5月24日 木曜日 黒板消しとエメラルドの都1
非日常なんてすぐに手に入る。
理保、と彼は呼びかける。黒板消しを叩く私の背中に。
部活が終わったあと、いつものように教室に戻ってきて黒板消しの掃除を始めると、どこからともなく私のクラスの教育実習生である芳賀さんがやってきた。
ふと思うが、なぜ彼は私が背中を向けているときに話しかけるのだろう。
「なんですか」
ベランダの柵の外に腕を伸ばした状態のまま、ちらりと振り向く。
彼は教卓に肘をつき、組んだ手の上に顎をのせてこちらを見ていた。教壇に登らずにそんな姿勢がとれるくらいには背が高いようだ。
一瞬目が合い、しかし彼は口を開かなかったので、両手にひとつずつ構えた黒板消しに視線を戻す。
黒板消し同士ぽふっと音を立ててぶつかるたびに、チョークの白い粉が飛ぶ。
理保、とまた彼が私の名を呼ぶ。
「お前のことを好きになる予定だ、と言ったのは覚えているか?」
今度は振り向かずに言葉を返す。
「まあ、覚えてますよ」
あれは驚きだった。忘れているわけがないじゃないか。まあ、そのときに私のやらかした勘違いもかなりのものだったので、積極的に思い出したくはないけれど。
それなら、と彼は問う。
「なんで訊かないんだ? 自分のどこが好きなのかとか、好きになったきっかけはなんだとか」
なんだそれ。
一瞬耳を疑った。
黒板消しが手から滑り落ちそうになり、慌てて腕を体に引き寄せる。
この質問は予想外にもほどがある。どんな乙女ちっくクエスチョンだ。私がそんなこと口にするわけがないじゃないか。
そうか、このタイミングで話しかけるのは、私に黒板消しをベランダから落とさせたいからだな。そうに違いない。
黒板消し落下対策のために、ベランダの柵の内側に伸ばした腕の先がくるように、体の向きを斜めにする。その格好になると、彼の姿が目の端に入る。
「なんで、っていわれても」
困惑したまま言葉を選ぼうとする。
そんなこっぱずかしい会話したいのか、この人は。私はごめんだ。絶対にごめんだ。
「訊いてほしいんですか?」
おそるおそる、尋ねる。訊いてほしいと答えられたらどうしよう。逃げるか。あ、でも昨日逃げないと宣言しちゃったし。
「別にそれほどでもないが、まあ解答くらいは準備している」
私の逡巡をよそに、彼はさらりと返す。
それほどでもないのか。よかった。
いや、よくないか。準備しているってなんだ。用意がいい、とでも褒めればいいのか。反応に困る。
「興味がないのか?」
彼は重ねて問うてくる。
興味がない、というわけではない気がする。
なんというか、要するに。
「いや、芳賀さんが言うならそうなんだろうと思ってました」
正直なところを告げる。改めて言葉にしてみると適当だな、とは自分でも思うのだが、実際そうなのだから仕方ない。




