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5月23日 水曜日  黒板消しと青写真6

「大丈夫です。昔の美人さんの話なんてもちださないでください。心配しすぎですよ」


「心配はしていないが」

 わかっていた。これは心配じゃない。彼なりの気づかいだ。

 逃げるな。逃げることは許されない。そう口にするのは。

 あえて口に出すことで私の背中を押す。立ち止りがちな私に、考えることを促す。

 追い詰めたくない、という言葉通りに、彼は私に選ばせてくれている。

 追い詰められたら、選べない。追い詰められて逃げるのは、逃げる以外の方法がないからだ。

 逃げることはつらいから。考えないことは苦しいから。ひたすら睡眠に逃げ続けた週末の経験から、はからずも学んだことだ。

 たぶん、向き合うことよりもずっと苦しくつらい。

 逃げると、きっと後悔する。


 理保、と吐息とともに彼は呼ぶ。


「あのあと、来ないかと思っていた。月曜には」


 ぽつりと、まるでひとりごとのようにそう語る。

 その声がやけに弱々しくて、思わず黒板の掃除をやめて彼の方を向く。

 月曜日の放課後。私は、この教室にやってきた。

 彼から逃げたいにも関わらず。

「まあ、そういう手もありましたね」

 金曜日にやらかした失態に対する、後悔と自己嫌悪の憂鬱を思い出す。彼に会うのが気まずくて、おそれていた。朝などは目も合わせなかった。

 帰ればよかった、のだろうか。部活が終わったあとまっすぐに。そうすれば、この人に会わないで済んだけれど。

「どうして、来たんだ」

 どうして、と聞かれても困る。月曜日は嘘にまみれた学校生活に疲れ、たいして考えていなかった気もする。


 ふと昨日の会話を思い出した。

『お前に会いに来た、とでも答えたらいいのか?』

 彼の答えを拝借してみることにする。

「あなたに会いに、とでも答えればいいですか」

 昨日のお返しだ。ちょっとは慌てふためけばいい。

「その答えはなかなかいいな」

 彼にそう平然と言われてしまったので、私の方が慌てて本当のところを告げる。

「正直、芳賀さんが来るとは思ってなかったんですよね」

 彼は呆れたように苦笑を漏らす。

「覚悟しろ、と言っておいたはずだが」

 確かにそう言われたけれど。

「いや、なんというかそれどころじゃなくて、覚悟はできてませんでしたし」


 目を閉じて、意識を鈍らせて。ただ逃げたくて、そして逃げようとした。

 それでも、逃げられなかったから、あの日は彼と会いたくなかったのだ。

 でも。


「あのとき、会えてよかったと思います。話すことができて。そうじゃなかったら、ずっと逃げていました」


 そして今、自信をもって「逃げません」と答えられなかった。

 逃げることは苦しくて、向き合わないことはつらくて、それなのに話をする勇気はなくて。そんな中途半端な状態から抜け出すことができたのは、結局彼と会って、話ができたからだ。

 

 そうか、とだけ彼は言って、言葉は途切れる。

 沈黙の中、黒板をふく。さーっというなでるような音だけが、規則正しく教室に響く。

 真間の手児奈に思いをはせて、でも彼女が何を思ったのかなど結局はわからない。

 チョークの跡から解放された部分が黒板消しの幅だけ広がって、やがて黒板を埋め尽くしていく。


 しかし。

 手を動かしながら、ちょっと考えてしまう。

 あんなに簡単に「逃げません」と言ってしまってよかったのだろうか。一抹の不安がよぎる。


 でも。

 まあいいか。

 そう思えてしまうほどに、この沈黙は優しく、心地よい。

 まあいいか、とりあえず今は。

教育実習8日目のお話です。

なんなんでしょう、ブラジリア。

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