5月23日 水曜日 黒板消しと青写真5
逃げるな、という彼の言葉はあまりにも唐突だったけれど。
私の答えるべきことなのは。
「逃げません」
何から逃げてはいけないのか。
彼が口にはしなくても、どうしてか理解できた。
彼の思いから、自分の気持ちから、逃げてはいけない。いくら私が優柔不断で問題先送りで他力本願な人間だとしても、色恋沙汰が苦手でも、それでも向き合わなくてはならないとわかっている。
「俺は、お前を追い詰めたくないが」
答えを出すことを恐れるな。考えることを避けるな。追い詰めたくはなくても、答えを、結果を、求めずにはいられない。
声には出さなくても、彼はそう語っていた。
「そんなに柔じゃないですよ」
安心させるように微笑んでみる。
そう、私は大丈夫。いつの間にか、彼といても緊張しなくなった。彼との会話の呼吸に慣れた。彼との時間が心地よくなった気さえする。
だから、大丈夫。
だいたい、と黒板をふくのを再開させつつ言う。
「昔の人はあっさり死にすぎですよ」
上下方向に黒板消しを滑らせるとチョークの跡が消え、黒みがかった緑の黒板の地肌が姿を現す。黒板を動かしながら、話を続ける。
「ずっと思ってたんですけど、梓弓の女の人ってほんとに走って転んだだけで亡くなったんですか?」
授業で習ってからずっと不思議だった。
男から三年ほったらかしにされたら離婚が成立する。
そんな時代に、長い間男の訪れがなかった女。そんな女の元に、ちょうど三年目になろうとする日に男が帰ってくる。そのときには女の元に新しい男との約束があり、昔の男を追い返そうとする。男はあっさり帰ってしまい、未練のある女は後を追いかけるが追いつけず「はかなくなる」。
そのときに指に血をつけて恨み、もとい辞世の歌を詠んだというからこわい。
あれ、私の要約も結構情緒がない。
まあとにかく、私がいいたいのは、いくらなんでも人間、ちょっと走って転んだだけで死にはしないだろうってことだ。
「『はかなくなりにけり』か。失意のうちに死んだ、って話だろうが、確かにあっさり死にすぎではあるな。まあ、あの時代の女性は文字通り箱入り娘で運動不足だから、ありうる話ではあるが」
彼の声は楽しそうに弾む。こういう話は本当に好きらしい。
健康を保つには、栄養バランスのとれた食事と規則正しい生活、適度な運動が必要です。そうか、運動不足か。
「生まれて初めての全力疾走で即死ですか……」
なんとなく間抜けだ。
「清少納言も病気になるなら心臓病や脚気が素敵だと書いていたしな」
現代の難病モノの物語に通じる思考だな、と彼は皮肉げに少し笑って付け加えた。
いや、いくら素敵な病気だからって走って死ぬのはごめんだな。
逃げるな、と告げたときよりは和らいだ口調で、しかし真剣に彼は続けた。
「お前は梓弓のようにはならない。思いが途絶えることはない」
ああそうですか、と彼の方を向かずに黒板をふくのに専念することにする。
ここは深追い厳禁だ。危険な匂いがする。
うん、とにかく命は大事にね、って話だ。




