じておけ」
あれ。私なんて言った? なんか結構すごいこと言ったような気がする。
まあいいか、深く考えないことにしよう。
教卓を挟んで私は教壇の上、彼は教壇の下にいる。20cmほど、教壇の分だけ私の背が高くなり、それでも眼鏡越しの彼の瞳は、私の目線とほぼ同じ高さにある。
話は戻るが、そもそも、と彼は尋ねる。
「どうして、とりあえず信じてみることにしているんだ?」
「憧れているから、でしょうか。私の知らないものに」
ふふ、と笑う。幾分か似合わないいたずらっぽさをブレンドして。
「非日常は憧れです」
淡い淡い、憧れ。
今の日常は、楽しくて、ゆるやかで、十分に満足だけれど。
私の知らない何かに、それがある世界に、憧れずにはいられない。
「まあ、ただ憧れているだけですけど。竜巻に巻き込まれるのは遠慮したいですし」
魔法の国へと、家ごと吹き飛ばされたドロシーのように。実際、憧れだけでどうにかなるほど竜巻の威力はかわいいものじゃない。
竜巻ってなんだ、と小さく呟いてから、彼はあっさり告げた。
「いいんじゃないか」
肯定された。ただ単純に、受け入れられた。
ああ、確かに、不安になる。
本当にそれでいいのか、問いただしたくなる。
ああ、こういうことなのか。
受け入れるだけではなく、拒むことも向き合うためには必要なのだと。彼の言ったことをいまさら実感する。
「憧れ、の語源はあくがれ、つまりあるべきところから遠く離れることを指す」
へえ、そうなのか。
いきなり語源の話をされて面食らうが、でもそれが彼らしいと感じられて少しおかしい。
「でも、お前はちゃんと『あるべきところ』にいる。現実を否定して空想に逃げ込んでるわけじゃないし、憧れるくらい勝手にしろ」
向き合ったうえで、彼なりの解釈をしたうえで受け入れることにしたのだ、と。そう暗に示して私を安心させるところは、ああ敵わないな、と思ってしまう。
ああでも、理保、と彼は何か思いついたようににやりと笑った。
「非日常なんてすぐに手に入る」
あっさりとのたまう。本当に?
「恋愛も、お前にとっての『非日常』だろう」
そうか、なるほど。そういう考え方もあるんだ。
これは盲点だった。
恋をすれば、出会えるのだろうか。
私が憧れていたものに。知らなくて、知りたくて、心のどこかで待ち望んでいたものに。
……あ、まずい。
今、流されそうになった。
「欲しければ言え。すぐくれてやる」
細められた目は思いがけず優しくて、困る。
「まだいりません」
「それは残念」
全然残念じゃなさそうだ。
この人の笑う顔はなかなか好きだと思う。
何か企むような笑みでなければの話だけれど。




